国安牧場/六二一基地

投稿者:松村祥史 投稿日:2001/03/13(Tue)

 広島市の中央、広島城(中国軍管区司令部)より北方約40kmの高田郡八千代町には国道54号線がはしり、2kmになろうかという直線部分がある。昭和20年の初夏、ここに特攻隊用の飛行場が作られた。秘匿名称「国安牧場」、六二一基地である。  

 昭和20年6月16日、航空特攻戦備の中で、主として陸上練習機の分散待機、又は攻撃基地として簡易な秘匿航空基地を「牧場」の名称で整備することが明記され、呉方面に十六個所建設することが決定した。

  同年6月18、9日、呉鎮守府より高田郡根野、刈田両村(現・八千代町)に村境の字国安へ牧場建設の旨が通達された。もっとも、16日には設営を担当する呉鎮守府所管の海軍第五一六設営隊(長・田中技術少佐以下300名、以後760名に増加)の先遣隊が入村し国民学校を接収しており、以前よりこの構想があったことが推察される。

  当初、牧場の完成予定日は7月10日とされ、6月25日には地権者の同意を得、近隣郡町村の学徒隊、国民義勇隊をあわせ設営に着手した。建設予定地は南北約3km、東西約1kmの狭隘な盆地であり、村内を貫通する県道(現・国道54号線)を滑走路の一部とし、山麓の掩体壕(郷土史では格納庫)と誘導路で接続された。県知事も激励に訪れる(7月8日)中、7月10日には第一期工事(600m×40m)が完成、引き続き第二期拡張工事(1200m×60m)が促進され、8月15日には概ね完成していたという。本工事には県北一円より延人員15万人(一期 4500人/日、二期 7500人/日)を動員する突貫工事であり、遠方からの義勇隊は手弁当で二泊三日交代で民家に分宿してでの作業であったという。また、8月6日には広島方面の閃光とキノコ雲を視認し、一部の義勇隊は設営隊の自動貨車を利用し、市内の救援・被爆者の収容に従事した。

 第一期工事終了時には岩国に進出していた京都峯山航空隊飛神隊より尾関部隊(義部隊 九三中練25機)が国安牧場へ分派され、他の2隊(武・礼部隊)とともに岩国基地を中心に出撃訓練をおこなっていた。8月14日には尾関隊にも出撃命令が下り、全機爆装燃料満載にて総員待機するも、翌15日の玉音放送の後に解除した。飛行隊は4日後に全機空路にて峯山の原隊へ帰隊した。

参考文献 「八千代町史」
     「高田郡史下巻」 
     「戦史叢書 海軍航空概史」
     「広島戦災史」
     「聞き書 ふるさとの戦争 徴用は山河に及び」
           (社)農村漁村文化協会 人間選書186