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2387 岩本徹三氏が253空時代に搭乗した零戦を模型で再現したいのですが、
岩本氏の乗機(機番102と104)は何型だったのでしょうか?
21型説と52型説(キット付属のデカール)があるようで混乱しています。
各説の根拠など、どなたかご存じないでしょうか?
ヨハン

  1. 全くの素人ですので、目に付いた文献とHPのご紹介のみさせて頂きます。

     手持ちの文献『日本海軍航空隊のエース 1937−1945』ヘンリー・サカイダ著 
    大日本絵画 2000年 1月 によりますと、岩本徹三飛曹長は、昭和17年11月に253空付となっておられるようです。
     また、上記文献のP69に、「零戦艦上戦闘機二一型 1943年1月 追浜基地
    岩本徹三上等飛行兵曹 追浜航空隊所属」と説明文の付いた、零戦の左側面のカラー塗装図が掲載されています。
     
     下記には、
    http://www.cityfujisawa.ne.jp/~3104yama/aa0003.html
    上記と同じ機体と思われる飛行中の零戦の絵があります。

    以上、ご紹介のみさせて頂きました。 

    roht

  2. 1> ご質問後、1週間ぐらい回答が有りませんので、既にご存知じかもと思いましたが、念のためお知らせのみいたしました。
    roht

  3. rohtさん、回答ありがとうございました。
    上記の資料を当たってみましたが、ラバウル時代の機体ではないようです。
    自分では、岩本氏は204空から転属しており、その204空の主力は、
    例の映画社のフィルムなどから52型であったようなので、機材ごと転属したと
    氏の手記にある253空でも、52型を主に使用していたのでは、と思っています。
    ヨハン

  4. 今更という気がしますが、少し書き込ませていただきます。

     モデルアート臨時増刊「零式艦上戦闘機モデリングガイド」等によると、岩本徹三氏の乗機とされる機体の機番および型式は
     機番 3−102 : 二一型
     機番 3−104 : 五二型
    となっています(ハセガワの1/72零戦五二型では3−104は岩本徹三氏の乗機に指定されています)。
     しかし、モデルアート臨時増刊「日本海軍機の塗装とマーキング[戦闘機編]」の折り込みに昭和十九年二月ラバウル/トベラ基地 253空 岩本徹三飛曹長搭乗機のイラストがあります(機体左側面に桜の撃墜マークがびっしり書き込んである機体)が、これが
     機番 53−104 : 二一型
    となっています。
     残念ながら私は岩本徹三氏の著書を読んだことがないのですが、新型の五二型は熟練搭乗員に優先的に回される一方、熟練搭乗員の中には新型の五二型を新人搭乗員に譲り、敢えて旧式の二一型で出撃する者もいたという話を聞いたことがあります。
     そして、熟練搭乗員である岩本徹三氏も同様の行動をとっていた可能性も低くないと私などは想像してしまいますし、岩本徹三氏が旧式の二一型で戦っていたという話や、その機体の側面が撃墜マークでピンク色に見えたという話も聞いたことがありますが、残念ながら私の手持ちの資料では、これらの機番と型式を確認することができません。
     機番53−104(二一型)と機番3−104(五二型)は同じ機体である可能性もありますが、迷彩が前者が三菱式、後者が中島式となっており、可能性は低いのではないかと考えます。
     ここからは私の想像です。
     上記の三機の零戦がすべて岩本徹三氏の乗機で日付等も正しいと仮定すると、機体を乗り換える際に機番が同じ(104→104)とは考えにくいので、
      機番53−104(二一型):ラバウルでの乗機
      機番 3−102(二一型):ラバウル撤退〜トラックでの乗機(?)
      機番 3−104(五二型):トラック〜本土撤退時の乗機(?)
    ではないかと想像します。
     なんだかかえって混乱する話になってしまいましたが、参考まで。 
    T216

  5. 当時ラバウルで204空に所属していた小高氏の著作では五二型(丙となっているのは記憶違いか)に搭乗していたようです。機体の撃墜マークは搭乗員の撃墜マークというより機体固有の撃墜マークのように書いてあります。整備員の勲章でしょう。「この機体は元を取っている云々」の記述があります。岩本氏が固有の機体を使用できたかどうかはわかりませんが、伝統的に海軍は適当に割り振っていたようにも思えます。ただ、前述の小高氏の著作中にも緊急発進で隊長機に飛び乗って・・・とあり、それだけは別の標識が付いていたのではないでしょうか。
    オンブー

  6. 皆さま回答ありがとうございました。
    ご意見を参考に自分なりにさらに吟味して、製作に役立てたいと思います。
    ヨハン

  7.  では、さようなら・・・では素っ気なさすぎて、回答してくださった方に申し訳ないような気がしてきたので、なぜ混乱しているのか、ちょっと書いておきます。
    岩本氏の手記では、ラバウル到着直後の281空分遣隊時代は、21型を使用しているようです。しかしこの機体は被弾して修理不能になったとのこと。
     その後岩本氏は204空、253空と渡り歩くのですが、253空時代の機体が
    手記の中では「253−102」だったと書かれています。この機体の胴体に六十個の撃墜マークがあったそうです。そしてその102号機をオーバーホールする際、新たに割り当てられたのが「253−104」となっています。こちらもその後の戦闘で十八個のマークを書き込んだとあります。ただし何型であったのかの記述はありません。「53」が「253」なのは記憶違いと思われます。
     モデルアート別冊のピンナップは、同じ本の中にも掲載され、世界の傑作機bT5の57ページにも掲載されている「53−160」を参考に描かれたものと思いますが、このピンナップの「104」には六十個の撃墜マークが描かれており、これでは岩本氏の記憶とは違ったものになってしまいます。このピンナップの104はその後、ハセガワからもヨンパチの21型でキット化されています。これはもしや、岩本機のマーキングはこれが正解・・・といえるような、自分の知らない新資料が発掘されているのではと思い、悩んでいたのです。
     確かに岩本氏の手記には、記憶違いでは?と思われるような箇所(ニュースフィルムの撮影時期など)があるにはあるのですが、明らかな根拠もなく氏の記憶(手記の記述内容)と違うピンナップを描いたり、キットを発売するのは、いかがなもとかと思ってしまったのです。やはり私の知らない資料があるでしょうか?
     激戦のラバウルでさえ52型は全部の部隊にまわらなかったらしいので、岩本氏が21型に乗っていた可能性はあるでしょうが、氏の空戦スタイルを考えると、少しでも優速の52型を選んだのでは?とも思えます(急降下制限速度はたいして違いませんが・・・)。
     こうやって書いていると、また混乱してきました。いっそのこと、21型と52型の両方で「102」と「104」を(計四機)作ろうかとも思ってしまいます。
    ヨハン

  8. おくればせながら岩本氏の著作を読んでみました。二一型に乗っていたときに高々度性能が良くないことを嘆いていましたが、途中からそのような記述がないこと、常に敵よりも高い位置から攻撃をかけていること、などから五二型のような気がします。しかし、さすがに「虎徹」といわれるだけあって、すごい飲みっぷりですね。坂井三郎氏とは正反対の性格だったのでしょうか。
    オンブー

  9.  もう誰も読まないと思うけど(泣)岩本徹三氏の著作を手に入れる事ができたので、少し思うところを。
     7.でヨハンさんが指摘されているように、岩本氏の著作とモデルアート別冊のピンナップは大きく矛盾しますね。
     ところで、4.でも書き込みましたが、ハセガワ1/72零戦52型の塗装指定は岩本氏の乗機として機番「3−104」をあげ、中島製の迷彩パターンで指定しています。
     しかし、学研の「零式艦上戦闘機2」を見ると、岩本氏がラバウル撤退する頃、すなわち19年2月末までの中島製52型の生産数はわずか40機(うち、30機が2月生産)です(同時期までの三菱製52型の生産数は739機)。
     このことから、ラバウル時代の岩本氏の乗機が中島製52型である可能性はあったとしても極めて低く、中島製であるならば21型、52型であるならば三菱製の可能性が高いと考えられ、モデルアート別冊のピンナップ及びハセガワの塗装指定の両方ともに疑わしいのではないかと思います。
     個人的には、岩本氏の著書の記述や前後の状況、また204空の島川飛曹長が17年11月に52型で出撃したと手記に書いていること等から考えると、「102」「104」とも52型の可能性が高いのではないかと思います。
     実は、私も岩本氏乗機の零戦52型を製作しようといろいろ考えていたのですが、調べれば調べるほど訳が分からなくなり、途方に暮れているところです。
    T216

  10. >9. 204空の島川飛曹長が17年11月に52型で出撃した
    と書きましたが、時期的に考えて52型ではなく32型の間違いでしょうね。
    失礼しました。
    T216


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