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3219 1式戦は最大速度560km/h、九七戦並みの運動性、400〜600kmほどの侵攻距離を要求されて開発されましたが、要求を満たせず不採用となりました。飛行実験部は15年8月参謀本部より16年4月までに片道900km侵攻できる戦闘機を2個中隊そろえたいと要求されて、97司偵の単座化や軽爆を改造する案まで検討した結果、キ43を戦闘方法を変えることで97戦に優ることを証明して、1式戦として採用されたエピソードがあります。後の戦局を考えると極めてきわどい状況だったと思いますが、このとき参謀本部では陸軍としてはメンツが立たないでしょうが、零戦を陸上機化して、三式戦、四式戦までのつなぎに採用する方法はなかったのでしょうか。陸上機でしたら、タンクの容量も少なくできるし、翼幅も52型のように短くできて更に高速が狙えたかもしれないと思うのですが、いかがでしょう。
KM

  1. 一式戦が合格したのですから、製造ラインの心配の無い(一旦撤去されていますが)物を採用するのが常道でしょう。
    零戦を採用した場合、どこで生産するのか設備を作る時間があるのか大問題になり、結局開戦に間に合わないでしょう。
    早房一平

  2. 開戦初頭じゃあ、海軍内ですら零戦の数が足りてないのです。
    そんな状況で貴重な零戦を陸軍にまわすとは思えませんし、
    ましてや20mmの弾すら不足してる状況では陸軍にまともな数の20mm弾を回せるとは思えません。
    こんな状況じゃあ零戦をよしんば運用できても7.7mmのみの運用となり、
    それではただ単に速いだけの97戦になってしまいます。
    また、7.7mmの弾自体も互換性も陸軍とはなかったんではなかったのでは?
    これじゃあまともな運用もあやぶれます。

    また、タンクを小さくして翼幅小さくするくらいの改設計するのでしたら
    隼をそのまま量産したほうがはるかに時間的に現実的でしょう。

    あと、最近思いますが零戦21型や32型よりもどうも隼2型のほうが強かったのでは?と思うことがよくあります。
    弱武装と呼ばれた隼がビルマでB24、B25、スピット、ハリケーンを
    なんだかんだいいなからきちんと落としているのはなぜでしょう?

    戦闘機の性能は最高速度や武装のみで決まるのではないことはお忘れなく・・・
    P-kun

  3. 陸軍は条件さえ整えば零戦を装備したかったことでしょう。
    実際に南東方面へ陸軍航空隊を進出させる条件に零戦の供給を要求として掲げていますので、仮に供給が実施されていればラバウルには陸軍零戦が進出していたことになります。これは性能面の話ではないのですが、装備してもよいという姿勢があった点で注目すべきことだと思います。
    しかし、陸軍が必要と考えていた当時の遠距離戦闘機の需要は隼で十分に満たされるものだったのではないでしょうか。三式戦や四式戦は採用当初の遠戦としての一式戦後継機とはなり得ないものでしょう。
    米英新鋭戦闘機に対する主力戦闘機としては一式戦と同時に採用された二式戦が存在したのですから、一式戦の生産をわざわざ零戦に転換するメリットは無かったと考えられます。
    BUN

  4. 開戦時に、一式戦の性能を心配していたと言う話しは聞かないですね。
    九七戦に比べ、旋回性能は劣るし速度向上は期待外れで、不採用となった訳ですが、
    大航続力の他、上昇力を活かした垂直面の戦闘法で九七戦に優る事が分かり、
    一式戦として制式採用された時点では、充分な評価を受けていた様です。
    但し後の戦局を考えて、特に速度の点を懸念して、二式戦を直ちに開発し対応した点は、
    陸軍の見識を示すものであり、それに応えた中島の開発力を信頼していたと思われます。
    従って初期において、零戦を陸上機化して使用する、の考えは無かったのでは。

    1式戦採用の直後に、中島で4式戦の開発をスタートさせ、後期に量産しており、
    1式戦は過程の機体としてとらえられており、
    零戦と比較するのであれば、1式戦+4式戦で考えるべきであり、
    この観点からは、隼は妥当な性能を有していたと考えられます。
    いその

  5. はじめて回答させていただきます。陸軍機零戦への転換はそんなに難しくなかったのではないでしょうか? っと言いますのは、中島飛行機は海軍用の生産ラインと陸軍用の生産ラインを持っており、零戦の大半は中島飛行機で作られています。同じ会社で二つのラインを持っている以上、軽戦2機種つくるのは問題ありませんが、おんなじ機種つくるのはもっと効率的なはずです。20mmについては陸軍の機銃工廠が海軍から99式1号2号ともに図面をもらっています。できないわけではないでしょう。(つまり陸軍工廠で弾と機銃作ればいいし 機銃の生産時間は飛行機作るよりはるかに短くてすみます。)つまり 陸海軍がお互いにライバル意識をもって飛行機の開発をおこなうことで 飛行機の性能を上げるっと言う思想が根底にあったはずです。ゆえに装備機の共通化はお互いのプライドのためにできなっかったと愚考します。(陸軍としては隼より零戦のほうがいいのはわかっていたのであくまで南東方面への進出を口実にちょっとほしかっただけでは?)
    ひろぽん

  6. >4
    開戦にあたり一式戦が米英の新鋭機に対して有効に戦えないのではないか、という懸念は確かに存在しています。その為に「かわせみ部隊」が二式戦で編成されているのです。また、一式戦と二式戦の開発はほぼ同時に同じ年度の兵器研究方針によって開始されたもので、制式制定されたのはどちらも昭和十七年一月の陸密三八号(一式戦)、陸密二六三号(二式戦)によります。二式戦の事実上の合格通知である仮制式制定は前年の十六年末です。ですから一式戦の将来を見越して開発した機体ではないのです。
    陸軍航空隊が機材の面で海軍航空隊に遅れをとっているという認識は東条首相以下、ほぼ認める空気が存在していますし、仮に南方作戦が実施されなければ陸軍の主力戦闘機は九七戦から二式戦へ移行していた(キ四四が一式戦となっていた)可能性はかなり高かったのではないかと思います。

    一方、なぜ零戦を陸軍が採用しなかったかという点については、南方進攻用の遠戦として一式戦はほぼ要求性能を満たしており、現有の九七戦に対して武装も強化された存在だったことから大局的に見れば零戦でも一式戦でも本質的な違いが無いことによるのでしょう。同じような戦闘機をあえて陸軍仕様に改造する必要は無いとう単純な認識が零戦採用を本格的に検討しなかった最大の理由ではないでしょうか。
    ライバル、プライドと一口に片付ける事は簡単ですが、九六艦戦にも陸軍での採用検討が行われ、雷電、九九艦爆などもまた陸軍航空隊での採用が検討された機体です。その中で零戦だけに具体的研究が存在せず、キ番号も振られていないのですから陸軍にとって零戦の魅力はさほど大きなものではなかったと考えるしかないでしょう。実際に陸海軍の機種統一へ向けての動きは既に開戦前から着々と準備されつつあり、練習機から始まって実用機の統合へ向けて動きつつありました。
    BUN

  7. 皆様、貴重な御意見ありがとうございます。、キ43は明野を中心とする戦闘機パイロットに反対され、次期戦闘機採用まで九七戦で間に合わせることで不採用になりました。参謀本部が14年8月に長距離侵攻戦闘機の暢達を要求してきた時、もしキ43が垂直面ともえ戦に持ち込む戦法を確立できなければ、単座型九七司偵に20mmを装備した物ぐらいしか具申できなかったのではないでしょうか。もともと参謀本部ではキ43を使うつもりだったのかもしれませんが。
    陸上機にするということに関しては、艦上機に必要な装備が不要になり、その分、例えば外板が薄いため速度制限のついた21型より、後に外板を厚くした52型のようにしたり、防弾装備を充実することができ、陸軍のメンツも立つのではと考えたのですが。
    KM

  8. 14年8月でなく15年8月の間違いでした。
    KM

  9. プライドなり面子なりの問題ではなく、必要が無いから計画が無いのではないか、と申上げた通りですが、一式戦の採用経緯も垂直面の空戦性能云々よりも基本的に低速だった事が一番の問題となっているのではないでしょうか。
    BUN

  10. ありがとうございます。採用の経過につきましては、当時再審査を担当した今川一策少将(最終階級)の回想から引用いたしました。1式戦にしても開戦時40機しか装備できなかったのですから、ほんとうにきわどい状況でした。
    陸軍が零戦に魅力を感じなかったのは、560km/h出る機体が欲しかったので509〜518km/hの21型ではだめだったのでしょう。1式戦1型の2翔プロペラで18年まで1年半使い続けたのは解せないのですが。
    KM

  11. 「一式戦が開戦時に40機」というのは大袈裟なたとえ話として語られているもので事実とは異なります。また最大速度についての要求は500km/h以上ではないでしょうか。
    零戦が三翅プロペラに変更されたのは主に振動の為ですから、振動問題さえ発生していなければ重量増加を忍んでまで三翅に換装されず、開戦時の零戦のプロペラが二翅のままだった可能性もあります。
    更に開戦間際に「本当にきわどい」状況にあったのはむしろ零戦の方でしょう。昭和16年4月の下川事故の分析による主翼改修に機動部隊の零戦が着手したのが9月末で、10月一杯かけて行われた改修工事がぎりぎりのスケジュールだった上に同じく出港直前まで機銃も照準器も間に合わない状態だったのですから危ういのは零戦の方なのです。
    BUN

  12. 開戦時、40機は間違いのようです。その部分は別の本からの情報でした。16年4月までに40機完成したと世傑13集にありました。まことにすみません。最大速度の最初の要求は世傑には500km/h以上とでています。この辺は正式文書に接する機会がないのでわかりません。「回想の日本陸軍機」という本には560km/hをねらってとでていたのです。ただ最初の審査の段階で改良案の第1案(6号機、7号機)のカバー付き固定脚の場合、443km/h。引っ込み脚の第2案機(8号、9号機)は500km/hだったとあります。総合性能は別にして一応クリアしたことになるのですが。2案機には途中からハ115に改める計画だったとあります。零戦も2翔ペラの可能性があったのですか。九六艦戦が3翔なので海軍は3翔があたりまえと思っていました。スピットファイアなどは2、3、4、5翔とプロペラを増やしていっているので、高速機には少なくとも3翔にするのは必要条件かと思い込んでいました。ありがとうございました。
    KM

  13. よくある誤解ですが「2翔」ではありません。「二翅」です。
    BUN

  14. 6、7号機の固定脚化説については、疑問視する意見が中島の設計部にいた方、及び陸軍航空技研にいた方から出されています。脚に覆を施さず、引込みの機体を脚出し状態でデータ収集しただけだとのことです。キ27改をキ43Iの名で3機試作実験したという事実があり、これとの混同があるのではないでしょうか。また、それと並行するキ43自体の発動機換装は、ハ105で行われています。


  15. 変換ミスでした。すみません。片氏の指摘についてはわかりません。今川大佐が飛行実験部に着任したのが15年5月で不採用が決まった後ですし、あとがきを見ると今川氏他の人たち(この項では今川一策、安藤成雄、富田素忠、木村昇、黒江保彦各氏といった陸軍関係者)の談話を航空情報の横森周信氏(昭和37年当時)が筆記編述する編集方法なので固定脚が、もし間違いでも今川氏からでたものではないと思います。固定脚のキ-43の写真があれば見てみたいと思っていました。
    KM


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