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3230 日本陸軍のキ-44「鐘馗」の開発についてなのですが、碇義朗氏や鈴木五郎氏によると、キ-43の設計に飽き足らない中島設計陣の自主開発であるということですが、兵頭二十八氏によると、日中戦争時にソ連製SB爆撃機に襲撃された教訓から陸軍が企画したという話です。
どちらが本当なのでしょうか?
T・I

  1. キ44の開発経緯についてはその制式制定の経緯を述べた文書が残存しています。どの年の兵器研究方針によって開発されたかが明記されていますので自主開発などではありませんし、SB爆撃機との関連も憶測に過ぎません。実際には重単座戦闘機としての要求項目に沿って開発された陸軍の次世代主力戦闘機です。
    BUN

  2. 言われてみて、たった今MSの検索で調べて確かめました。
    早とちりみたいだったですね。
    面目ない・・・。
    ・・・しかし、片方でキ-43を試作命じておいて、もう片方で全く逆の思想のキ-44を同時に中島に命じるなんて、なんとなく矛盾するような気が・・・。
    陸軍は一体何を考えてこんな事をしたのでしょうか?
    結果的に、キ44も欠かせない機種になったとはいえ、この当時は、軽戦さえあれば充分だとは思わなかったのでしょうか?
    T・I

  3. 軽単座戦闘機という概念は重単座戦闘機と同時に構想された新しい概念だからです。その意味で九七戦は「軽戦」ではありません。戦闘機は今後更に高速化、重武装化が進むだろうとの見通しは陸軍航空本部内では疑う余地の無いものだったのです。
    BUN

  4.  日本だけを見ていると判りにくいのですが、1930 年代なかばの外国戦闘機の動向を見てみてください。1934〜35 年頃には 1000hp 級液冷エンジンに 8 連装機銃を持つハリケーンや 20mm モーターカノンを持つモランソルニエ 406 などの実用化が進み、その後継機として重武装を維持しつつ更に高速化を推し進めたスピットファイヤやドボアチーヌ 520 が構想されています。新興ドイツ空軍では複葉の He51 から一足飛びに世界最先端レベルを目指した He112, Bf109 が登場し世界を驚嘆させています。アメリカでは 1000hp 級空冷エンジンを積んだ P-35, P-36, F2A が既に実用段階に入り、その後継機として新鋭アリソン液冷エンジンを積んだ P-39, P-40 に大きな期待が掛けられている頃です。

     こういった情報は趣味の航空雑誌にも紹介されており、航空畑の軍人や航空機設計者が知らない筈はなかったでしょう。欧米の新型戦闘機が高速・重武装化してゆく傾向は誰の目にも明らかであり、ノモンハンで I-16 ごときに勝ったところで 97 戦の寿命が延びるわけもなく、日本の次世代戦闘機が戦うべき相手は欧米の新鋭高速戦闘機だったのですから。

     しかし、日本は大馬力エンジン開発について欧米から3〜5年は遅れており、「高速・重武装」という同じ土俵で戦えば不利になるだけ、というジレンマがありました。キ-43/キ-44 という対照的な機体がほぼ同時に開発されていること、数々の困難にも関わらず液冷エンジン戦闘機のキ-60/61 開発が推し進められていることは(個々の性格や運用思想だけに捕らわれると)奇妙にも思えますが、上記のような時代背景に照らし合わせると判りやすいのではないかと思います。

    ささき

  5. 詳しいご説明ありがとうございましたm(__)m。
    T・I

  6. 13年頃から97戦選定でとったような競争試作はとられなくなりました。その理由は試作機種が増えたためと、メーカーにはそれぞれ得意機種があるので無意味な競争試作はさけたほうがよいということになったそうです。機種選定にあたって、海外の新型重戦闘機の登場が大きく影響して単座重戦、復座双戦といった新しい概念の戦闘機や高性能司偵等が計画されました。キ44は従来の空戦性能を重視したキ43に対して、翼荷重を高めて速度を重視した重戦として「両方とも試作してテストしてみよう」という程度の思想から開発が開始されたようです。この用兵思想の不徹底がこの機の欠点である航続距離の短さを克服できなかった原因でした。(仮想敵がソ連戦闘機だったからではありますが。)この当時どういう訳か同じメーカーに重戦、軽戦が1機種づつ試作命令がでています。キ43とキ44、キ60とキ61、保険として計画されたキ62軽戦とキ63重戦(中島)。これは空冷エンジンの中島、液冷エンジンの川崎とそれぞれ得意分野に専念させるためと、これはまったくの類推ですが97戦選定のとき三菱がキ33で熱意を失った前例を考慮したためではないでしょうか。同じ技術レベルで軽戦と重戦がどういう形になるかみてみたかったのかもしれません。
    Army

  7. 昭和13年の兵器研究方針では軽単座戦闘機と重単座戦闘機の航続距離要求は共に標準で行動半径300km+空戦30分、最大で行動半径600kmまで延長となっています。キ44の航続距離要求はこの研究方針がベースとなって行動半径600kmとされ、この数字はヨーロッパの水準で言えば長距離戦闘機のものです。兵器研究方針を逸脱して大航続力が求められたキ43にこそ不思議があり、キ43の試作難航の原因はまさにその大航続距離要求にあったと言える面があるのですから「キ44が後続距離の短さを克服できなかった」という事実はありません。キ44は要求仕様を満たしており、世界水準の長距離戦闘機だったのです。その後重単座戦闘機への航続距離要求は軽単座戦闘機より長いものとなり、兵器研究方針上の重戦、軽戦の定義は名実共に重(フルスペック)戦闘機と軽(スペック軽減)戦闘機という形へと変化しています。そして開戦後には、兵器研究方針から軽戦、重戦の区分は消滅してしまいます。
    「古い概念=軽戦から新しい概念=重戦への進化」という従来広く言われている解説は少なくとも開発史的には間違いなのです。
    BUN

  8. キ44が要求仕様を満たしていることはBUNさんのおしゃるとおりだと思います。開戦直前、13機の試作機のうち9機で有名な独飛47中隊を編成し、インドシナ半島に進出した際、落下タンクもない状態なのでやっとの思いでサイゴンに到達したけれど、航続力不足で後方基地から侵攻できず、前線に出撃したのは17年にはいり、シンガポール攻略戦の最終段階でした。本来、1式戦で敵航空戦力を排除して飛行場を設営し、キ44がその地域の制空権を維持するはずなのでしょうが、飛行場設営技術が悪いため前進基地をどんどん作ることが出来なかったのがキ44が活躍できなかった理由でした。要求性能を満たしていたのですから、15年の試作機完成時に制式採用されるはずなのですが、97戦における過去の成功体験が影をおとし、なんとなく見捨てられた形になっていました。欧州の戦場には97戦のようなタイプはいっこうに現れず、どんどん重戦へ移行する傾向が顕著になっていました。16年夏来日したドイツパイロットのBf109Eと模擬空戦(?)をした結果キ44もキ45も十分使えることがわかったところに大平洋戦争が始まり文句なしに制式採用されたのが真相のようです。
    Army

  9. 落下タンクは移動時付いていました。47戦隊付きの整備担当、刈谷少尉によると、黒江保彦氏の思い違いだそうです。
    Army

  10.  堀越二郎/奥宮正武氏共著による「零戦」には A6M 試作当時の各国主要戦闘機との性能比較表が掲載されていますが、比較基準となっている 96 艦戦が「軽戦」という言葉で表現される一方で零戦は「重戦」として扱われ、参考輸入品の He112 やボート V143 が「軽戦」に分類されています。
     陸軍の公式文書に現われる「軽戦」「重戦」という言葉は概念ではなく具体的な要求仕様を示していますが、それに対して概念としての「軽戦」「重戦」という言葉に当時どんなニュアンスが込められていたかを示唆する一端になるかと思います。
    ささき

  11. Armyさんそれも違います。
    キ44は見捨てられていたのではなく試作機が不調で低速だったからです。試作機の調整に試行錯誤が繰り返され、ようやく16年末に仮制式制定されているのです。また日本に何でBf109があったのかと言えば、その発端はBf109を購入して装備する検討がなされた事実があるからです。戦闘機を高速重武装化させねばならないという方針は既定のものだったのです。
    そして南方進攻時の陸軍は飛行場を設定しながら進攻したのではなく基本的に既存の連合軍飛行場を利用しながら進攻しています。飛行場の設定能力が劣る為にキ44が進出できないという訳でもないのです。キ44は防空ではなく、存在が予想されたスピットファイア等の新鋭機に対抗する攻撃の一番槍として配備されたのです。

    ささきさん
    もし、堀越さんが直接書いた言葉で、しかも戦中に書かれた堀越さんの文章中に出てくるなら考える価値はありそうですね。
    BUN

  12. BUNさんのおっしゃるとおり最大速度は600km/hの要求に対し1号機は550km/hですが、5号機に改修を加えた結果、武装なしながら590km/h、607km/h、619km/h、626km/h(防火壁前方の隙間を塞いだ状態)を16年7月ごろに出しているので低速のためとは思いません。(世界の傑作機16集より)陸軍内部でも欧州の情勢をよく見て、進歩的な考え方をもった技術者やパイロットもいれば、明野を中心とした、従来の軽戦から抜けきれなかった軍関係者もいて、それを説得する苦労は並たいていのものではなかったと思われます。「こんな危険な飛行機に若いものを乗せられるか」とダンビラを持って大声を出せば終わりなのですから。全武装時でも確実に580km/hが出ることがわかっても、二次審査の結果は対爆迎撃には使えるが対戦闘機用には実用性無しとされました。Bf109との模擬空戦も実際は戦法の違いから成立しなかったと聞いています。旋回性能の比較で日本機が優秀であることが判明して、逆に軽戦に対して悪い意味で自信を深めてしまい、キ44の制式採用は17年2月ずれこんでしまいました。ところでキ43の行動半径の要求仕様ですが、「世界の傑作機」65集で渡辺洋二氏が800kmというのは大きすぎ、実際は600kmではないかとその理由も書かれていますので一度ご研究ください。
    Army

  13. キ44の採用決定は昭和16年12月です。16年7月の626kmに至るまでカウリング周り他の改修を続けてのことです。その結果12月の仮制式制定(こちらの方が制式制定よりも事実上重要な手続きです)されて陸軍の制式兵器となり、翌年昭和17年1月28日の陸密263号によって制式制定されています。制式制定は普通部隊配備後に行われる傾向にありますから、制式制定が17年1月であるならば半年程度前には結果が出ているのが普通なのです。そして、かわせみ部隊の編成はこれに平行しているのですから、結果が出て即時採用に向けて動いていると見ておかしくありません。
    制式制定の日付については昭和19年1月1日陸軍航空本部技術部作成の「航空兵器略号一覧表」によるもので市販の本に書かれた伝聞、推測の類ではありません。

    そして航空兵器の開発を司る機関は陸軍航空本部で、陸軍飛行実験部の任務は出来上がった試作機を「出来る限り早期に実用する目的」で審査を行うのです。審査という言葉から見れば絶対的な権限があるように思えますが、本来実用促進の為にチェックを行う場所ですのでここの独断で兵器採用が決まる訳ではありません。兵器としての制式制定は最終的に軍需審議会での討議によって決定します。ですから飛行実験部の搭乗員が刀を振り上げて大声を上げて恫喝するような事件があれば単に処分を受けて部署を外されるだけではないでしょうか。要求するのは参謀本部、企画するのは航空本部、最後の実用実験でチェックを行うのが飛行実験部です。事実上かなり川下の機関なのです。

    キ43の翼内燃料タンクの容量は試作時から571リットルではないでしょうか。燃料搭載量は機体の設計を煮詰める前に航続距離の要求値に対してエンジンの燃料消費量をにらんで決定されるものですから、零戦と同等以上の航続距離を目指していることになり、兵器研究方針から逸脱しているのは不思議な事だと思います。
    BUN

  14. 飛行実験部というのは昭和14年12月に出来た新しい組織と聞いています。明野飛行学校と別組織と思っていました。ダンビラ云々はいかにもありそうなことと勝手に表現いたしました。申し訳ございません。「こんな危険なものに若いものを乗せられるか」という表現はどなたかの記事で見たことがあります。軍隊は階級がものをいう社会といいますが、上層部が通達を流しても隅々まできちんと歯車がまわるように動いた組織とは思えません。(勝手に動くめちゃくちゃな組織とは言っていませんよ。)どんな組織でもキシミはあるものです。案外インテリのエリートより実戦を経験した現場の声というのは無視できるものではないように思います。「天皇陛下の大切な兵隊を」といえば黙らざるを得ない伝説をよく聞きます。キ43の行動半径ですが、南進作戦のため遠距離戦闘機にするときに、固定ピッチプロペラから調速器付きハミルトン定回転プロペラに変更されていますが、これは関係ないでしょうか。
    Army

  15. 飛行実験部はキ44の採用が話題であった為に採り上げただけのことです。開発と審査にあたる部署はこういう関係にあるということです。組織の機能の面を説明している横で「どんな組織でもキシミは・・」等と想像されるのは自由ですが、せっかく何冊かの本を広げているのだから物事を決め付けずに探究されては如何でしょうか。現場の意見は無視されたのか、採り上げれたのか、そもそも現場の意見とは何だったのか、さらに現場が反発したかもしれない中央の方針、思想はどんなものだったのか、そしてそれらを論証できる事例は何か、証拠資料はどれなのか、調べる事は幾らでもあると思います。
    BUN

  16. 多少情緒的表現で申し訳ありません。BUNさんの公文書中心の実証的研究について異論はございません。私の得られるバイアスがかかったり、ノイズが多く、増幅された情報では真実はわからないのかもしれませんが、古代史を解きあかすのでなく、その時代を生きた人から得た情報は多少ノイズがあっても雰囲気くらいは読み取れるのではないでしょうか。「こんな危険な云々」のところは世傑16集の刈谷大尉の手記に「こんな暴れ馬に乗れるか/殺人機だ/若い者を乗せられるか」と明野飛行学校の実用試験でさんざん悪評を受けて、キ43とは逆にオクラ入りの運命をたどるのだから皮肉なものだ。(中略)それまで半年間をやむなくキ79戦闘練習機の審査等で過ごしていた筆者も、にわかにキ44の追試験で多忙な毎日となった。とあります。キ43の遠戦としての再審査で航続力テストで荒蒔大尉が63リットル/hの燃費を計測したが、平均的パイロットの編隊飛行ならば90〜100リットル/hに増すだろうから、明野側は航続力合格をいわなかった。とあります。(世傑65集)天皇陛下の云々のところは日曜日の朝のNHKの歴史番組の2.26事件の中で総理秘書官が昭和40年に30年後の公開ならと録音した内容の中にあった言葉で、極めて情緒的表現で申し訳ございません。
    Army

  17. まったくの余談ですが、私は模型が好きでしたので模型の資料として本を読み始めたのですけれども、世界の傑作機などを読んで「この解説はいったい何を元に書いているのだろう」といつも首を傾げていました。そのうち同じテーマの本を各種読んで行くと、どの本がどの本を引用しているのかといった情報の親子関係が見えて来て、最終的には原資料にまでたどり着くことになるのですが、その他にも興味深かったのは戦後の長い年月の間、当事者の方々の発言もまた移り変っていることでした。私は一時期「設計者の苦心談と現場の苦労話はそのまま信用しない」(今でもそういう態度ですけれども)つもりで色々なことを調べていましたが、最近は聞き取り調査の際などでただ単に事実の切れ端を拾い集めるだけでなく「その人が伝えようとしている物事、思いは何なのか」を推し量ることも大切だと考えています。当時の雰囲気を知ることは大事なのですけれども180度異なる見解にも出会いますし、意外と難しいものだと私も思います。
    BUN


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