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2018 特攻機について、手記等を読んだだけでは明確にわからなかったので、質問です。
複座機で特攻する場合、人間は常に座席の分だけ搭乗していたのでしょうか?
例えば、彗星や九九艦爆クラスではどうだったのでしょう?
他人の操縦の後ろに乗って特攻するのは、操縦者の何倍もの恐怖を感じるのではないか、と言う気がするもので。
なお、宇垣中将の場合は、中将が操縦していた訳はないので、操縦士は別にいたんですよね。


銀河

  1. 碩学が詳しくお答えになると思いますがとりあえず「ニュース速報」的レス。

    宇垣中将の場合は、固有の乗員+宇垣中将だったと聞いてます。
    これは後部座席の乗員が降機を拒否したためで、このため定員を一人オーバーした形で出撃しており、窮屈そうに乗機する搭乗員の写真が残っているそうです。
    (記憶カキコなので修正事項があればお願いします。)

    以前、「丸」に掲載された、99式艦上爆撃機特攻隊員の手記によれば、後部座席にも乗員を乗せ出撃したそうです。
    なお、同隊員は、F4U戦闘機3機と単機で空中戦となり、損傷(後席搭乗員負傷)を受けながらも敵戦闘機燃料切れまで持ちこたえ、鹿屋飛行場そばに不時着して生還したそうです。
    F4U隊長機は帰還時に、激しい攻撃に屈しなかった99式艦上爆撃機に、バンクを降って敬意を表したそうです。
    SAW

  2.  今、文献をさがしましたが同定出来ませんでした。したがって記憶モードになります。しかし私も以前おなじ疑問を持っている時に読んだ事ですのでまず間違いないとは思いますが。?
     
     これは陸軍と海軍では違いがあったはずです。
     原則としては、海軍の場合は、通常の出撃時と同じ数の搭乗員が乗り込んだ(あるいは乗り込むべきだった)はずです。複座の場合は二人、それ以上の定員数の機体の場合は、定員数だけの搭乗者が乗ることを原則としていたはずです。
     これに反して陸軍の場合は、一機に一人の搭乗員が原則だったはずです。
     
     ただしこれは、あくまで原則であり、陸軍の最初の特攻隊、富嶽隊の四式重には、1機につき、2人〜3人の搭乗員が搭乗しました。
     また昭和20年3月17日?の、飛行第十二戦隊の三浦忠夫中尉(少飛1期、少候22期)の指揮する特攻隊の場合は、四式重、3機の各機毎に、操縦2名、航法1名、機関1名、射手1名、通信1名 の6名搭乗しました。(しかし途中、敵レーダーによると思われる敵戦闘機コルセア5機の攻撃を受け、3番機は墜落、三浦機と2番機は、どうにか帰還。このときの戦果確認機の1機には、戦隊長の新海希典少佐(陸士50期、サイパン飛行場のB29攻撃を指揮、感状上聞に達し陛下に単独拝謁を許された数少ない武人)であり、戦死されています。特攻には反対であった戦隊長、新海少佐が、自ら戦果確認機で出撃されています。・・これについてはいろいろ考え方はあるとは思いますが。

     また以前にも書きましたが、海軍では直掩機の戦死は特攻戦死として扱われましたが、陸軍の場合は直掩機の戦死は、突入が確認された時のみ特攻戦死とされ、それ以外は普通の戦死として扱われましたました。
    roht

  3. >新海希典少佐
    黒江保彦氏の著書「あぁ隼戦闘隊」に新海氏の思い出がありました。地上ではだらしない事この上なく、服装など何時洗ったのかわからない物を平気で着、いつも無精髭の豪快な笑顔から「黄金仮面」の渾名で親しまれたそうです。陛下謁見のときは「いくら何でもその格好じゃまずい」と部隊を上げての大騒ぎ、風呂に入れて散髪させ新しい軍服を貸して送り出したそうです。黒江氏がサイパン攻撃について「凄い活躍だな」と訊ねたところ「真っ暗な海上を飛んでいって、島が見えたから飛び越えて爆弾を落として、後部銃手が『命中燃えました』と言ったから何かに当たったろう、と思っただけ。俺は大したことなんかしてない」と事もなげに話していたそうです。「1の事を10くらいに吹聴する者が多かった中、10を為し遂げて1しか語らない男」とは黒江氏による人物評です。
    ささき

  4. >新海希典少佐。 三浦忠雄氏の手記には、『戦力の逐次使用を嫌い、特攻作戦に反対を称えた人であったが、上級司令部の要求を退ける事が出来ず戦果確認を自ら買って出たと聞く。「出撃の度毎に予は地上において指揮を取る」と申して部下だけを戦場に送り込む多くの指揮官に比べれば月とすっぽん程も違いのある真の武人であった。』とあります。またこの特攻出撃は、飛行第十二戦隊としては、初めてのものでした。
      銀河さま、話をそらして申し訳有りません。

    rort


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