1234 |
零戦からの脱出(落下傘降下)は、どのように行ったのでしょうか。 みや |
また、あえて脱出せず自爆という選択もされたようですが、ちょっと現代の感覚では理解しがたいのですが。
質問者
とにかく射出座席なんてものがなかった往時のことですから、自力で風帽を開け、
機体の外に踊り出るしかありません。
下手をうてば尾翼に激突する恐れがあったりで、
脱出作業それ自体がかなり危険なものではあったようです。
勝井
零戦は片道千キロもの長距離洋上作戦を飛びます。洋上で不時着しても基地や友軍艦船の近くなら拾ってくれますが、そうでない場合は奇跡的な幸運がなければ生還できません。米軍ならば乗員ただ一人のために潜水艦や飛行艇を回してくれますが、日本軍にはそこまでの余力はありませんでした。溺死するか、南洋名物の鮫に食われて死ぬか、飢えと渇きに苦しみつつ餓死するか…。遅々として苦痛に満ちた死を迎えるくらいならば、いっそ一思いに…という心理は理解できなくもないかと思います。
敵地上空では尚更、落下傘降下などは考えられない選択肢だったようです。軍人勅諭にある「生きて虜囚の辱めを受くるべからず」の一文が重要な意味を持っていたことは確かですが、搭乗員の心理は本音と建前の間で微妙に揺れていたようです。故坂井三郎の著作には敵地から生還した中攻乗員が自爆強要に等しい命令を受けたのを見て憤激し、部下に「自爆などもっての外だ、捕虜になってもいいから生き抜け」と訓示する逸話がありますが、その坂井氏自身「侵攻作戦においては落下傘と乗員をつなぐ縛帯(ハーネス)を着用しなかった」とも述べられています。
ささき
日本軍で捕虜になるのが許されざることを説明するのに常に使われることですが、戦陣訓以前、少なくとも日露戦争時にも捕虜になることをタブーとする思想はありましたし、例の言葉が一人歩きしているようで気になります。
Sampon
「死して虜囚の・・・」というのは聞いたことがあります。こうしたことが、特に反発もなく正論として受け入れられていたのは、旧日本軍が江戸時代から続く武士道の精神を強く受け継いでいたからでしょうか。
みや
うへ、またやってしまった…最近フォローを受ける事が多いです。イエローカード(_ _;)
3. ではまるで日本軍が捜索救助活動をやっていなかったように取れるので補足すると、米軍ほど徹底してはいないものの日本軍も数少ない戦力をやりくりして救助捜索に当ててはいます。友軍勢力下の無人島であれば間違いなく自爆より不時着を選んでいます。ただ、周囲に目標物が全くない大洋の真ん中へ不時着した場合、たとえ救助が来ても発見される確率は非常に低いものだったのです。
(米軍が救難用発信機…ELTをこの頃既に実用化していたかどうか、は別の疑問になってしまいました)。
ささき
>間にとりつけたワイアーで強制的に引っ張り出す方式なのでしょうか?
これだと尾翼に引っかかりやすくなると思います。
脱出し、尾翼に引っかからなかったことを確かめてから
リップコード(って言ったっけな)を引くはずです。
SADA
補足。高高度で乗機を失った場合、あまり早くパラシュートが開くと不利なことが多いですよね。
地上に降下するまで時間がかかるし、その間に風に流されて、とんでもない方まで流されてしまうかもしれません。
そうなると、捜索する方もたいへんですし、機上で負傷している場合はなおさらですね。
また、まだ空戦が続いている空域でふわふわとパラシュートで漂っているのは、どう考えても危険です。
そんなわけで、高度によってはある程度のスカイダイビングを行なってから開傘した方が有利な場合があります。
まなかじ
FJ1
ささき