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雷電は紫電改より高性能か? 備後ピート 11/10/4(火) 19:40

川西が台頭したことの意味 11/10/9(日) 0:55
┗ 坂東、関口両氏のその後は NG151/20 11/10/23(日) 11:49
┣ 自己レスと補足 NG151/20 11/10/23(日) 20:33
┃┣ 航空機製造事業法によるくびき 11/10/24(月) 4:04
┃┗ Re:自己レスと補足 16/9/19(月) 1:47
┗ Re:坂東、関口両氏のその後は 矢部俊男 14/1/6(月) 12:40
┗ Re:坂東、関口両氏のその後は 14/1/8(水) 5:23
┗ Re:坂東、関口両氏のその後は 矢部俊男 14/2/4(火) 16:36
┗ Re:坂東、関口両氏のその後は 14/2/5(水) 14:14

川西が台頭したことの意味
   - 11/10/9(日) 0:55 -
  
第一次世界大戦終結直後に日本陸海軍が本格的に「航空」を指向しなければならなくなったとき、飛行機の製造に利用可能なメーカーはほぼ三菱、中島だけでした。これがこの二社(三菱は航空機製作部門)を巨大なものに成長させてゆくことになるわけなのですが、しかしながら、特に三菱は、その発祥の経緯からして政府・官側に対する独立心が強く、いざという場合の統制がとりにくい難を抱えていました。
(烈風の発動機選定で海軍に対して強硬に批判的立場をとった堀越二郎、中攻の四発化を主張して空技廠長から一喝された本庄季郎を思い出してみると良いです)

こうした傾向に対して、海軍(この場合のその中心は山本五十六)はいまだ軍需には未利用だった別会社に対して徹底的な天下り策を強行し、海軍の意のままになる新しい巨大メーカーを作り上げることを企図します。これが川西でした。

航空機メーカーとしての川西は、そもそも中島が軍需寄りになることに難を示して分派した川西清兵衛、坂東舜一(経営)、関口英二(設計)らが作り上げ、国内民間航空航路用の小規模な旅客輸送機を作っているくらいの会社でした。

これ対して、まず山本が個人的に知っていた広廠の橋口義男造兵少佐(ロンドン軍縮会議で山本五十六全権の秘書官でした)が、山本からの直命を受けて送り込まれ、設計課長に据えられます。彼は、川西をして(海軍航空の中核的打撃戦力である)海軍大型飛行艇の試製計画を推進せよとの山本の厳命を受けていました。
全金属製大型飛行艇は、かつては三菱をそのメーカーと育てるべく三菱とロールバッハを合弁させるなどの方策をとりながらも、うまく進展せずにあった分野でした。

ともあれこれにより、川西の社内環境は劇的に海軍寄りに変わり、坂東、関口たちは排除され、退社を余儀なくされてしまいます。
橋口が設計課長となるのと同時に、川西に対して「高速水上戦闘機」を作らせるというプランも生まれます。これがのちに強風、紫電改につながってゆくその端緒です。

川西にはさらに、ふたりの海軍将官が経営者として天下りします。枝原百合一中将と前原謙治中将であり、ともに前職は海軍航空廠長にあった顕官でした。枝原は会社顧問ながらも決裁権を持つ副社長格、前原は副社長兼専務取締役で、ともに事実上の会社代表の立場に立ちます。

このように、川西とは、海軍によって作られた、海軍のための、海軍機メーカーなのであり、行く末は海軍主力機の開発・生産の中核となることを期待されていたものです。
この会社が大戦末期に第二軍需廠として国営化されたのは偶然ではなく(そのとき二軍廠長官となったのは川西一族のだれかではなく、ほかならぬ前原謙治でした)、また、三菱に替わって主力戦闘機のメーカーとなっていったのも偶然ではありません。そうなるべくして敷かれたレールがあったからなのです。
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坂東、関口両氏のその後は
 NG151/20  - 11/10/23(日) 11:49 -
  
 片様
 詳細な解説ありがとうございます。
 関連質問お願いします。

>川西は、そもそも中島が軍需寄りになることに難を示して
>分派した川西清兵衛、坂東舜一(経営)、関口英二(設計)
>らが作り上げ、

>川西の社内環境は劇的に海軍寄りに変わり、
>坂東、関口たちは排除され、退社を余儀なくされてしまいます。

 軍需依存を嫌って川西を作った人々が、その会社が海軍に乗っ取られて再度退社を強いられるという悲哀を味わったわけですが、彼らのその後のことがよくわかりません。

 彼らが起こした日本航空工業が、國際工業と合併して日本国際航空工業となり、現存する日産車体の母体となったことまでは調べ(ここの過去ログでも呼んだ記憶がありますが、URLが見つからりません)ましたが、上記両氏、行動を共にした戸川不二男氏らの消息がわかりません。

 また日本航空工業の活動実態、製造実績も、ネット検索の範囲では発見できません。合併後の日本国際航空工業が戦争末期にキ-105を作っていたのは以前から知っていましたが、軍需を嫌った彼らも結局は軍需の軛から逃れられなかったのでしょうか?
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自己レスと補足
 NG151/20  - 11/10/23(日) 20:33 -
  
 片様、他皆様
 
 その後、「戸川不二男」単独で再度検索したところ、
大阪時事新報 昭和12.5.6の記事を見つけました。

新聞記事文庫 : 大阪時事新報 1937.5.6(神戸大図書館による)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00323524&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=null

 私の疑問の一つが、日本国際航空が生産していたラチエの
プロペラは、いつから、日本航空工業時代から導入されて
いたのかでしたが、紹介文中に

>フランス・ラケエー会社のプロペラ製造特許権買収も成って

とあり、当初から製造権を入手していたことを知りました。


 残る疑問は、

1)海軍主導を嫌って川西を飛び出した坂東氏らに、軍への依存(莫大な軍需と最先端技術の提供)なしに、部品ではなくフルラインナップの機体メーカーになれる成算を本当に持っていたのでしょうか?

2)ラチエのプロペラは、海軍主導による住友金属−ハミルトンのデファクトスタンダードを嫌う陸軍によって促進されたとされていますが、日本航空工業は、それを含みで当初から陸軍の支援を受けていたのでしょうか?

3)日本国際航空のその後を鑑みても、当時の日本で軍需や行政の支援に拠らない純粋な民間航空が成立する余地が有り得たのでしょうか?

4)坂東、関口、戸川三氏の日本国際航空での地位や、戦後の消息がわかりません。財閥の家系の川西龍二などはともかく、さしたる後ろ盾がない彼らの数奇な人生の結末が気になります。


 皆様のご教示を頂ければ幸甚です。

 NG151/20拝
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航空機製造事業法によるくびき
   - 11/10/24(月) 4:04 -
  
>  また日本航空工業の活動実態、製造実績も、ネット検索の範囲では発見できません。合併後の日本国際航空工業が戦争末期にキ-105を作っていたのは以前から知っていましたが、軍需を嫌った彼らも結局は軍需の軛から逃れられなかったのでしょうか?

川西を辞めるこのグループの人たちは、はじめ川西財閥の資金で別会社を作ろうとしていました。坂東氏が川西龍三氏の慶應同級生ということから始めたことでしたから、その先の支援も約束があってのことだったのです。ですが、これがうまく行かず、結局別のスポンサーを求めることになります。これが南海電鉄社長寺田甚吉氏でした。
昭和12年4月川西を辞めるにあたっては円満退社という形を取ってもらい、翌5月には寺田甚吉単独資本による日本航空工業株式会社が設立されます。
しかし、時代悪く、7月以降日中戦争が勃発し、13年3月には国家総動員法と、それに連動した航空機製造事業法が成立し、あらゆる航空機製造は国家統制の下に置かれることになります。

日本航空工業は、大日本航空での運用を狙う民間用輸送機TK−3(寺田航空機の略)を開発します。こうしたことが、川西を出た彼らの「道」だったわけです。
完成したTK−3は、航空局の堪航証明書を取ることが出来ましたが、肝心のユーザーである大日本航空の実用審査で不合格とされてしまいます。ここへ陸軍が手を延ばし、TK−3の改良型がキ59として試作内示されます。以降、陸軍管理工場となり、陸軍からの発注に沿う以外に会社を維持することは不可能になります。
(つづく、ということにさせて下さい)
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Re:坂東、関口両氏のその後は
 矢部俊男 E-MAIL  - 14/1/6(月) 12:40 -
  
はじめまして、矢部といいます。
私の祖父が関口英二氏の弟であることを最近知りました。
今月、ご子息にお会いしてお話を聞く予定です。
祖父の兄が軍需を嫌った理由や痕跡はどこかで知る事が可能でしょうか?
関口英二氏は、古くから佐野で医者をやっている家系で4男1女の次男です。
男子は、英二氏以外は医者になりました。私の祖父は矢部に養子にきた関口要三といいます。
関口英二氏は昭和56年に84歳で亡くなられたそうです。
昭和20年から何をやっていたをご子息にヒアリングしてまいります。
なにか、アドバイス、質問事項がごさいました聞いて参ります。
よろしくお願いします。


>  片様
>  詳細な解説ありがとうございます。
>  関連質問お願いします。
>
> >川西は、そもそも中島が軍需寄りになることに難を示して
> >分派した川西清兵衛、坂東舜一(経営)、関口英二(設計)
> >らが作り上げ、
>
> >川西の社内環境は劇的に海軍寄りに変わり、
> >坂東、関口たちは排除され、退社を余儀なくされてしまいます。
>
>  軍需依存を嫌って川西を作った人々が、その会社が海軍に乗っ取られて再度退社を強いられるという悲哀を味わったわけですが、彼らのその後のことがよくわかりません。
>
>  彼らが起こした日本航空工業が、國際工業と合併して日本国際航空工業となり、現存する日産車体の母体となったことまでは調べ(ここの過去ログでも呼んだ記憶がありますが、URLが見つからりません)ましたが、上記両氏、行動を共にした戸川不二男氏らの消息がわかりません。
>
>  また日本航空工業の活動実態、製造実績も、ネット検索の範囲では発見できません。合併後の日本国際航空工業が戦争末期にキ-105を作っていたのは以前から知っていましたが、軍需を嫌った彼らも結局は軍需の軛から逃れられなかったのでしょうか?
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Re:坂東、関口両氏のその後は
   - 14/1/8(水) 5:23 -
  
> はじめまして、矢部といいます。
> 私の祖父が関口英二氏の弟であることを最近知りました。
> 今月、ご子息にお会いしてお話を聞く予定です。
> 祖父の兄が軍需を嫌った理由や痕跡はどこかで知る事が可能でしょうか?
> 関口英二氏は、古くから佐野で医者をやっている家系で4男1女の次男です。
> 男子は、英二氏以外は医者になりました。私の祖父は矢部に養子にきた関口要三といいます。
> 関口英二氏は昭和56年に84歳で亡くなられたそうです。
> 昭和20年から何をやっていたをご子息にヒアリングしてまいります。
> なにか、アドバイス、質問事項がごさいました聞いて参ります。
> よろしくお願いします。

出来ましたら、軍用機である九四水偵を設計することになった関口さんの御心境、川西が海軍飛行艇メーカーとなるに至ってから退社されたあたりの御心境などがわかるとありがたいです。
そういうことはお身内の方でなければ察し得ないことかもしれませんし。
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Re:坂東、関口両氏のその後は
 矢部俊男 E-MAIL  - 14/2/4(火) 16:36 -
  
> 出来ましたら、軍用機である九四水偵を設計することになった関口さんの御心境、川西が海軍飛行艇メーカーとなるに至ってから退社されたあたりの御心境などがわかるとありがたいです。
> そういうことはお身内の方でなければ察し得ないことかもしれませんし。

片さま
関口英二さんのご遺族にお会いしてきました。息子さも80歳を超えていましたがお元気でした。
つもるお話はも沢山ありましたが、英二さんが晩年書き残された、出版をしようと思った原稿を頂きました。タイトルは「大正7年より終戦までの飛行機およびプロペラ設計制作について」関口英二というタイトルでした。かなり殴り書きなので現在清書中です。
実際に読んでみると軍需をきらった形跡はなかったのですが軍人とはそりが会わなかったようです。
終戦まじかにキ105の件で南方送りになりそうになった話がかいてありました。川西を去る事は残念だったようですが九四水偵が尊敬するドイツが日本の飛行機を買ってくれてことが嬉しかったと書いてありました。晩年は建築に興味を持っており大往生されたそうです。
今、清書中ですが、まとまったらどこかで公開したいと思います。
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Re:坂東、関口両氏のその後は
   - 14/2/5(水) 14:14 -
  
ありがとうございます。
ぜひ拝読させていただきたいです。
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Re:自己レスと補足
   - 16/9/19(月) 1:47 -
  
こんばんは。もう2年も前の投稿になるので見ている方がいらっしゃるか分かりませんが、偶然見つけたので補足の回答をさせていただきます。

> 2)ラチエのプロペラは、海軍主導による住友金属−ハミルトンのデファクトスタンダードを嫌う陸軍によって促進されたとされていますが、日本航空工業は、それを含みで当初から陸軍の支援を受けていたのでしょうか?

 陸軍の支援を最初から受けていたか、明確なことはわかりませんが譲り受けたラチエで最初に作ったのがキ二一用のプロペラだったこと、陸軍の内部でハミルトンを嫌う派閥の後押しによってラチエは改良・発注された様子であることを考えるとありえないことではありません。また、ラチエの特許を坂東氏が南海電鉄社長の寺田甚吉から譲り受けたことが独立の契機だったようです。
その後も役員や技師に陸軍から入社した人々が就き、終戦までク八やプロペラの設計生産を行っていました。


> 4)坂東、関口、戸川三氏の日本国際航空での地位や、戦後の消息がわかりません。財閥の家系の川西龍二などはともかく、さしたる後ろ盾がない彼らの数奇な人生の結末が気になります。
坂東氏は専務、戸川氏は重役として、関口氏は取締役設計部長をされていました。
戦後、坂東氏は戦犯リストに名前を連ねています。
その他の人々は戦犯にはならなかったものの、公職追放によって日本国際航空を退職。表舞台に立つことなく静かに余生を過ごされたようです。
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