大阪飛行場(木津川)

投稿者:くろねこ 投稿日:2000/12/14(Thu) 18:44:18

 大正12年(1923年)4月に設立された日本航空株式会社(川西系/取締役相談役・川西清兵衛、取締役社長・川西龍三、取締役支配人・板東舜一)の拠点飛行場で、大阪・木津川尻埋立地川縁の一画をかりて、格納庫1棟と付帯建物・施設を建設したのがはじまり。格納庫前には水上機吊揚用のクレーンが設置された。
 7月10日には同飛行場にて日本航空の開場式が行われ、早速7月中には大阪−別府間(のち福岡に延長、小豆島を中継)3往復半の定期航空の運航が行われた。以後、日本航空は大阪−京城−大連間国際定期郵便飛行や大阪−福岡−上海間試験的定期航空飛行など国際線進出に意欲を燃やしたが、昭和3年(1928年)10月20日、国策の日本航空輸送株式会社が設立されたため、既存民間資本の会社は政府からの補助金等を打ち切られ、実質的に強制的に解散を迫られた。そのため日本航空は昭和4年3月31日定期航空終了式後解散し、木津川飛行場は日本航空輸送が翌4月1日から東京(立川)、福岡(太刀洗)の幹線を結ぶ郵便・貨物輸送の拠点として使用することになった。 なおこの際、支線を担当することになった日本航空輸送研究所(井上長一)が同飛行場進出に際し、新たに水上機格納庫、事務所を整備している。

平木国夫氏の著作(「空気の階段を登れ」など)や川西関係者の回想録(非売品)に詳しいことが載っていたと思います。

投稿日:2000/12/15(Fri) 16:55:33
 大阪飛行場(木津川)は埋立地で、一部陸軍省所管、一部大阪市港湾部の所管で約10万坪足らずの面積があり、大正末期から西田飛行機研究所、日本航空(川西)が陸上用と水上用に使用していたが、昭和4年4月から日本航空輸送が定期航空の発着場とするため、他の民間用の格納庫、その他設備の一切を撤去し、新たに東側に格納庫2棟、事務所2階建1棟を建築した。ほかに航空局の気象観測所兼用の2階建1棟が建てられた。

 飛行場は曲玉状になっており、使用可能の広さは東西に700m、南北に450mで東側に中山製鋼所、藤永田造船所のドックなどがあり、北側は工場でフェンスがあり、南側は高さ約2メートルの堤防で西側をも囲んでいた。北側西寄りには農林省の倉庫が海岸近くまで建てられていた。

 同飛行場は、どの方向から進入しても障害物だらけで、実際の離発着距離は非常に制限されており、正常の離発着は難しく、堤防や煙突に衝突する事故も数件生じている。

 大阪(木津川)−福岡(名島)間のスーパー水上機による定期便が開始されると、川沿いに水上用格納庫とクレーンが建設された。

 同飛行場は大阪駅から約10qの距離にあり、市内電車で恩加島町終点で下車し、幅100mの運河を渡し船にのって渡り、徒歩5分で飛行場の事務所に着いた。なお旅客には大阪営業所(北区曾根崎町/第一曾根崎ビル1階)から運河の渡し場まで乗用車による送迎サービスがあった。

 参考資料/国枝実氏(元日本航空輸送パイロット)の回想録 
投稿日:2000/12/15(Fri) 22:24:58
 大正12年早々、日本航空(川西)は水上機による定期航空を開始するにあたって、板東舜一支配人と後藤勇吉主任操縦士らが大阪周辺の海沿いに飛行場の適地を求めて調査を行い、その結果、淀川の末流である木津川尻埋立地を選定した。

 これに関連して、逓信省航空局では、大阪に専用飛行場を開設するため、この木津川尻埋立地を候補地として選び、陸軍省所有地の約6万坪と大阪市港湾部所有の隣接地約1万坪を借り受けることにし、大正13年度予算から建設計画を進めている。これは川西の飛行場案をそのまま受け入れたのではないかと考えられる。

 日本航空(川西)の施設は、初めは川に臨んだ水上飛行場だけで、格納庫1棟と事務所そして水上機吊揚用のデリックが建設された。その後、背後の埋立地が陸上飛行場として用いるために整地され、陸上機の運用も開始された。格納庫も2棟に増築された。自主設計の川西K7型やK8A/B型に加えて、ドルニエ・ワール飛行艇も加わり飛行場は活況を呈し、大正13年(1924年)7月には川西K6型「春風号」が後藤勇吉の操縦によりわが国初の日本一周飛行に成功するなど、木津川は民間航空の一大拠点として発展していった。

 同じ頃、西田飛行機研究所がこの飛行場の一隅に格納庫を建設し、練習飛行や宣伝等を払い下げのアブロ機で行っていた。

 しかし、昭和4年(1929年)4月、日本航空輸送の定期航空が開始されるに伴い、日本航空(川西)は突然一切の権利義務を無条件・無報酬で国策会社に譲り渡した上で(航空輸送事業から手を引き)、川岸にあった建築物一切を撤去させられることになった。以後、川西は航空機製造メーカーとしてのみ航空事業に関わることとなるが、板東舜一以下日本航空のスタッフにとって、この仕打ちは納得のいくものではなく、恨みの残るものであったという。
(川西は中島知久平・陸軍・航空局から快く思われていなかった。この背景には日本飛行機製作所の分裂事件(川西一派と中島知久平の決別)がある。)