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零戦二一型に搭載されていた九六式空一号無線機ですが、無線電話機としてはほとんど実用にならなかったとされています(昭和十七年頃)。 型式番号から見て、昭和十一年正式採用のものだと思うのですが、実に6年近くも経過しています。なぜ、まったく改善されずにいたのでしょうか? みや |
- あまりのひどさに坂井三郎氏などは、無線機の支柱を切り落としてしまったようですが、同じ坂井氏が昭和二十年八月に米軍の大型機を零戦で迎撃した時には、地上からの無線が非常に良く聞こえ「相手の位置が手に取るようにわかった。」と攻撃に成功しています。
なぜ、開戦当初にこのレベルになかったのか?
レーダーの開発とは違い、当時の日本の技術でも十分可能だったはずで、謎です。
無線電話を活用できなかった事による損失は大きいと思います。
質問者
- レーダーも、無線機も、基本的には真空管等の増幅機により機能するものなので、
真空管などの基本パーツの問題(配線等の問題も含む)が低レベルにあった当時としては、
電探も無線機も、性能レベルの低さは同一線上にあったのではないでしょうか。
3号電探
- この無線機がどのくらいの周波数を利用していたのか、また、どこのメーカー製で、真空管のメーカーはどこだったのか等今だにわかりません。
(かなり評判が悪かったので、今でも「実はうちの製品でした」とは言いたくないとは思いますが ^^;)
実物がどこかにあれば、かなり明確になると思います。
映画の「加藤隼戦闘隊」では、隊長が無線電話を活用して部下を指揮するシーンが繰り返し出てきます。隼の無線電話機は調子良かったのかな?
質問者
- 碇義朗「戦闘機隼」で引用されている桧与平氏の回想によれば、隼の無線機も調子が悪く空中ではほとんど聞こえなかったとのこと。ただし空戦における無線通話の重要性をいちはやく認識していた加藤戦隊長はその改良に熱心で、技術者ともよく相談していたらしく、桧氏が「軽量化のため」と無断で無線機を降ろしたときは厳しく叱責されたそうです。
ささき
- 九六式はそのまま使われたのではなく、途中で改良されています。また、末期は出力の増大した三式に変更されています。真空管の質、やケーブル等について一部出版物でやや大袈裟な解説が行われていますが、実態はもう少し常識的なものであったようです。
BUN
- この当時の一般的な国産真空管は、
「マツダ真空管」(東京電気株式会社)のものだったようです
性能等については、現在調査中
3号電探
- >1
後期には変調方式がAMからFMになって行ったのも大きいのでは?
アメリカの通信機の性能がいい要因の一つに比較的早期よりFMを使用していた
と言う点もあります。
ラジオのキットを見ると分かりますが、AMは簡単に出来る(鉱石ラジオが
最たる例)のに対して、FMはかなり複雑になるのです。
ダークマター
- エンジンからの電磁波(イグニッションノイズでしたっけ?)の遮断が上手くされていなかったり、アースの取り付け位置が悪かったり、と言う感じで、全体を考えた偽装がされていなかったのも不調の原因だという話をどこかで読んだ覚えがあります。
tomo
- >6
マツダですか?
今の東芝ではないのですか?(東京電気の親)
後に品質管理手法で有名になった西堀栄三郎さん(第一次南極越冬隊長)はまさにこの真空管生産に携わっていたんですよね。
SHI
- >9
マツダランプは当時の東京電気のブランド名ですから、
東芝と言って良いと思います。
ちなみに東京電気と芝浦製作所が合併して東京芝浦電気製作所に
なったのが昭和14年のことです。
http://www.toshiba.co.jp/about/histo_j.htm
「昭和17年、我が国初のレーダ完成」ともありますね。
たかつかさ
- >10 日本最初のレーダー
なにをもって「レーダー」にするか問題ですが、海軍の十一号は昭和16年
に完成し勝浦に据え付けてます。これはメーター波。
センチメートル波の二二号も同年には試作完了してます。
これ、どっちも東芝が絡んでるんですがね(^^;生産だけかもしれないな?
ついでながら、陸軍の電波警戒機甲の試作完了は昭和15年です・・
tackow