有蓋掩体壕に興味をもったので見に行ってきました。
数年前、JAF−MATEというJAF会員向けの雑誌の表紙に掲載されてました。
茂原市内には、10基程残存しているようです。
ただ見に行った時は事前調査不足で、5基しか確認でませんでした。
写真は自分のHPにアップしてますので、転載されても構いません。
資料のあるHPは、
http://www.mobara.ne.jp/~katoshin/html_pages/hikoujyou.html
です。
情報yありがとうございます。喜んで転載させていただきます。
しばらく調査をサボっているうちに茨城の飛行場が一覧表になってしまいましたね(苦笑)。
まあ追々現地調査を行いますのでそのときはよろしくお願いします。
日本中の滑走路について調べてます。
近日中にHP立ち上げる予定です。
鉄道関係の本でトワイライトゾーンという本に
詳しく出てます。グランドハイツ専用線『啓志線』(ケーシーと読ませる)の内容で。
成増飛行場は今は光が丘団地です。
続、成増飛行場について
http://www/remus.dti.ne.jp/"s-ishi/history2.html
ケーシーとは、成増飛行場を占領?した米軍の大佐の名前だそうです。
文献等の詳しい調査はまだですが、とりあえず手持ちの資料から。
占守島 三吉野第一 1、N−S 滑走帯1600X250
(うち板敷滑走路1200X50)
2、NW−SE 滑走帯1200X150
上記2本はX字状に交差する。
三吉野第二 NW−SE 滑走帯1400X200
(うち板敷滑走路1200X50)
第一占守 1、NNW-SSE 滑走路1200X80
2、NE-SW 滑走路1200X80
3、E-W (計画 同規模)
上記3本は*状に交差する。
第二占守 方角不明 100X50
潮見第一 N-S 滑走帯1200X幅不明
潮見第二 NW-SE 滑走帯1400X150
(うち板敷滑走路1200X50)
幌筵島 北千島 N-S 板敷滑走路1200X50
第一幌筵(武蔵) 1、NNE-SSW 滑走路1100X110
2、NNW-SSE 滑走路1200X110
3、E-W 滑走路(長さ不明)
上記3本はA字状に交差する。
第二幌筵(擂鉢) 1、NE-SW 滑走路(長さ不明)
2、NW-SE 滑走路(長さ不明)
3、E-W 滑走路(長さ不明)
上記3本は逆A字状に交差する。
第三幌筵(加能別)1、NW-SE 滑走路1200X80
2、NNE-SSW 転圧?滑走路1500X200
松輪島 松輪島 1、ENE-ESE 滑走帯1200X80
2、NW-SE 滑走帯800X80
上記2本はへの字状に連結。
新知島 新知 NW-SE 滑走帯1400X200
得撫島 東雲原 1、NW-SE 滑走帯1750X300
(うち板敷滑走路1200X50)
2、SW-NE 滑走帯1400X200
上記2本はL字状に連結。
択捉島 蘂取第一 NW-SE 滑走帯1600X200
蘂取第三 NW-SE 滑走帯1400X200
(うち滑走路1200X50)
上記のニ本は隣接して並行する。
蘂取第二については不明。
天寧 1、NW-SE 滑走路1200X80
2、E-W 滑走路800X40
上記二本はトの字状に連結。
3、NW-SE 滑走帯1200X30
4、NW-SE 滑走帯1200X40
上記二本は並行して、それぞれの端部を誘導路で連結。
択捉 紗那付近 詳細不明
※年萌(単冠湾を挟んで天寧の東側)にも飛行場の印が
ある資料があるが、地図では確認できない。
また資料によっては天寧の飛行場の1、と2、を年萌
と呼称したとも解釈できるものがあるが、地図では
天寧に4本の滑走路および跡が読み取れるため、ここ
では4本を天寧に含めた。
出典は「試製基地要図第一(千島樺太地方)と思いますが、択捉島天寧については当時付近に住んでいた方が作成した(出版はされていない可能性大)本から、単冠湾側の1200m×80mと800m×40mのコンクリート舗装滑走路の飛行場が海軍天寧飛行場、その南西側の1200m×40mの滑走路が敗戦直前に完成した陸軍飛行場です。
ちなみに、後者の陸軍飛行場が現ブレベストニク空軍基地となっています。
また、得撫島の東雲原第二飛行場の完成時期は、当時、滑走路工事に携わった方の手記から昭和19年10月頃ということが判明しています。
第一資料は「試製基地要図」です。その後、別の手持資料から補足します。出典は米軍資料「THE JAPANESE RESOUCES REFERENCE NOTEBOOK,1945」米国立公文書館です。
占守島 第二占守 SW-NE 板敷滑走路「試製基地要覧」ではオホーツク海と別?沼を結ぶ狭隘部を通る道路が板敷滑走路になっています。1000?X50
幌筵島 第二幌筵(擂鉢)は「試製基地要図」内の図を45°半時計回転。すなわち1、滑走路がN-S, 2、滑走路がW-E, 3、滑走路がSW-NEとなっています。
第三幌筵(加能別)2、滑走路は1000X500となっています。
択捉島 蘂取第二 NE-SE 1600X200 (建設中断) 天寧 4、滑走路は舗装の記述になっています。陸軍の建設で後のブレべストニク空軍基地になったのはこれだと思います。『平成四年 国土地理院』 1:50,000「単冠湾」で確認。 年萌付近の飛行場もその痕跡はない。(同地図)
択捉島の年萌には司令部の記載がある。また紗那付近には何の痕跡もない。
しかしこの二つの資料は非常に似通っています。この米軍資料の成立は1945年5月7日です。捕虜や接収資料から作成されたとなっていますから、「試製基地要図」は何時の成立か分かりませんが、米軍資料以前には間違いなさそうなので、どこかで接収されたのでしょう。そこにはどんなドラマがあったのでしょうか。
あと、占守第二は占守島別飛沼に作られた水上機用基地です。
また、戦史叢書によると、択捉島留茶別(蘂取)第一〜第三飛行場に20基、同島紗那飛行場に30基、得撫島東雲原第一、第二にそれぞれ20基、10基、幌筵島の北ノ台(柏原)飛行場に60基、占守島の占守第一(片岡)に30基の航空機用掩体が作られることになっていました。
TRONさん,いつもレスありがとうございます。占守第二は水上機基地でしたか。日本側の資料に滑走路等の施設がないのはそのためだったのですね。
ブレベストニク空軍基地の写真を見せていただきました。国土地理院の地図をまったく同じなのには,当たり前なのですが嬉々としてしまいました。旧海軍天寧基地の滑走路跡にも機体が並んでいるようですが,エプロンとして使用しているのでしょうか。国土地理院の地図では誘導路でつながっている様子はないようですが。
情報ありがとうございます。あっぷしておきました
前に撮った写真が見つからないので改めて撮ってきました。
5棟あった 格納庫が3つ残っています。これは 史跡としての
保存運動もありますが 放置状態です。
名島飛行場閉鎖で移築したものですから70年超えることから
倒壊しないのが 不思議なくらいです
愛媛県松山市に飛行場はあっそうです<ちなみに日本最強だったそうです・・。
なんでも、呉の工場などを守るために日本の腕利きのパイロットを集めていたそうな・・・。
空団?の名前は忘れました。。。
松山には陸海軍双方の飛行場があり、重要な位置とされていたようです。簡単なリストだけあげておきましたので見てください。 現状などの情報もいただけたら幸いです
就職活動の副産物ですが追加となる情報がありますのでカキコします。
千葉県の香取基地ですが、滑走路は現在自動車部品メーカー某C社の
テストコースになっているそうです。
工場見学に行った際に企業の方が言ってましたので間違いはないと思います。
DBの一助になれば幸いです。
情報ありがとうございます
始めまして、飛行場ですか、僕の職場は宮城県の自衛隊の松島基地ですが、ここは大日本帝国海軍航空隊の中攻隊の基地だったそうで(そんなメジャーな所は皆知ってるって?)現在F2戦闘機の為の格納庫を建設中です。
先日その工事現場の地下から、昔の飛行機のエンジンが掘り出されてました。
たまたまそれを、洗浄機で、洗ってる所に出くわして、もしかしてこれって誉?って聞いたら、一式陸攻の火星エンジンだそうで、良く見たらなるほど、シリンダーが7×2ありました。
泥の中に埋まっていたせいか、保存状態がかなりいいです。
さすがに回らないと思うけど。
これは浜松に行くらしいです。
マイナーな飛行場という事では、宮城県と秋田県と山形県の境のところに、最上町の前森牧場って牧場があるんですが、前に聞いた所では、陸軍の飛行場だったとかなかったとか?
僕の近所で、知ってるのはそのぐらいですが、役に立つかな?
情報ありがとうございます。いろいろな情報を集めるから資料になると思います
初めまして。
よく航空関係の本に、現存しない飛行場が出てきたりして、一体どこにあったんだろうと思い続けておりましたが、
このようなサイトがあったとは驚きです。
さて、加古川飛行場の跡地の殆どはレーヨン工場が所有しており、アスファルトの滑走路は、(一部なんでしょうが)掘れば出てくるそうです。
敷地の中には建造物の残存もあって、NHKが撮影に来たとか。
今この工場で仕事をしているので、関係者から直接話を聞いた次第です。
情報ありがとうございます。建造物の残存の写真など撮って貰えたら嬉しいです。画像アップ掲示板が必要かもしれないので後で作っておきます
Ans.Q情報・資料・検索の162番で教えてもらったので、本日行って来ました。つくばの国土地理院にあります。
折角なので思い切って昭和10年代に測量された地図(5万分の1:茨城県主要部分19枚)を購入しました(もちろん複写)。飛行場の位置・形・大きさが良くわかります。
また、ココでは米軍航空写真も閲覧・購入できるので、地図であたりを付けた後写真で確認できます。
平日に限り入場・閲覧できます。無料です。しかし購入するとなると・・・
でもこれで戦跡めぐりが一段と楽しくなります。現地訪問までしたら報告します。
そうなんです。地図も1枚500円・・・。とりあえず写真は1枚(北浦北部、鉾田の陸軍飛行場が写っているもの)のみ購入しました。私の場合は茨城県のみ対象なので、数はそれほど多くは無いとはずなので、地図や他の資料で調査した上、改めて写真を見に行くつもりです。
情報サービス館の職員は親切な方が多いので、何を調べてたいかをハッキリと伝えれば調査はサクサク進みます。
福岡の空中写真が欲しいですが 遠いから行けないのが残念です。上京するとき1日くらい日程を取りたいものです
すごいサイトですね。驚きました。
せっかくですから…津屋崎町は「糟屋郡」ではなくて「宗像郡」です。
ご指摘ありがとうございます。直しておきました
所在地:茨城県鹿嶋市
沿革:神ノ池海軍航空隊が設置され、後に神雷部隊が桜花の訓練を行った。
現状:住友金属鹿島製鉄所になっている。製鉄所の正門からフェンス沿いに南へ100mほど離れた場所に桜花公園が設置され、慰霊碑のほか、当時の掩体壕や桜花のレプリカがある。
アクセス:東京駅八重洲南口より高速バス鹿島神宮駅行きに乗車、「住友金属」停留所で下車後徒歩5分。
これまた簡単ですが、報告します。写真は画像掲示板のものをお使いください。
遅くなりましたが 写真もいっしょにアップしておきました
所在地:茨城県ひたちなか市
沿革:昭和13年に水戸飛行場が設定され、水戸陸軍飛行学校が開校し、後に常陸教導飛行師団に改編された。
この付近に飛行場はいくつかあったようであり、水戸南飛行場に陸軍航空通信学校が、東部に陸軍航空審査部水戸試験場があったようである。
詳細な飛行場配置及び組織の変遷は後日改めて調査する予定である。
現状(2001年5月現在):付近一帯が住宅及び田園地帯となっている。跡地の一部が「水戸つばさの塔公園」となり、慰霊塔などが設置されている。
アクセス:自動車の場合は、東水戸道路(北関東自動車道)ひたちなかI.C.より国道245号線を北上し、最初の信号を右折して約1kmほど直進した左手につばさの塔公園がある。
はなはだ簡単ですが、報告します。お手数ですが写真は画像掲示板のものを使って頂けるとありがたいです。全て私が撮影したので問題ないと思います。画像掲示板には写真を追加しておきます。
あっぷしておきました
こちらには初めてお邪魔します。茨城県在住のTETSU29と申します。
最近、県内の戦跡探索を始めました。「画像掲示板」にその成果(?)を報告しております。
まだ「データベース」と呼べるほどの調査内容ではないので、しばらくこちらへの報告は見合わせますが、ある程度情報を収集した時点でご報告します。よろしくお願いします。
データベースは小さいことが集まって出来るものです。出来上がってからではなく画像掲示板の写真と解説を載せていいですか?、みんなと話題を話し合うと修正かけるのも早くなります。
それでよろしいのでしたら、ちょっと書き直して追って報告します。
茨城県には24(以上?)の旧軍飛行場があったことが判明しています。そのうち20箇所までの資料調査を行っていますが、まだ十分とはいえない状態です。
TRONさん凄いです。ところでどのような資料から情報を引き出しているのでしょうか、差し支えなければ後学のためにご教示ください。
ちなみに私は「ネットで検索」「図書館で郷土史などを調査」「現地訪問」という手順で調べてます。しかもまだ始めたばかり・・・
私は北海道に住んでいるので、地元の図書館に行って郷土史を調べることはできません。ただし、全国の飛行場一覧を戦史叢書などから手に入れ、戦後すぐに撮影された米軍空中写真を購入して当時(に限りなく近い)の様子を確認した後、インターネットで検索をかけて情報の補間を行っています。
あとは地元で自費出版された本などを探して購入するのも情報収集の方法の1つです。もちろん、それなりのお金はかかりますので、全ての情報を無償で公開するわけではありませんが。
また、こちらの図書館でも戦記もの(実話)の本に各地の航空基地の様子が書かれていたりしますので、それも参考にしています。
ご教示ありがとうございます。参考にさせて頂きます。
現代でも空港の全くない奈良県にかって海軍大和基地というものがあった
ことはマニア以外にはあまりしられていません。
以前小学校の時に先生に終戦時までに未完成だったと習っていたのですが、
最近ある戦記物に終戦間際に多数の海軍機が和歌山沖の米機動部隊を攻撃した
と書いてあり、意外な気がしました。
現在も天理市郊外に、滑走路の形の田畑があり、それなりに防空壕なども残っているのですが、第二大和基地に関しては、このサイトで初めて知りました。
そこで、第二大和基地の調査に行きたいのですが、何か具体的な資料はありませんでしょうか? 先日御所市で、勤労奉仕に従事していた方から「阿田峰の飛行場」とよばれていたことまではわかったのですが、場所は御所市ではなく
大淀町(近鉄福神駅のちかく)という話なのですが、近年ゴルフ場や住宅地の
開発が著しく、よくわからないのですが・・・。
書類ではあっても痕跡のない飛行場もあります。秘密基地など道路を使うこともあるようです。みんなの目で眺めたら見落としていたことも分かる可能性が高いのです。いっしょに勉強していきたいですね
詳細は帰宅してから送信しますが、大和第二飛行場は現在の五條市大野新田町に建設され、600m×30mの転圧舗装滑走路を持っていました。昭和22年くらいの米軍空中写真によると牧場の真ん中に1本の線を描いたような感じです。
書き込み時間が狂ってますね。現在17時38分です。
なお、大和第一飛行場については昭和20年撮影の旧軍撮影の空中写真と昭和21年撮影の米軍空中写真で施設の詳細が分かります。
さて、大和第二の続きです。
正確な位置は近鉄吉野線福神駅の南南西1.3kmほどの所で、西川鶏園から南方向で伸びる道路が旧滑走路です。
付近には特に掩体なども見当たらず、海軍の秘匿飛行場の1つと思われます。
私は現地調査をしたわけではありませんが、「基地設営戦の全貌」によると昭和20年6月1日に第586設営隊が大和第二航空基地設営のために編成され、同年8月22日に解隊されています。
他の資料としては、既述の米軍空中写真(M661-185:昭和22年11月21日撮影)などがあります。
ありがとうございました。資料収集のうえ、7月か8月には現地に赴きます。何らかの形で結果はお知らせします^^
興味深く見させていただきました。
関東地区に「千咲原」や「第三郡山」「第三横須賀」の文字が判読できる
ところから、昭和20年に入ってからのものでしょうね。
ただ、「千咲原」や「第三郡山」「五井」などは実際には未完成で終わって
おり(戦後の米軍空中写真で確認済)、「高野山」や「宝塚」「洲ノ埼」
などは飛行場(飛行機)を持たない航空隊でしたから、結構、大雑把な
ところも見受けられます。
おそらく航空隊配置図と思われます。千咲原などは未完成は白丸で表示してる様子です。★印は陸軍飛行場のようです
この資料は私が提供したものです。昭和20年に大井空で使っていました。昔の飛行機機はは、
エンジン不調や天候不良で不時着することが多々ありました。この場合、不整地に墜落同様に着陸することもあります。この場合、最寄りの基地へ救援を依頼します。だから場外へ飛行する場合。経路上の飛行場や海軍基地など知っておく必要があります。そのために作って搭乗員に持たせていたものです。各航空隊で作成していたので統一されたものではありません。岩国基地で使用されていたものを次に紹介します。正式名称は同期生数人に聞きましたが誰も覚えていませんでした。
なるほど、それで航空隊名が入っているわけですね。あと、「鹿島」や「香取」などの後に書いてある()内の文字が判読できないので、教えていただければ幸いです。
香取の下は香取(基)、第二〃(基)、茂原、第二〃(基)となっています。鹿島の下は〃(爆)
ありがとうございます。さて、これらは何を表していたんでしょうね?
香取などは飛行場としては1箇所でしたが、航空隊基地としては2箇所あったということでしょうか?
香取は作戦基地と整備基地の二つの航空隊が並んであります。第二香取作戦基地は工事中止と書かれていますから合計3つあったことになります。鹿島は作戦基地と爆撃訓練場です。茂原は両方作戦基地となっています、詳細不明
鹿島は細い川を隔てて基地と訓練場が分かれていましたが、香取は滑走路側とその裏側で作戦と整備の基地が分かれていたようです。
『元岡にて 学生航空の追想 1941〜1945』 上瀉口武編著
という書物に写真や沿革などが詳しく書かれています。
(すばらしい頁で感動しました。)
良い本ですね!上瀉口武さんは終戦後も元岡村にお住まいになって最近亡くなられたようです。元岡村は合併で福岡市の一部になりましたが 元岡公民館で当時のことを聞くことができ、その本をコピーすることもできました。
リンク先読みました 太田さんのお父さんは元岡で飛んでいたのですね 久留米高工の18年III期の方ですか?
という名の米軍補助飛行場が長崎市内駒場町にあったそうです。
で、F4U様に質問です。この補助飛行場も含めてよいのでしょうか?飛行場に分類するのならば資料をあたってみますが。
おはようございます 米軍の補助飛行場も消えた飛行場としての歴史ですから あったほうが良いと思います。メンテが遅れてすみません。実は 別館の永末千里氏(元艦攻操縦士)のページを作るため 毎日3時間程このことだけの作業で潰れているのです。しかし 戦没者に亡くなった状況まで記述している本は1部の関係者しか知らないことなので ここで見る機会を作ることは重要だと思いそれを 優先にしています。来週からは またここの作業ができると思います。みなさん ご協力ありがとうございますm(_ _)m
宇都宮陸軍飛行場の施設
(あくまでも参考です!ご存知のことがございましたら返信ください!)
---飛行学校関連---------------------------------
◎宇都宮陸軍飛行学校(昭和15年10月−昭和20年4月)
司令部
教育隊
材料廠
◎熊谷陸軍飛行学校宇都宮分教場(昭和19年10月−?)
(暗号名:クヒウ)
◎宇都宮教導飛行師団(昭和19年6月−昭和19年7月)
司令部
教導飛行隊
教導整備隊(高柳隊)
教導航測隊
◎教導飛行師団司令部(昭和19年7月−昭和20年8月末)
編成地:宇都宮。通称名:(風1000部隊)師団長;橋本秀信中将
宇都宮は第6教導飛行隊となる
---<参考>---
第1教導飛行隊(明野教導飛行師団を改編)
第2教導飛行隊(常陸教導飛行師団を改編)
第3教導飛行隊(鉾田教導飛行師団を改編)
第4教導飛行隊(浜松教導飛行師団を改編)
第5教導飛行隊(下志津教導飛行師団を改編)
第6教導飛行隊(宇都宮教導飛行師団を改編)
---航空廠関連----------------------------------
宇都宮陸軍航空支廠(後に宇都宮陸軍航空廠)
日本陸軍の5大航空廠のひとつ
(立川・大阪・各務ヶ原・太刀洗・宇都宮)
陸軍航空廠宇都宮支廠(昭和15年−昭和16年)(水路部の地図はこの頃のものです)
宇都宮陸軍航空支廠(昭和16年−昭和17年)
宇都宮陸軍航空廠(昭和17年−昭和20年11月)
通称名:(師34202部隊)
廠内に工員養成所(後に技能者養成所)あり。少年軍属工員の養成施設であった。
また、バス(芳賀松原)の他にも省線宝積寺駅から廠内鐺山駅(仮称)まで鉄道あり。
(通称;清原線)
物資輸送のほかに朝夕の客車もあった。(わずかではあるが)
よって城山の大谷地下工場からの鉄道運送が可能であった。
--関連施設------------------------------------
仙台分廠
八戸分廠
尾島出張所
雀宮出張所
太田出張所
太田南出張所
新田出張所
五戸出張所
幸手倉庫
今泉倉庫
今市飛工場
福資満壮(工員宿舎)
旭壮 (工員宿舎)
第1清原壮(工員宿舎)
第2清原壮(工員宿舎)
陸軍航空輸送部第1飛行隊(昭和19年1月−昭和19年5月)
陸軍航空輸送部第3飛行隊(昭和19年5月−?)5小隊編成にて主にキ-84、キ-49を空輸。
他にも日航のパイロットなども空輸に従事した。
---大戦末期、省内の部署の主な疎開先-----------
城山村大谷地下工場 (部品・発動機・電精)
芳賀郡祖母井 (部品)*特攻機改修班
芳賀郡七井 (部品)
芳賀郡清原村氷室 (整備)*有蓋掩体他の地区
芳賀郡清原村上篭谷 (整備)*有蓋掩体他の地区
----------------------------------------------
調査ありがとうございます あっぷしておきました
現段階で判明している栃木県内にあったといわれる飛行場を
まとめるとこんなところでしょうか。
(所在地名は現在のものです)
@宇都宮陸軍飛行場 宇都宮市清原地区
A金丸原陸軍飛行場 大田原市金丸
B那須野陸軍飛行場 黒磯市埼玉
C壬生陸軍飛行場 壬生町国谷
D今市陸軍飛行場 (仮称)今市市塩野室
E藤岡飛行場 (仮称)藤岡町富吉
F御前原飛行場 (仮称)矢板市東町、早川町
G佐良土飛行場 (仮称)湯津上村佐良土
H宇都宮南飛行場 宇都宮市上横田
I大野原飛行場 (仮称)真岡市下篭谷
J皆川飛行場 (仮称)小山市下坪山(?でしょうか?)
K鹿沼海軍地下飛行場(仮称)鹿沼市楡木(Kは文献に説得力なし。インチキ率高し。随想舎「遥かなるアリランの故郷よ」より。)
よって現段階ではっきりとしたものが11箇所ということでしょうか!?
Jは仁良川飛行場のことですね。
だったら、河内郡南河内町仁良川、下坪山が正解です。
あと、今市飛行場は1500mの滑走路があったということです。
@〜CとGHは米軍空中写真で調査しているので、残りのD〜FとI〜Kについて同様に空中写真から調査させていただきます。
飛行場建設に携わったという近所のおっさんが「皆の川と書く」といった言葉をうっかりそのまま記入してしまいました!これはまた失礼致しました。地名は確かに仁良川です。以前現地を調査した際に地元の人に聞いたら「皆川なんつう地名はなかんべー」と言われたのを忘れておりました。米極東航空写真でははっきりと飛行場の形状はわかりませんが、掩体らしき影がいくつかあるのみです。(3VV9RPS M12 314CW 6 FEB47)
なお、藤岡飛行場は戦闘機くらいしか離着陸出来なそうな可愛らしいまん丸の飛行場で、キ-84あたりが入りそうな可愛らしい掩体壕が飛行場の北に密集して写っております。(M606-31)現地調査はまだおこなっておりません。岩舟にも関連施設があったようです。
今市は現在のゴルフ場の西側の牧草地が飛行場跡地です。林を切り抜いたような場所にどーんと滑走路(未舗装)があり、その左右に掩体陣地がありました。滑走路はもうチョット短めなような気がします。USSBSによると1500X100としてますけれど。極東航空写真は雲がかかっていて写りが悪いです。(M649-31)
今市の約1万分の1米軍空中写真を手に入れて見ていますが、雲もなく非常にクリアな写真です。
滑走路を挟んで南北に林を切り開いただけの掩体が多数写っていますが、重機もない状況でよくもまあここまで建設できたと思える程です。
滑走路の長さを近くの道路長から割り出したところ、米軍レポートのとおり1500m×100mでした。(R483-75)
また、御前原は1200m×50mの転圧で、滑走路以外は何もなさそうな感じです。(R585-1)
藤岡は戦時中の陸軍空中写真には写っていないので、昭和19〜20年の建設でしょう。まん丸というよりは逆三角形の形をしており、北東の角から掩体地区に通じる誘導路が伸びています。ここは滑走路は無く、滑走帯で離着陸していたのでしょう。(R444-133)
仁良川は見つけるのに苦労しました。ほぼ南北方向に1400m?×100mの転圧滑走路があり、その両端には作りかけ?の誘導路らしきものが見えます。(R301-8)
飛行場別にファイルを作り両氏の会話をアップしておきました
アップしていただいたのはありがたいのですが、「佐良土」と「湯津上」、それに「宇都宮南」と「中島飛行機工場飛行場」は同一の飛行場です。
大野原の空中写真が届きました。滑走路は1200m×30mの転圧で、県道276号線が滑走路そのものでした。掩体は特に見当たりません。
鹿沼は一切の痕跡が見つけられません。地下飛行場ならそれなりの土捨て場と整地した出口付近があるはずですが、そのようなものは一切見当たらず、やはり勘違いかデタラメでしょう。
いろいろと調べてみたところ、鹿沼には東京航空燃料廠の地下施設があったとの事。その施設と見間違いの線が濃いと思われます。なお、鹿沼周辺の航空写真を見ましたところ、(R389-202)それらしき地下壕の入り口が写っていました。どうみても飛行場ではありません。(貝塚ひろしの漫画「烈風」じゃあるまいに。)
私はR389-101を見ていましたが、現在地ではどの辺なんでしょうね?
ご無沙汰いたしまして失礼いたします。例の東京航空燃料廠は鹿沼市北西部の坂田山4丁目付近の山林と思われる場所にあったようです。飛行場説はココだという確信に至りません・・・
ちなみにFの御前原は「おんまえっぱら」と呼ぶそうです。
高知空港のまわりに戦時中の飛行機格納庫が残っている記憶があると投稿しましたが、写真を発見しました。
興味ある方は以下のアドレスをご覧ください。
http://www4.inforyoma.or.jp/~takuh/senseki.htm
うろ覚えで自信なかったのですが、安心しました。
ちなみに、現在この滑走路の端を横切る道路には警報機がついていると書き込みしましたが、本当は警報機及びに遮断機がついている(つまり踏み切りそのもの)、が正解だと思います
以前テレビでも紹介されていた記憶が・・・・これもうろ覚えですが。
高知は練習機の白菊で特攻出撃基地としての記録にありますね
F4U さま
御無沙汰いたしました。全翼機好きです。
献納機をWeb検索していて、こういう企画が進行中で
あるのを知りました。
お役に立つかは甚だ疑問ですが、投稿させて頂きます。
飛行場だけではないのですが、出身地である新潟県
の航空史をまとめたいと思っていて、下記URLに仮
UPしています。(1月にUPしたっきりなのですが)
昭和4年 5月、新潟市営飛行場(万代島飛行場)建設。
昭和7年 10月22日 小千谷町の小栗田飛行場開場式。(起工は同年8月18日で、わが国初の町有飛行場起工。)
昭和8年 10月1日新潟飛行場(焼島飛行場?)竣工。
投稿記事110のことは年表には入れていませんが、
出典は『新潟地方航空機乗員養成所』(長谷川甲子郎,
平成7年)だと思われます。
新潟航空史年表拝見いたしました。自分の郷土のことをそれぞれが調べたらすごい資料ができそうですね インターネットの将来が楽しみです
現在の航空自衛隊基地の百里基地は、敗戦前までは、百里原飛行場で、検索
かけると出てくるよ。今は、つくば市となった旧谷田部町には、谷田部飛行
場、筑波町にも西筑波飛行場があった。これもサーチかけると詳しくは、無
いけど、わかる。20年以上前、筑波研究学園都市で建設関係の仕事につい
て聞いた話を思い出して。詳しくなくてすまん。以前の書き込み見たら西筑
波はくわしくかきこんであったので参考にならないでしょうが、仕事サボっ
て百里基地には、F−4ファントム見に行きました。確か梅と天狗が尾翼に
マーキングされてたっけかな。RF−4EJは、確か迷彩されていたっけ。
見るのは好きだけど、YS11で翼が、ばたばたするのを見て2度と飛行機
にのれなくなった情無い男です。
こんばんわ 書き込みありがとうございます。ご協力よろしくです
子供の頃、戦時中に滑走路が建設されていたという話を聞いた憶えがありましたので帰省の際に資料を当たってみました。
◆飛行場名:不明(今回当たった資料には記載無し)
◆規模:不明(今回当たった資料には記載無し)
◆場所:新潟県中蒲原郡村松町愛宕原(なかかんばらぐん・むらまつまち・あたごはら)
◆資料1-(書名を控えてくるのを忘れました)
「愛宕原の一角で飛行場の建設が急きょ始まったものの、間もなく敗戦、飛行機はついに一機も飛び立つことがなかった」
◆資料2-村松町史
記述を纏めると
・建設開始は昭和20年6月
・建設に当たったのは軍用飛行場特設部隊「585部隊」+動員された近隣住民
・特攻隊の飛行機が出撃するのだと聞かされていた
◆現状
現在、新潟大学農学部の農地となっている所にあったと思われますが、滑走路と思しき痕跡は見受けられません。なお、村松には明治30年から大正時代まで「歩兵第30連隊」が駐屯していました。
調査ありがとうございます 遅れました アップそておきました
帰省の際に、祖父に尋ねた所、滑走路の長さは元錬兵場+新規に造成した部分=1000mだったそうです。
また、未完成ながら小型機が複数飛来していたそうです。
愛宕中学校から見て熊野堂あるいは日の出町方向に滑走路があったとのこと。
↑大体の方向を画像掲示板の方にupしておきました。
以上、裏付けは取っておりませんが参考までに書き込み致しました。
中島飛行機宇都宮製作所飛行場
現在地 陸上自衛隊北宇都宮駐屯地(陸上自衛隊第12飛行隊,航空学校宇都宮分校
昭和17年5月 中島飛行機により工場敷地と飛行場敷地の買収開始。
昭和18年 工場を含めほぼ完成。
昭和19年1月 四式戦生産開始。
5月 初出荷。
南北 舗装滑走路
東西 転圧滑走路(現在は県総合運動場)
米軍資料では,宇都宮陸軍飛行場をUTSUNOMIYA A.F
この飛行場をUTSUNOMIYA.S A.F(宇都宮南)
と呼称しているが,地元では南飛行場とは呼ばなく,中島の飛行場と呼ばれる。
戦中は軍の飛行場ではなかったが,陸軍の空中勤務者および中島の飛行士が
独自の防空部隊(数機程度)をもっていたようである。
工場と飛行場は約1.6キロ離れているが,誘導路が整備されており,この
周辺に掩体土塁が多数あった。コンクリート製の掩体格納庫は見られない。
出典は忘れましたが、ここの完成時期は昭和18年4月というデータがあります。
あと、面積は約270haで、南北方向と東西方向の滑走路の他に、南西−北東の1500m×50mの転圧滑走路もありました。
無蓋掩体の数は空中写真から判読できるだけでも38ありました。
南西ー北東のは未確認ですがタクシーウェーだと思います。
恒常風は北西又は南東なので横風での離着陸はどうかと思っております。
聞き取り等で補強してみます。
米軍空中写真を見る限りでは、他の誘導路よりも幅があり、
直線であることから、補助滑走路として使われていたと思われます。
補助滑走路は当時横風滑走路(未完成)と呼ばれていたそうです。現在の飛行場の誘導路の位置が当時の滑走路で、東西の横風滑走路と正規の滑走路は斜めに走る誘導路で結ばれておりました。その途中にある宇都宮競馬場も誘導路の一部ですね。いまだに競馬場に行きますとキ-84が運搬されている光景を想像してしまいます。(とはいっても私は30歳。)当時飛行場には宇都宮陸軍航空廠雀宮出張所あり。宇都宮製作所の完成機は航空廠検査課パイロットにより清原の「宇都宮陸軍飛行場」に運搬、航空輸送部第3飛行隊などが戦地に空輸しておりました。(話が長くなりまして申し訳ございませんでした。)
遅くなりましたが アップしておきました。ありがとうございます
仁良川飛行場(にらがわ)
現在地 栃木県河内郡南河内町仁良川
現状は畑地と西坪山工業団地の一部
昭和18年 春 軍関係と思われる技師が来て樹木の伐採を始める。
地元ではその来訪の意図が不明のまま,薬師寺,吉田村
の人々は部落長より,日割り労働を強いられた。
昭和19年 軍の命令により,住民が建設に従事。
約1qに及ぶ土地に一本の滑走路の建設が進む。
唯一の機械であるローラーによって路面が固められる。
家屋の移転問題等はなかったが,農作物はおしつぶされた。
昭和20年 5月頃 完成 竣工式あり。
飛行機の掩蔽には杉の枝を切り,それを竹で編んで柵にし,
離着陸の際にはこれをはずすといった方法がとられた。
飛行機が1機着陸したくらい。
高射機関銃が1挺程度。
(ここまで引用文献『河内町町史』通史編 近現代
陸軍の飛行場で双発の戦闘機が1機離着陸したのみ。
部落民が機体の移動に子供までが協力した。
格納庫付近に爆弾が2個投下された。(日時不明)
(ここまで引用文献『招魂の里』国分寺町鈴木敏夫 自費出版 1998
F4Uさんお世話になります。おそれいりますが,[102]の壬生陸軍飛行場のアップもお願いします。
渋すぎる!!私の近所のおっさんの話は正しかったのですね。南河内の飛行場建設に動員されたとの話。航空写真を調べなおしてみます!!ちなみに真岡市にも同様の飛行場がありました。真岡農業高校の農場がある場所です。これで県内の飛行場は、佐良土、那須野、金丸原、御前原、宇都宮、宇都宮南、壬生、仁良川、真岡、藤岡の10箇所ということになります!!一部の書籍で鹿沼に海軍の地下飛行場があったとの記述をみましたが、これははっきりいってウソっすね。
そうそう!今市をわすれていました。塩野室町に飛行場がありました。第26飛行団のキ-45、キ−48が分散配置されていたようです。これで栃木の飛行場は11箇所!!まだあるかもしれませんね。
あっぷしておきました ありがとうございます
湯津上(ゆづかみ)秘匿飛行場
地元では佐良土(さらど)飛行場と呼ばれている。
昭和19年秋から整備作業開始。
現国道294号と旧東野鉄道線路敷地に挟まれた1.5キロの狭長な土地。
地形にとけ込んだ真に秘匿飛行場といった感じの土地である。
耕地と民家5軒を移転した。
塩谷・那須両郡と周辺町村からの勤労奉仕隊によって作業を進め,
昭和20年春完成した。(『湯津上村誌』昭和54年と聞き取り)
金丸原常駐の戦闘機の予備飛行場として整備。
完成を祝って,本澤整備員ら数名が始動車を配備して待ち受ける中,黒野大尉
機が着陸した。集合した群衆の歓声を受けて,再び黒野大尉機は離陸した。
佐良土の秘匿滑走路が使用されたのは,この1回であった。
(『那須の太平洋戦争』P45)
金丸原の飛行機が離着陸したということは陸軍飛行場なのでしょう。
調査ありがとうございます。アップしておきました。別のサーバのトラブルで多忙だったため データのアップが遅れました。すみません
戦後すぐに撮影された米軍空中写真では一目で判読できるので、おそらく米軍には知られていたのでしょうね。
TRONさん,いつもレスありがとうございます。地元では今市飛行場の話も聞きます。
米軍の空中写真には何か手がかりがありますか?
115のコメントに今市の事を書きましたので、そちらを参照願います。
こんにちは。WarBirdsにはたびたびお世話になっています。
それにしても、このコーナーは特にインターネットの「力」を実感しますね。
そこで、私も微力ながらお手伝いということで、以下は10年ほど前に図書館でメモを取っておいた内容です。出典をメモしなかったのが悔やまれますが・・・。
(※・・・)の部分は私が追加したものです。1〜6.の分類も、私が勝手につけたもので、たいした根拠はありません。
なお、汝矣島・金浦・清津の3飛行場については、簡易な配置図がコピーしてありますが、こちらは著作権などの関係で公開は問題あるかもしれません。必要でしたらスキャナーで読込んでメールで、など考えます。
それでは貴HP(こんな日本語あるのかな(^^;)のさらなる発展をお祈りしております。
朝鮮半島の一般航空路用飛行場
1.京城(ソウル)
1-1 京城(汝矣島)飛行場:第二京城飛行場
汝矣島は漢江河川敷(中州)の平坦な草原で、陸軍練兵場だった。
この一部を、昭和3年に事務所を設置し飛行場として使用開始。
敷地 :滑走地域 750m X 600m
滑走路:コンクリート 長600m X 幅25m 航空照明灯設備あり
(※昭和7年に滑走路構築費を支出しているので、この時舗装したらしい。)
建物 :逓信局事務所、日航事務所、日航格納庫、日航修理工場、
朝鮮航空研究所格納庫、朝鮮航空事業社事務所、同社格納庫
この飛行場は漢江が増水すると孤島になってしまう。そのような洪水は年に数回あり、更に数年に1度は長期間閉鎖を強いられる状態が発生する。
また、滑走路の東南東2kmの地点に鉄道橋と道路橋があり、航空機の大型化・高速化に伴い離着陸に支障を来すようになりだしたため、京城の飛行場としては金浦空港に移転することになる。
金浦空港の開港後は、第二京城飛行場として小型機用・防空用として使用された。
1-2 京城(金浦)飛行場:第一京城飛行場
汝矣島飛行場は前記の水害と障害物があるため移転が検討され、金浦が選定された。
現地は丘陵地帯の疎林と畑で、十数戸の農家と数ヶ所の墓地が存在し、敷地周囲は水田。
昭和13年から整備に着手、15年春より3ヶ年計画で工事着手、18年10月に滑走路の大半が完成したため使用を開始、19年5月に当初2000坪を予定していた総合庁舎建物(ターミナルビル)を500坪に縮小して竣工、その他の設備も19年秋から20年春にかけて順次計画を縮小して完成。
敷地 :1200m X 1200m ただし主滑走路(北西−南東)は南東側に突き出ている。
総面積70万坪。
滑走路:厚さ 栗石・マガタム20cm + 乳剤舗装20cm
規格としては、全備重量30tの航空機の発着に耐えうる強度を確保。
北西−南東 長1500m X 幅80m
昭和18年、陸軍爆撃機の使用のため 1800m X 100m に拡張
北東−南西 長1200m X 幅80m
北 − 南 長1000m X 幅80m
東 − 西 長1000m X 幅80m
建物等:総合庁舎(ターミナルビル)、格納庫、軍兵舎、防空施設
その他:排水設備を完備
京城中心部から16.7kmあり、漢江堤防上4kmを拡張・舗装し、国道に指定。
1-3 春川飛行場(江原道)
昭和15年、不時着場として設置。
軍の要請で、待避飛行場に拡張する計画が立てられたが、未着手のまま終わる。
2.日鮮接続空港
2-1 蔚山飛行場(慶尚南道)
昭和3年、約6万坪を買収。10年、東側に4万坪拡張。就航機の大型化に対応できず、12年に大邱に移転。
その後は陸軍の野戦飛行場として使用。
滑走路:北 − 南 長600m
東 − 西 長600m 昭和10年の拡張
建物 :格納庫(350坪)、日航事務所(35坪)、空港事務所(30坪)
2-2 大邱飛行場
大邱市の西8kmの水田地帯約20万坪を、昭和10年より土地の買収に着手し、12年1月開港。
15年、50万坪に拡張。大刀洗陸軍飛行学校分教場も設置される。
滑走路:マガタム舗装の滑走路2本を又字形に設置。
設備 :水田地帯のため排水設備あり
(※戦史叢書の付図では、滑走路が又字形配置なのは蔚山になっており、大邱は滑走路1本になっている。これらの民間飛行場とは別なのか、どちらかの資料の間違いなのか不明)
3.西北地区
3-1 新義州飛行場
元々、河川敷地の簡易飛行場だったものを、昭和8年に正式に飛行場として設置。
川沿いに恒風があるため、離着陸には支障がないが、洪水で1ヶ月程度使用不能になることがある。
敷地 :600m X 500m
設備 :満州との国境飛行場のため、税関が常駐。国境警備飛行の拠点にもなるため、格納庫等も存在する。
3-2 平壌飛行場
従来、平壌飛行場としては飛行第六連隊の設備を民間航空で借用していたが、機体の大型化などに対応できなくなり、陸軍からの要請もあり、平壌の南西10kmにある力浦駅付近の丘陵地帯に新空港の建設に着手したが、未完成に終わる。
3-3 海州飛行場(黄海南道)
陸軍の砲兵演習場であったのを、昭和12年に一部飛行場として整備する。
4.東北地区
4-1 清津飛行場
清津市から北西10kmの水田地帯に、昭和11年建設。場所は海霧を避けるため、内陸方向に選定された。
滑走路:北西−南東 長1200m X 幅30m 13〜16年に建設、マガタム舗装
北 − 南 長1500m X 幅50m 19年4月追加滑走路として工事着手、未完成
設備 :格納庫約1200平方m、浸水防止用の外堀と排水用の内堀あり
4-2 咸興飛行場
昭和13年、新宮飛行場を仮使用して、京城−咸興−清津定期航空を開始。
14年、清津と同様に海霧を避けて、城川江の堤防沿いの内陸に飛行場を新設。
水田地帯のため洪水に悩まされる。
後に軍でも西飛行場の名前で使用。
4-3 羅南飛行場(咸鏡北道)
昭和13年、漁業用と大白山脈を越える陸路が不十分なことから緊急飛行用として設置。
後年、東京−新京(満州)直通航路の不時着場として使用。
20年、拡張工事に着手するが、進捗80%程度で未完成。
4-4 吉州飛行場(咸鏡北道)
当初は、滑空機用兼簡易飛行場として平坦な高台に設置。
19年に約25万平方米を整備し、1000m級滑走路の建設に着手するが、未完成。
5.南西地区(京城−光州航空路)
5-1 裡里飛行場(全羅北道)
栄山江河畔に不時着場として設置されていたものを、京城−光州間定期線開設に伴い、その中継地点として活用される。
昭和11年10月13日より京城−裡里間の試験飛行を実施。
昭和16年に6万坪に拡張・整備。
5-2 光州飛行場
京城−光州間定期線開設に伴い、昭和10年に松汀里と光州の中間点に建設。
極楽江沿いの水田地帯であったため、13年5月に簡易舗装滑走路とする。
同月、京城−裡里−光州間を週2往復する定期航空を開始。後に3往復に増加し、17年まで運行された。使用機は瓦斯電の千鳥型、朝鮮航空事業社が運行。
5-3 大田飛行場
昭和15年、軍の要請で、大田市より湖南に向かう国道沿いの丘陵地帯に建設される。
もっぱら軍で使用。
5-4 群山飛行場
海岸の平坦地が以前から不時着場として使用されていた。
ここに軍が飛行場を建設したが、工事の設計・監督は航空課が担当した。
(※航空課がどこの官庁のものかわからない。朝鮮総督府か逓信省か?)
6.不時着場
昭和12〜17年に、鳥致院(忠清道)、江陵(江原道)、鉄原(江原道)、北青(咸鏡南道)、長淵(黄海南道)、烏山(京畿道)等が整備される。
河川敷を利用した場合が多い。
データありがとうございます。なるべく 飛行場別にわけて書いていただけたら 助かります。いま 分ける作業しています
みんなの力で データが出来上がる可能性が高いので楽しみです
団子投稿してしまって申し訳ありません。かえって、お手間とらせてしまったようで・・・m(_ _)m。他の投稿見ればわかる事ですよね。
調べる手間に比べたら分ける作業はたいしたものでは ありませんよ(笑)。分けるのは飛行場ごとに新しい資料が入ることを考えたいからです。もしよかったら お持ちの図面をみせていただけたら幸いです。図面はそれを参考に別に書けば著作権には かからないと思います。
陸軍西筑波飛行場の正確な所在地わかりませんでしょうか。とある情報によると、茨城県下妻市と下館市の中間付近、関東鉄道常総線黒子駅の辺りにあったらしいのですが。この近辺、茨城に住んでいたとき何度かバイクで通ったことあるが、飛行場に向くような台地があちらこちらにあります。
その飛行場は「下館陸軍飛行場」でございます。関城町ですね。関東鉄道常総線の大田郷駅から鬼怒川にあった鉄道「砂利線路」の途中に飛行場がありました。下館は当初宇飛校などの分教場に使われていたために施設自体は小さかったですが、大東亜戦争末期に振武隊の練成基地、および51戦隊などが駐留したために三角壕舎や掩体壕、地下壕などがやたらいっぱい建設されました。現在は盛り土の掩体壕が2基と吹き抜けの屋根の弾薬庫が残っています。地元の人の話では下館の東部に小さい飛行場があったとの事。調査してみます。