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第一次世界大戦終結直後に日本陸海軍が本格的に「航空」を指向しなければならなくなったとき、飛行機の製造に利用可能なメーカーはほぼ三菱、中島だけでした。これがこの二社(三菱は航空機製作部門)を巨大なものに成長させてゆくことになるわけなのですが、しかしながら、特に三菱は、その発祥の経緯からして政府・官側に対する独立心が強く、いざという場合の統制がとりにくい難を抱えていました。
(烈風の発動機選定で海軍に対して強硬に批判的立場をとった堀越二郎、中攻の四発化を主張して空技廠長から一喝された本庄季郎を思い出してみると良いです)
こうした傾向に対して、海軍(この場合のその中心は山本五十六)はいまだ軍需には未利用だった別会社に対して徹底的な天下り策を強行し、海軍の意のままになる新しい巨大メーカーを作り上げることを企図します。これが川西でした。
航空機メーカーとしての川西は、そもそも中島が軍需寄りになることに難を示して分派した川西清兵衛、坂東舜一(経営)、関口英二(設計)らが作り上げ、国内民間航空航路用の小規模な旅客輸送機を作っているくらいの会社でした。
これ対して、まず山本が個人的に知っていた広廠の橋口義男造兵少佐(ロンドン軍縮会議で山本五十六全権の秘書官でした)が、山本からの直命を受けて送り込まれ、設計課長に据えられます。彼は、川西をして(海軍航空の中核的打撃戦力である)海軍大型飛行艇の試製計画を推進せよとの山本の厳命を受けていました。
全金属製大型飛行艇は、かつては三菱をそのメーカーと育てるべく三菱とロールバッハを合弁させるなどの方策をとりながらも、うまく進展せずにあった分野でした。
ともあれこれにより、川西の社内環境は劇的に海軍寄りに変わり、坂東、関口たちは排除され、退社を余儀なくされてしまいます。
橋口が設計課長となるのと同時に、川西に対して「高速水上戦闘機」を作らせるというプランも生まれます。これがのちに強風、紫電改につながってゆくその端緒です。
川西にはさらに、ふたりの海軍将官が経営者として天下りします。枝原百合一中将と前原謙治中将であり、ともに前職は海軍航空廠長にあった顕官でした。枝原は会社顧問ながらも決裁権を持つ副社長格、前原は副社長兼専務取締役で、ともに事実上の会社代表の立場に立ちます。
このように、川西とは、海軍によって作られた、海軍のための、海軍機メーカーなのであり、行く末は海軍主力機の開発・生産の中核となることを期待されていたものです。
この会社が大戦末期に第二軍需廠として国営化されたのは偶然ではなく(そのとき二軍廠長官となったのは川西一族のだれかではなく、ほかならぬ前原謙治でした)、また、三菱に替わって主力戦闘機のメーカーとなっていったのも偶然ではありません。そうなるべくして敷かれたレールがあったからなのです。
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