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> このような話が持ち上がること自体、飛行艇マイナーメーカーだった川西が第一線で活躍するに到る成長を反映していると伴に、三菱の限界を示しているように思われます。
> これは四式戦の不評ぶりに対する五式戦の高評価と対になっていると思いませんか。三菱、中島の限界を感じさせてしまうと同時に、この時期になると、第三メーカーも最新鋭を生み出す原動力を身に付けた時代背景が前提としてあったことが伺えます。
立川の高高度戦闘機・キ94や九州飛行機の高速戦闘機・震電など、意外なメーカーが意外な機体を開発している事実はあったと思います。しかし、それをもって「中島・三菱の終焉」と結論づけてしてしまうのは、いささか早計ではないかとも思います。ロケット機の秋水が三菱で、ジェット機の橘花が中島で開発されているところを見ても、最新航空技術が両メーカーに託されていたことが伺えるのではないでしょうか。
三菱が零戦の後に成功作を生み出していないように見えるのは、雷電の失敗と烈風の迷走という印象が強烈なためではないかと思います。しかし、両者の失敗は「三菱の(設計技術力の)限界」だったのでしょうか?
雷電失敗の主要因は延長軸・紡錘胴体・半層流翼という、火星エンジンの大直径を補うための空力洗練が裏目に出たことでした。しかし、一年遅れでスタートした川西の強風も雷電とほぼ同じコンセプトで設計され、雷電ほどではないにせよやはり期待外れな結果に終わっています。
その後、ほとんど原型を留めないまでに大改修され「醜いアヒルの子」から「海軍最後の希望」に変貌した紫電改と、十四試局戦の基本デザインを踏襲したまま少数生産に終わった雷電の明暗は対照的ですが、それは「川西と三菱の技術力の差」だったのでしょうか。三菱は必ずしも雷電の悪評を座視していた訳ではなく、胴体を絞り込んだ改良私案があったと聞きます。状況が許すならば、原型を留めないほど改修され誉21型に換装した「雷電改」が343空に配備されていたかも知れません。それを許さなかった「状況」とは、ひとえに三菱の「技術力」だったのでしょうか。
烈風についても、17試艦戦の要求仕様を字面どおりに受け取るかぎり、それを実現できる機体を設計できるメーカーは存在しなかったのではないか、と思います。まだ日本海軍が母艦航空隊決戦に望みを賭けていた時代、その勝利への重責を負った過大な要求を突きつけられた烈風と、比較的制約の緩い局戦として設計された紫電を同じベースで比較するのはフェアではないと思います。結果として、出来上がった紫電改が母艦運用可能であったとしても、それは日本海軍が昭和17年に求めたモノとは違うものだった筈ですし。
四式戦の「不評」というのは、高速重武装であるはずの四式戦より軽戦的性格の五式戦、あるいは一式戦3型のほうが「良かった」とする搭乗員回想が見られることについての見解だと思いますが、そういう見解はいつの時代にでもあると思います。堀越二郎氏が96艦戦から零戦に乗り換えたとき「図体が大きくて小回りの効かない機体」という印象を持ち、「もし空戦するならどちらを選ぶ」と聞かれた搭乗員全員が96戦を選んだ、というエピソードはご存知ありませんでしょうか。
ですが、もし私が戦闘機搭乗員であったなら、高速重武装とはいえ F6F や P-51 を圧倒できる程の性能差がある訳でもない四式戦と、低空旋回戦なら絶対に負けない一式戦のどちらかに乗れと言われたら、生き残る為に後者を選ぶかも知れません。しかし戦闘機部隊の任務は生き残ることではなく、敵航空戦力を捕捉撃滅することです。たとえ 1945 年夏の戦況がどれほど絶望的で、敵戦力の撃滅なんてどう考えたって夢物語であったとしても、戦闘機隊に課せられた任務は変わりません。
では戦闘機の搭乗員ではなく、戦闘機隊の指揮官だとして、戦爆連合の艦載機群を迎撃せよとの命令を受けたなら?B-29 の空襲を免れた町や村が敵艦載機の銃爆撃を受け、一般市民が殺傷されるのを阻止することが戦闘機隊の任務だとしたら?その時に欲しいのは五式戦でしょうか、それとも四式戦でしょうか。
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