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2235 100式司令部偵察機関係の回想談話で、「バラバラになってきた機体を拾
い集めて現地で1機作り、後部座席の部分がなかったのでスペースががら開
きで、そこに8人乗せて基地を撤収した」というような話があったのですが、
こんな事は可能なのでしょうか(機体を合体させて1機作る事と、100式
司偵に8人も乗せる事)?
あとこういう現地部隊が作った機体はちゃんと編成に組み込まれるのでしょうか?
みは

  1. 破損機の再生は公式に命じられた作業として前線各地の航空廠で実施されています。当然最前線でもできる技術と人があればするでしょうし、実際に可動機数の中に組み入れて報告もして出撃もするのが普通ではないでしょうか。機体について回る書類「機体来歴簿」等を現地再生機の場合どのようにするのか実例を知りませんが、継続使用するならば管理上、何かその機体についての記録簿が作られたと思います。
    また、何人乗ったというのは搭載量の問題で、500kg爆装で離陸できる機体に8人詰め込んでも不思議は無いでしょう。スペースさえ許せば20人位乗せても百式司偵は飛ぶのではないでしょうか。
    BUN

  2. 現地で修復組み立てた機体の製造番号をなんと記録するのかは問題ですが、ラバウルで組み上げて使用されたキ−46IIは結局「三菱2783号機」ということになっています。同機は20年9月18日、零戦五二型3機とともに、全身純白に緑十字の姿で連合軍に引き渡されております。(ラバウルで修復されてトラックまで三往復してマラリヤ薬30万錠を持ち帰った功労機があったというのが、やはりこの機体なのかもしれません)
    ラバウルで修復された零戦としては、上野に展示されていた複座の二一型「53−122」号機が有名ですが、この日百式司偵といっしょに引き渡された五二型も「53−」で始まる尾翼番号をつけており、統一的に運用されていたらしいことがわかります。



  3. 御回答ありがとうございます。
    日本機=細身の胴体に大きな主翼、の先入観がありまして、どうやって8人も
    詰め込むのか疑問を感じたのですが、確かに搭載量で考えれば問題ないですよ
    ね。こういう場合の機体番号などについてはよくわからない部分が多いので
    しょうか?
    その回想談話では1度に8人づつで南往復かして撤収したけど、途中から色々
    とガタがきはじめたので俺はそれっきり乗らなかったが、あれはどこいったん
    だろうな?みないな書き方を確かしていました。



    みは

  4.  破損機を寄せ集めて再生機を作るのは、日本機の場合は厄介だったようですね。
     アメリカやドイツの飛行機だと、規格どおりにきっちり作られているので、他の機体のパーツを持ってきてもピタリと合いますが、日本機の場合は、ネジ穴などは現物合わせで開けてあるので、1機1機微妙に位置が違ってたりして、その改修が手間だったとか。
    絵塗師

  5. 百式司偵ではないですが、月光の話しだったら本で読んだことがありますよ。
    天山艦攻の搭乗員だった方の著書で「青春天山雷撃隊」
    マリアナ沖海戦直後のグァム島から、破損した月光2〜3機を1機の機体に整備し、機体整備に協力した15名の整備兵を後席背後の空間に搭乗させ、通信員1名、操縦員(著者)1名の計17名でトラック島まで飛行したとのことです。
    著者は後席に装備している機銃と機銃弾の重量を約1トンと見込み、それを外せば、整備員15名×65kg=975kg<1トンと、重量的には定員外15名程度の搭乗は可能と計算したようです。

    Syoshinsya

  6. たぶん同じ方の回想録を読んでいるのですが、その機体は第2戦隊所属機で、操縦席後方燃料タンクを撤去してスペースを稼いだ機体ではないかと思われます。この燃料タンクは容量670リットルほどあり、ちょうど重心位置にありますから、重量・スペース・バランスともに8人積むのに無理はないはずです。
    Schump

  7. 空技廠に勤められていた方に話を伺ったところ、「別ロットで造られたF4Uコルセアの残骸同士を合わせたところ、リベット穴がピタリ一致した」と記憶されていました。また本題とは関係ありませんが、末期の日本機は打ち抜き生成部品の研磨加工を省略しており、計器板の裏側なんかを触ると手を切ったりしたそうです。
    ささき

  8. 重爆に何人乗せたかについては、次のような内容の手記があります。

     昭和20年8月16日。本土空襲による被害を避ける為、戦隊本隊のある熊本から、攻撃隊のみ関東州の三十里堡飛行所に移動していた(沖縄方面出撃時のみ熊本に帰り爆装をして出撃した)飛行六十戦隊の、角田功(少候21期)氏は、隊員240数名を、7機の4式重に乗せて(1機、最大34名?)、午後4時離陸、終戦により飛行禁止の空を飛び、午後7時過ぎに熊本に全機無事に着陸帰還されています。
     角田氏を迎えた戦隊長渥美中佐は、目に涙を浮かべ「ありがとう、ありがとう」と角田氏の体を抱いて離されなかったそうです。

     ビアク防衛戦中であった2HA参謀長沼田多稼蔵中将を、マノクワリ飛行場に救出にむかった、池島重次郎(少候23期)氏は、不要のビス1本まで抜き、九七重I型に、爆撃室に8人をはじめ、合計28人を詰込み(ママ)サテマまでの飛行に成功しています。
     この時、池島氏は私物の持込は一切禁止し、自ら搭乗人数を決める事無く、乗りたい人間が自ら危険だと感じて乗らなくなるまで乗せたそうです。
     離陸直前に現地司令官との会話、「池島君、次は何時、来てくれるか?」、「なぁ〜に、すぐに、また来ますよ。」、「そうか。」 お互い二度と会えない事を充分に判っていての会話だったそうです。

     34名と28名 これが四式重と九七重I型の性能の差なのでしょうか? 終戦後と激戦地等の状況の差も考慮が必要でしょうか? 私と致しましては、操縦者の腕の差とだけは、考えたくないのですが。 
    roht

  9. >8 これが四式重と九七重I型の性能の差
    乗る人が危ないと思う所までという事ですので、本当はもっと乗れたのかもしれませんが
    一応両機の最大重量から自重を引いた(恐らく)搭載可能量は97重爆I型が2.8t、
    4式重爆が5.1t程になります。
    飛行距離や燃料搭載量の差もあると思いますが参考程度にどうぞ。
    ルージュ


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