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792 本土防空戦に対する私の認識。

1.10000メートル近い高高度で侵入するB-29に対し、
高射砲も邀撃機も効果が薄かった。

2.硫黄島陥落後、B-29は夜間低空爆撃を行うようになったが、
護衛戦闘機を伴うようになったため、邀撃機はこれに阻まれた。

3.機材が慢性的に不足しており、散発的な運用しか出来なかった。

4.電探と無線機の性能が悪く、
敵機の探知・邀撃機の誘導が上手くいかなかった。

似たような認識の方は、結構おられると思うのですが、
「どっち」その他のコーナーで、1〜3はほぼ否定されております。
では、現実は一体どうだったのでしょうか?教えて下さい。
どんべ

  1. 「高度10000mにB29はいなかった」と書いたのは私ですが、これは米軍の空襲毎の作戦記録から攻撃高度を拾うと確認できます。
    次ですが、硫黄島陥落後にB29の夜間低高度焼夷弾攻撃が始まったのではありません。東京大空襲は3月10日未明に行われています。B29の都市空襲は大雑把に分けると、初期の8000m付近の高々度からの精密爆撃作戦を、効果が上がらない為に20年3月より低高度夜間焼夷弾攻撃に切り替え、更に5月の東京空襲での大損害から昼間低高度焼夷弾攻撃を主体に変更しています。P51の護衛はこのように夜間空襲では実施できず、少数機の出撃では実施されなかったことも記録に残っています。
    また、B29の出撃は都市爆撃だけでなく、日本沿岸への機雷投下作戦を非常に頻繁に実施しており、あまり注目されていませんが、日本にとってはおそらく都市爆撃よりも効果的な攻撃となってることも注目すべきです。

    そして、日本側の防空体制ですが、関東地区と関西地区では一般のイメージよりはるかに充実したシステムを構築し、実際に運用しています。例をひとつ挙げると、長崎への原爆投下の際、日本側は少数機で侵入したB29をトレースし続け、長崎への原爆投下機との判断を下し、ギリギリではありましたが警報を発令しています。
    B29の邀撃が最終的に破綻した原因は防空システムの能力不足ではなく、沖縄方面の航空戦に陸海軍とも航空兵力を集中投入した結果、防空戦闘機隊が弱体化し、本土決戦準備の為の温存策が採られてからは防空戦闘自体がほとんど発生しなくなったことによります。この辺りは、大規模な攻撃作戦によって最終的に壊滅したドイツ本土防空部隊を思わせます。
    ですから、よく言われる様な排気タービンの有無などは実に些末な要因で、極端な話、どうでもよい問題でした。


    BUN

  2. 書かれちゃった。やはり、実際には相当に善戦したと言っても良いのでは?
    ただ、昭和20年3月以降はB29の出撃機数が増えた事や、邀撃戦力の漸減
    +沖縄方面への投入により戦果が減少したのは仕方が無いと思います。

    まぁ、八丈島辺りまで陸地がドカンと続いていたら(^^;;彼らの損害もかなり
    増えていたでしょうネ。
    takukou

  3. 質問者です。回答ありがとうございます。でも、まだ満腹になりません。

     つまり、
    「システムも戦闘機の数も充分な物だったが、肝心の戦闘機を沖縄戦で消耗してしまった。」
    と、考えれば宜しいのでしょうか?
     防空戦で、雷電・二式戦・斜め銃装備機が活躍したのは、
    沖縄戦に不適だったため、本土に残されていた、という事ですか?
     また、高射砲については「届かなかった」のでは無く、
    「当たらなかった」という事なのでしょうか?
    どんべ

  4. 本来動員できた筈の兵力を最大限に活用できればB29空襲の一定期間の阻止は可能だったと思います。沖縄戦には飛燕で有名な244戦隊や疾風を高可動率で運用した47戦隊など、関東防空の要ともいえる部隊が関東を離れ、終戦まで帰ってきません。海軍も同様で、厚木に展開し続けた302空も雷電部隊の主力を送り込んでいます。ですから、沖縄戦は最終的に防空部隊の息の根を止めた、と解釈すべき側面を持っていると見るべきでしょう。また、高射砲部隊は恐らく戦闘機隊よりも戦果を挙げていると思われます。例えば5月25日の東京空襲では対空砲火による撃墜3機、損傷89機、戦闘機と対空砲火での損傷11機が報告され、戦闘機のみでの被撃墜報告は無く、戦闘機のみでの損傷10機となっています。但し、多くの原因不明を含めて、戦闘で喪われたB29は出撃機数498機に対し26機にのぼり、合計136機以上が撃墜、撃破されたことになりますが、状況未確認の撃墜に関わったのが高射砲なのか夜間戦闘機なのかは不明です。高射砲の防空戦闘におけるウエイトを知る参考になるのでは、と思います。
    BUN

  5. 迎撃管制システムに関していえば、同時期のイギリスやドイツと比べればあまりに貧弱というのは否定できないでしょう。レーダー、通信、IFFといったハードウェアが劣るのは仕方がないとして、ソフトウェアの面でも大きく見劣りします。
    レーダーも邀撃システムも陸海軍が別々に運営していて、それも敵機の動きを追うだけで、味方の戦闘機を直接指揮することもできない。戦闘機の指揮は例えば陸軍で言えば飛行団レベルが間接的で断片的な情報に基づいて個別に行うだけで、陸軍だけでも統一的な運用ができないetc。
    戦略爆撃団報告では日本の防空システムについて「したがって戦闘機を理想的な位置へ地上から導くように指揮することは不可能だった。実際にできた地上指揮の範囲は次の二つに限られていた。1.接近する編隊の飛行経路上にあると信じられる空域に集合させる命令。2.連合軍機の予想飛行経路についての状況。」

    ついでに高度について書くと、戦略爆撃団報告には次の記述があります。「日本空軍の標準的戦闘機は、連合軍機が昼間攻撃をかける高高度に到達するのが困難だった。B29編隊に対して1回以上の攻撃を掛けるのに成功したのはほんの少数機にすぎなかった」
    舞弥

  6. 確かにそうした側面はありますが、上記の様な戦闘はいくつか存在しますし、個々の戦闘の結果を見てゆくと、システム上の問題よりも邀撃に上がる機数がかなりストレートに戦果に連動していると思われます。システムとしての問題点にしても、システムそのものを検討すれば指摘の批判は導き出せるものですが、実績を考えた場合、例えば個機をトレースして細かく戦闘指揮を行ったドイツの防空システム等が挙げ得た戦果と比べても邀撃に上がった機数を比較すればさほど遜色ありません。これは目標が一定地域に集中していたことも寄与しているのかもしれませんが、関東地区への空襲に対しドイツ空軍と同様の機数が出撃していれば、と惜しまれます。また、高度の問題ですが幸いにも「Mission summary」「Mission Resume」の翻訳が出版されていますので確認できます。これらに記された高度での日本機の性能については他の方に譲りますが、何度も繰り返すように、B29の来襲高度が10000mに達することは実に少数です。この場合を指しているのだとすれば米軍の爆撃もまた自ら認め、作戦変更したように効果が小さかったのですから、かなり身贔屓な報告と言えます。B29邀撃失敗の要因は多数にのぼると思いますが、単純に防空システム(基本的にコンセプトは正しく、陸海軍の統一指揮を行う機能を建設していたのですが)の運用の失敗と、作戦全般を見渡して、どこをどう拾えばそう結論できるのか理解しがたい「高高度性能の不足」問題とに安易に帰結させるのは少々問題があるように考えますが、如何でしょうか。

    BUN

  7. ドイツ本土防空戦と我が国の本土防空戦は規模等からして比較にはならないの
    でしょうが、BUNさんの見解に一定の同意を持ちます。

    第20爆撃コマンドが中国奥地の成都から本土を爆撃した時には、出撃毎にほ
    ぼ10〜20%(!)の甚大な損失を記録しています。
    成都は位置的に補給が困難な為に、連続しての本土空襲は出来ない状況であっ
    た様ですが。この損失率からは、とても「連夜の爆撃」等実施しようものなら、
    先に音を挙げるのは米国側であった筈です。つまり、「一定期間の爆撃阻止」
    は可能であったと推察されます。
    この様に北九州地方の迎撃戦が我が方に有利(といっても差し支えないのかナ
    ?)に進展した理由としては。
    B29が我が方の占領地上空を飛行する距離が長い(初期の探知に有利、敵の被
    弾機の損失に繋がる)。
    第20爆撃コマンドの練度不足。
    我が防空部隊の練度が高く、戦意も高かった。
    等が挙げられると思います。

    逆に、関東地方等はいきなり海ですから、撃破され、不時着した機体は帰って
    来なくとも、クルーは助かる可能性があるし。ドイツ上空の様に目標まで波状
    に攻撃を受ける可能性も小さい訳です。なにせ、硫黄島へ不時着した機体は
    2.400機にも達した様なので・・
    それでも第21爆撃コマンドの月毎の「保有機数」に対する「損失機数」の比
    率は、昭和20年5月迄は10%程度を維持しており、B17に比べ機体価格が
    3倍以上に達するB29の損失は非常に痛手であったと思われます。

    高射砲の実績ですが、昭和19年11月〜昭和20年8月まで、マリアナか
    ら飛来し、損失を除くなんらかの被害を受けたB29の数は2.707機ですが、そ
    の内訳は
    高射砲によるもの:2.063機(76.4%)
    迎撃機によるもの:348機 (12.8%)
    双方によるもの :234機 (8.5%)
    であり、高射砲の実績が迎撃機をかなり上回っています。撃墜した機数も比例
    はしなくとも、この傾向にはあったと思われます。20年3月以降は高射砲の
    戦果が増えているのはいうまでもありません。 

    やっぱ、総括すれば、B17等に比して相当に性能が優越しているB29に対して、
    我が防空部隊は善戦した。と言っても良いとは思うのですが・・
    takukou

  8.  再び質問者。
    舞弥さん、援護射撃、感謝です。BUN・takukou両師匠、もう少しおつきあい下さい。

     お二人の言われるように、邀撃機の機数に比例した戦果が得られたという説を受け入れると、
    体当たり攻撃が行われたという事実と矛盾を感じるのです。
    可動機さえあれば、敵に有効弾を与える事が出来るという事なら、
    機材の消耗の激しい体当たり攻撃を行う意味は無いと思います。
    初期の高高度爆撃時に試みられたものが、大袈裟に伝わっているだけですか?
    どんべ

  9. では、何故体当たり攻撃は、時期的に短期間で中止され、実施部隊も非常に少数、部隊の中の体当たり機も極めて少数なのでしょうか?
    BUN

  10. 飛行高度についてですが、BUNさんの指摘が初期の高高度爆撃の高度が10000m以下の8000〜9000m程度を主用した事をさすならばそれは大した差ではないと思います。これはいずれにせよ日本戦闘機の手には余る高度です。予め情報を得て進路上に待ち伏せする事ができたとしても、高度(邀撃の為には目標機より1000m程度は高度の優位が必要)を稼ぐだけの余裕時間はなく、また反復攻撃をかける能力はありませんでした。これはほぼ同じ高度で行われたドイツの防空戦と異なる点です。この場合には日本側は最後まで有効な邀撃手段を持ち得ませんでした。だから排気タービンの開発やらどんべさんが書かれた特攻が実施された訳です。
    中期以降は高高度昼間爆撃から中高度以下の夜間爆撃、あるいは同じく中高度の護衛戦闘機付き昼間爆撃に転換された訳ですが(BUNさんが書いているのはこちらの意味かな?)、これは高高度からの爆撃精度が悪かった事と日本側も悩まされた高高度での偏西風を嫌った事、それから焼夷弾による地域爆撃に戦術が変更された事によって兵器搭載量を増やしたかった事とかがありますが、1945.1.19の川崎航空機明石工場爆撃の成功にもみられる通り、昼間の高高度精密爆撃でも目視照準可能な条件なら損害無しに見事な爆撃効果をあげられる事は充分に期待できるはずです。それをしなかったのは中高度以下でも損害は許容範囲に収まるからであって、実際に全期を通してのB29の戦闘機による損失は出撃31347機に対して74機で0.24%。ドイツでの例の約1/3です。
    日本側の防空戦は努力賞には値しますが、それ以上はなんとも言えません。

    初期の北九州爆撃で日本側が邀撃に成功した理由はtakukouさんの書かれたとおりだと思いますが、付け加えるなら来襲高度が低かった事や防御火網を形成できる緊密な編隊を組んでいなかった事もあげられると思います。

    なんだかんだ言ってもBUNさんやtokukouさんとそんなに大枠で認識が違う訳ではありません。
    舞弥

  11. 9.に関して言えば、体当たりに指定された機が限定されたのはB29に対して全機特攻に踏み切るだけの切迫感がまだなかったからだと思います。体当たり用に用意された機体以外も防弾鋼板を撤去したり武装や弾薬を減らしたりしていますが、実際のB29邀撃の戦力として期待されたのは体当たり機だけだったようにも見えます。244戦隊の小林照彦少佐によれば「普通装備の戦闘機では高度がとれないから、B29との戦闘はやらなくともいいという事になる。おかしな事だが結果はそうなる。地上から見ると敵機とすれ違っているように見えるが、実際は高度の差がどうしてもつめられないのである。そこで私は着任してすぐ、対B29戦闘をやる者とやらない者ができるのはおかしいと思った。防空戦闘隊と名が付いているからには全部が帝都防空のために戦うのが目的である」
    小林少佐のコメントは体当たりより何かもっと効果的で「邪道でない」戦法で戦うべきであるという趣旨なのですが、B29が高高度爆撃を続けていたら彼の意志とは逆に全機特攻が行われていた可能性は大きいと思うのです。
    舞弥

  12. B29邀撃戦は基本的に時期を分けて考えるべきもので、初期の高高度空襲の時期と20年6月以降のほぼ無邀撃期間までを一緒にして論じるのは混乱の元です。また、高高度爆撃の有効性が川崎明石の空襲で証明できるとは思えません。逆に、更に重要な目標として繰り返し攻撃を受けた中島飛行機武蔵製作所等がほぼ最後まで操業していたことからも、高高度精密爆撃というものが言葉ほど精密では無かったことが推測できるのではないでしょうか。
    そして、米軍の戦術転換が震天制空隊を解散させた、というのは時期的に微妙につじつまが合いません。私は高度8000mで日本側の性能に関しては触れていませんが、244戦隊の体当たり攻撃に関しては少し別の考え方をしています。実際には命令が存在し、それが実行されたということなのですが、244戦隊では戦隊長自らが率先して実施していることなど、他部隊に比較して非常に積極的です。私はこの辺に飛行244戦隊の部隊としての性格を見るような気がします。有名戦隊ではありますが、部隊番号3桁の急造戦隊であり、戦争半ばに母体となった独立中隊が編成されてから、装備においても恐らく最後まで九七戦を使用していた部隊でもあり、そこに着任するのが最年少戦隊長であれば、やはり二線級の部隊であったと見るべきではないでしょうか。まして装備機が飛燕の一型丁であれば、高高度への上昇に技実が必要であったことも想像できますし、そこに小林戦隊長のいささか異常な闘志が絡む、というのが20年初頭までの244戦隊の帝都防空戦なのではないでしょうか。問題はこうした力量不足、機数不足の戦隊数個(独の定数で言えば関東地区の陸軍単座戦闘機隊の定数全部でやっと一個航空団という機数)で防空戦が準備されたことでしょう。日本側の切迫感の無さが窺われる部隊配備状況だと思います。無意味に後期の比島航空戦に転出していった部隊があれば、防空戦に限って見た場合、確実に状況は変わったことでしょう。
    BUN

  13. 取り敢えず、舞弥さんに「大枠で認識が違う訳ではありません」と言われて安
    心しております。
    あとは些細な問題なのですが

    私としては、「1/3も」落とした。と見るべきだと思うのですが。どうでし
    ょう?
    独Bf110やJu88等は我が「屠竜」や「月光」とそう変わらない飛行性能だと
    思うのですが(「素」の状態だと負けるかも知れないけど、あっちはレーダ
    ーとか積んで重いでしょうから)。彼らにB29迎撃を委託しても得られる戦
    果は五十歩百歩ではないかと考えますが。
    実際、米側でもB17とB29は同列に扱えなかった様で。出撃毎3〜4機の損失
    ですら「許容出来ない」と考えていた時期もあった様です。

    いずれ、本土防空作戦は大都市が焼け野原になった事から、どうしても「歯が
    立たなかった」「惨敗」といった風評が大勢なのですが。抜本的にそれを阻止
    するのは不可能なんですよね。実際、我が国に比べて善戦したと伝えられる独
    本土防空作戦でも。結局、焼け野原が残った訳ですから。

    基本的に日本の防空システムが問題、というよりも「B29が落ちない」のが問
    題ではなかろうかと・・
    私は個々の機体の優劣は論じれませんが、どうなんでしょうか。B29の「落ち
    にくさ」というのは?
    takukou

  14. >12
    小林少佐の「ヤル気満々」についてですが、彼が生え抜きの戦闘機乗りではない(軽爆出身)ことが影響しているのではないでしょうか?
    まなかじ

  15. 244戦隊について書くと、この隊がいつ編成されたのかはよく分からないのですが、少なくとも太平洋戦争開戦の時には前身の144戦隊は東部軍隷下の既に存在しています。この時点で戦隊規模で防空戦闘機隊として存在したのは中部軍隷下の13戦隊と西部軍隷下の4戦隊だけで、後は東部軍に独飛101中隊が存在していただけです。97戦装備だったのは東京初空襲以前の本土防空がまじめに考えられていない当時では当たり前の事でした。東京初空襲の時には144戦隊の97戦はB25に攻撃をかける事はできましたが撃墜ははたしていません。この後244戦隊にはニューギニアに進出した68戦隊、78戦隊に続いて3番目に3式戦が配備されましたが、第一線の、海軍流に言えば外戦部隊を差し置いて新型機を優先的に配備されたのは、皇居がある帝都の防空がそれだけ重要だと陸軍が考えたからでしょう。244戦隊はその後最後まで防空部隊の中でも皇居直衛の特別な任務を与えられています。第10飛行師団には通常の3倍の月30時間の訓練飛行時間が与えられた事からしても、244戦隊は優先順位の高い、技量も低いとは言えない部隊だったと思われます。
    あと震天制空隊ですが、第10飛行師団指示の4人分以上は体当たりを用意していない事や編成が小林少佐の着任前である事から考えても、彼の闘志との関連性については限界があります。彼は確かに自機の尾翼を体当たり機と同じく赤く塗り、自らも体当たりしていますし、体当たり攻撃用の機体以外の普通装備の他の機体からも武装や装甲を撤去して軽量化していますが、これは一部の部下のみに犠牲を強いたくないという気持ちと帝都防空の大任を預かった熱意ある若い指揮官らしい責任感によるものだと思います。
    それ以外の点はみなさんに全く賛成です。
    舞弥

  16. まなかじ説はある意味、良いところを突いているかもしれませんね。
    小林戦隊長の闘志は発言、行動ともに非常に際立っています。「五式戦があれば必勝不敗」など、少し大袈裟な発言もありますが、それも244戦隊のそれまでの装備機であった飛燕一型丁の上昇力不足に苦労したことの反映ではないかと思います。本土防空戦隊の各隊の装備については、19年中、疾風装備の戦隊が存在しないことから見ても、やはり優先順位が低かったことは否定できないことでしょう。
    BUN

  17. 13.takukouさんの
    >>実際、米側でもB17とB29は同列に扱えなかった様で。

    米空軍博物館のホメパゲで一機あたりのお値段を調べてみました。

    B-17G $267000
    B-29 $639000

    軽く二倍以上ですか。加えて整備にかかるマンパワー等のランニングコストを
    考えると、やっぱ同列には扱えなかったんじゃないかなあと。
    小笠原

  18. 皆様ありがとうございました。
    このログは意義があると思いましたので、納得がいくまで突っ込ませて頂きました。
    途中から私ではついて行けなくなっておりますので、私はこれにて離脱いたします。
    どんべ

  19. 念のため書いておくと、私が244戦隊について言いたかったのは244戦隊は防空部隊の中では名門であって、たまたま有名になっただけの急造戦隊ではないと言うことです。
    舞弥


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