QQCCMMVVGGTT
343 日本の航空隊パイロットが戦争後半、伎倆が未熟で撃墜されたり航法の失敗で未帰還になったのが大きな作戦上の不利になったわけですが、昭和12年以降に始まった日中戦争から先のパイロッや航空要員の養成計画ではまにあわなかったのでしょうか?

  1. 予科練等で本格的に大量採用、大量養成を開始したのは18年度からです。ですから、搭乗員の大量補充は20年前半まで不可能でした。これらを繰り上げ養成した人達が天号作戦等の大量特攻攻撃の要員となって行きました。BUN


  2. アメリカやイギリスで搭乗員の大量養成が開始されたのは昭和13年。実際に昭和16年の実績での比較だと日本側3000人に対してアメリカ11000人。昭和17年、18年には更に広がっているはずです。このタイムラグが太平洋戦争の航空戦に及ぼした影響は機材の差よりも大きかったのではないかと思っています。もう一つ、開戦時には戦闘機無用論の為に戦闘機要員がリストラされた影響が残っていて、戦闘機の場合にはとりわけ層が薄かったようです(EOS)


  3. しかし、この数字、大差が開いたように見えますが、米軍は双発以上の大型機を多数含むので正面で対峙する兵力としては米軍側が不利な位なのでは?


  4. ↑操縦要員の数では?、まず銃手は確実に含まない筈です。それと爆撃手、航法手、通信手の養成人数も別なのでは無いのですか?


  5. 日本は、国力の関係上(ようするに金がなかった)、パイロットの大量要請は不可能で、そのために


  6. 日本は、国力の関係上(ようするに金がなかった)、パイロットの大量要請は不可能で、そのために少数精鋭主義で行ってました。日中戦争では、相手の中国空軍のレベルが2流半だったため、パイロットの大量養成はほとんどやっていないのではないかと思います。大量養成が始まったのは、18年の学徒動員以降なのではないでしょうか。対してアメリカ軍は、日米開戦と同時に大量養成が始まっています。この理由は、皮肉にも我が日本軍の真珠湾空襲が引き金になっているのです。


  7. ↑続きです。真珠湾空襲を受けたルーズベルト大統領は、これを国民に知らせると同時に「真珠湾を忘れるな」と激を飛ばします。これを聞いた大学生たちは、ほとんどが兵役の応募に駆けつけ、キャンパスには学生の姿が消えたと言われています。こうした学生の中から育った大量のパイロットが、大戦末期の日本の空を蹂躙したわけです。(ぱんてる)


  8. 甲飛の入隊者数を見てみると、昭和13年には510名、昭和16年が1296名、昭和17年が2288名、昭和18年が31203名、昭和19年が76403名、昭和20年が25034名となっています。期別で言うと昭和18年の10月と12月入隊の13期から急増しています。乙飛の場合は、昭和15年までは年間600名ぐらいだったのが、16年には2446名、17年は2980名、19年が34239名、36821名です(EOS)


  9. 計算間違えました。乙飛は、18年が7307名、19年が34746名、20年が34314名でした(EOS)



Back