桝塚飛行場

 昭和十九年以降、海軍は航空機の搭乗員を養成するため大量の予科練習生を採用した。その教育訓練の場として、岡崎市・豊田市・安城市の三市が互いに接する地域が選ばれ、三つの航空隊が設置された。

 第一岡崎航空隊(第一岡空)は安城市尾崎、橋目、柿崎、宇頭茶屋に土地を収用して開設された。ここに約六千人の志願者が入隊し、予科錬基礎教育と航空機整備教育各三ヶ月の教育を受けた後、実戦基地へ巣立って行った。
 第二岡崎航空隊(第二岡空)は豊田市上郷に開設され、ここにも約六千人の志願者が入隊した。
 第三岡崎航空隊(第三岡空)は予科錬生(十三期)の飛行練成をする練習航空隊であった。

 飛行場は、県道五十六号線と三菱自工岡崎工場との間の辺りにあったらしく、九三式中錬(赤トンボ)、艦上偵察機「彩雲」、艦上攻撃機「天山」などが配備されていた。これらの飛行機も特攻として出撃するため、予科練生と共に九州方面に 移動して行った。

 豊田市桝塚東町の柳川瀬公園内に内閣総理大臣・田中角栄書「若桜の碑」が建っている。 「建立之記 昭和五年、早期英才教育を目的に海軍飛行予科錬制度が採用された。 昭和十九年、従来の予科錬教育を改革して航空機整備技術を修得させ、のちに飛行機操縦を習得させる新しい制度が実施されることになった。

同年五月、土浦海軍航空隊分遣隊として、安城、岡崎、豊田市が交差する地点に第一、第二岡崎海軍航空隊が新設され、全国各地より厳選された一万二千余名の若者が第一期生より第八期生まで入隊して六ヵ月の短縮予科錬過程を終了して内外地の実施部隊に配属されていった。

名古屋岡崎分遣隊は、第三岡崎海軍航空隊と改編して優秀なる飛行機搭乗員を養成しのちに沖縄特別攻撃隊を編成して出陣していった。

太平洋戦争末期岡崎海軍航空隊出身の予科錬、飛錬で尊い生命を散華した数は意外に多い。その閃光にも似た十四歳より十九歳に満たんとした青春を悼んで此処に碑を建て桜を植樹永くその意を伝えるものである。

昭和四十九年十一月三日 岡空若桜会」

この碑は、矢作川畔の柳川瀬公園西側を流れる渡刈川左岸に沿う柳川瀬緑道付近にある。

 安城市尾崎町の熊野神社入口右側に「予科錬之碑」が建っている(写真)。 「此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり 自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願して選ばれた若人が六ヶ月間の猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いたる地なり

生涯を祖国に捧げんとこの地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく大空をはばたく間もなく血涙をのんだ終戦

爾来二十八年吾等相寄り相語り既に亡き戦友の慰霊を兼ねた『予科錬の碑』を建立するものである

昭和四十九年五月十五日 元第一岡崎海軍航空隊 若桜会」

熊野神社の北側に廻ってみると、一面の麦畑や水田が広がっている。ここが第一岡空跡地で戦後、開拓事業によって元の農地に産まれ替わった

この文はのご好意で転載いたしました

桝塚飛行場 補足
ここに設けられた岡崎航空隊は、その経緯はわかりませんが,岡崎競馬場(現在は無し)でも中練の飛行訓練を行っていたそうです。また、半田の中島飛行場は長さ不足で着陸できないため、半田製作所の天山、彩雲の試験、整備にも
桝塚飛行場を利用していたようです。

投稿者:松木 投稿日:2000/12/10(Sun) 13:19:52