中島・半田製作所飛行場

(戦前・戦中)

中島飛行機が一九四二年に半田に進出し、海軍軍用機「天山」「彩雲」を作る新工場を建設するようになったのは、  ●希望する広さの工業用地が確保できる
 ●冬は北西・夏は南東の風が吹き、風向きが一定していて飛行機の発着に都合がよい
 ●多くの部品を作る協力工場が得やすく、労働力の確保がしやすい
 ●内海に接しており水上機の発着も出来る
などの飛行機工場建設用地として恵まれた条件を満たしていたからであった。

建設計画のあらましは、六十八・五万坪の水田・沼沢地を買い上げ埋め立て整備し、更に海面を埋め立てて四十六・五万坪の土地を造成し、合計百十五万坪の用地に、七万七千坪の工場と、二千五百四十メートルの南北滑走路及び東南方向に走る千七百九十メートルの滑走路を持つ飛行場を作るというものであった。ただし、滑走路は千メートル一本が完成しただけであった。

一九四三年(昭和十八)一月に発足した中島飛行機半田製作所は、一九四五年七月までに「天山」九七七機、「彩雲」四二七機、合計一、四〇四機を生産した。

一九四四年十二月七日に発生した東南海地震(マグニチュード8.0)に続くB-29の空襲により、従業員や市民に多くの死者が出たほか、工場も甚大な被害を受けた。

以上が「新修半田市誌(中)」の要約である。 ここで、「天山」は昭和十八年制式採用の三座艦上攻撃機で千二百六十八機を生産した。「彩雲」も同年制式採用の三座高速艦上偵察機で、誉エンジンを搭載して高度六千百メートルで最高速が毎時六百九キロの高速を出し三百九十八機を生産した。

米軍の作戦任務報告書290「中島飛行機半田製作所」(1945年7月24日)によれば、B-29七十七機がレーダー照準で五百ポンド汎用爆弾五百三十七・三トンを投下し、工場の四十四・二パーセントを破壊した。

半田飛行場の滑走路について、「あいちの航空史」に次の記事がある。 「九百二十四メートルあるとはいっても、海岸沿いに防波堤があるのでフルには使えない。『天山』や『彩雲』は飛び立たせることは出来るが着陸は出来ない。半田には名パイロットといわれた方が二人おられたが、この滑走路に着陸するには練習機の“赤とんぼ”を使う以外、方法はなかった。

終戦とともに軍需工廠は解散、中島は富士産業となり、その半田工場となった。米軍が進駐してきて『天山』が着陸できなかった短い滑走路に大きな飛行機を着陸させて半田の人たちを驚かせた。 『天山』や『彩雲』が飛び立った滑走路も道路になった。いま残る面影はあの防空壕だけである」

 半田市役所に立ち寄り、滑走路があった地域の二千五百分の一地図(半田市都市計画基本図No.17)を三百円で入手し、細かい説明を受けた。その中央(中午町)にマッチ棒の形状をした土地がある。これこそ探していた滑走路跡地であり地図上で計測すると概略値で、頭部の直径百四十メートル、軸の幅七十五メートル、全長八百九十メートル、軸の方位144度であった。

 次に現地に赴くと、頭部の東側、西側共に円形の側溝が今も農業用水路として使用されていた。西側の側溝に接して内側に、当時のものらしい小石まじりのコンクリート舗装が一部残存している(写真)。この円形部は現在では住宅、農家、工場が建っているが当時は全面舗装され、飛行機が離着陸時の方向変換に使用されたのであろう。

 軸の部分の東側は、両側二車線のアスフアルト舗装の道路が一直線に伸びている。西側は狭い農道である。この二つの道路と、その間が当時の滑走路であったと思われる。今は土盛りされ、そこにバラックの作業場がある程度で恒久的な建築物はない。滑走路の先端は、当時は海に突出していたであろうが現在は防潮堤が横切り、その上を道路が走り、更にその向こうに干拓された工場用地が広がっている。

 道路などに利用されて来たにしても、滑走路の外形が五十余年もの間、ほとんど変更されることなく今に保存されて来たのは奇跡としか言いようがない。市役所の説明によると、この地域の境界が昔のままになっているのは市街化調整区域に指定されているからであろうとのこと。史跡として現状を変更することなく完全保存を要望する。

当時の半田製作所の正門(上浜町)も、今は輸送機工業株式会社の近代的な出入口になっている。

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