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311 旧海軍では戦艦、空母には菊の紋章が付いてますが巡洋艦、駆逐艦にはついていなかったと思います。何か基準があったのですか?大きさは違うにしろ同じ帝國海軍
艦船なのに・・・
たか

  1. あれは帝国海軍の分類上『軍艦』に付けるものなのです。
    なので巡洋艦には付いているハズです、ハイ。
    砲艦となどの小型の艦艇にも付いているのに、秋月型等
    の約3,000tクラスの駆逐艦に付いていないというのは、
    個人的には少々納得がいきませんが...(笑)
    きん

  2. >1.
    【正誤届/恥】
    正:『砲艦などの』誤:『砲艦となどの』
    きん

  3. 砲艦になぜ御紋章がついているかというと、砲艦はその名の通り、砲艦外交をする機会が多いのでつけているのだと本でみたことがあります。当時の日本では、中国に砲艦を派遣していたので、威光を見せつるけるためだったのでしょう。
    Takky

  4. ↑は、間違いではないと思いますが、(何度か類似の質問が出るのたびに思うの
    ですが)要するに軍艦であるかないかが法的な違いを生むのだと思います。軍艦
    には国際法上の権益があるはずです。ただ、日本海軍における軍艦以外の艦艇の
    国際法上の位置付けに関して、きちんとした文献を調べたことはないですが。

    今泉 淳

  5. 駆逐艦であれ、海自の護衛艦であれ、外国訪問時には軍艦として解釈されるはずでしょう。菊の御紋章の有無と国際法上の軍艦としての扱いとは必ずしも関係は無いでしょう。
    駆逐艦が軍艦の趣きがあるにもかかわらず、御紋章を付けていないのは駆逐艦の導入時の艦種が水雷駆逐艇であり、艦でなかったことに由来するのだと考察しますが、如何なものでしょうか。
    BUN

  6. ↑実は、その辺りが良く分からないのです。私の想像は既に書いた通り
    なのですが、↑のような意見に関して実を言うとちゃんとした文献を見
    たことがないのです。

    この辺りは、日本海軍の軍艦とその他の艦艇の類別の歴史と、諸外国の
    砲艦の歴史を調べてみる価値はあるように思います。

    ただ、少なくとも日本海軍においては「軍艦」に類別されるかどうかと
    いうのは法令上の厳密な意味での違いがありますし、「日本陸海軍総合
    事典」の「軍艦」の項目にも、(確か)「国際法上の権益がある」と書い
    てあるのです(駆逐艦や潜水艦を「軍艦ではない」とした上で)。

    じゃ、「軍艦じゃない艦艇」の国際法的な位置付けがどうなるのかとい
    うことは、上記文献は語るところがないわけで...

    本件は、もうちょっと調べてみます。
    今泉 淳

  7. 確かに、軍艦旗を掲げていれば...ということを考えると、「(国際法上の)
    軍艦として解釈される」云々は、それなりに説得力を持ちます。ただ、そ
    うすると何故砲艦が軍艦に類別されていたかに対しては、何らかの別の大
    きな理由や歴史的根拠があるかのように思われます。本質問の趣旨とは離
    れますが、別質問にも類似のものがあったかのように思うので、(手元の
    資料では少なくとも調べられないので)時間をかけて調べてみたいと思い
    ます。
    今泉 淳

  8. ちゃんと調べてみたいと思いますが、思惑から言うと、
    発生時点で駆逐艦の元祖であった艦種と近代砲艦のそれとは、大きさと伝統において砲艦の方が「立派」なものであった、という仮説から始めたいと思います。
    BUN

  9. ↑今とりあえず手元の資料を片っ端から読んでいますが、艦政的に砲艦が軍艦に
    種別される明確な理由は見出せていません(多分に歴史的経緯が大きいものと思
    いますが)。取り急ぎ報告まで。
    今泉 淳

  10. お手本が英国だからでしょう
    艦長ってのは役職以外に階級を表すのです

    艦長とは国家の名代を務めることが出来る
    選別された高級士官という意味合いがあるのです
    当然、その指揮下にある艦艇は国家を代表する権限をもっているのです

    よって創生期の日本海軍でもそれを真似て
    艦長指揮の艦艇を基準として
    下級の士官が運用する艦艇は軍艦ではなかったのです

    創生期の日本艦の場合
    外洋に出られる、つまり国家の名代になることが予想される艦艇は
    巡洋艦と砲艦しかなかったのにも注意してください
    そう、この頃は駆逐艦は無かったんです
    貧弱な水雷艇が、要港防衛にあったぐらいで、名前は番号でした
    空母も当初は補助艦艇だったので、御紋章は後からです

    また海防艦が御紋章付きだったのは
    当初は旧式艦や小型警備艦艇を表すのではなく
    巡洋艦もどきだったからです>三景艦なんかが海防艦です

    河川砲艦や、新海防艦が、軍艦籍なのは
    軍艦籍であることを要求されたからなのです
    つまり中国や北方警備では外交問題に発展する恐れが常にあるので
    国家の名代として軍艦である必要性があったのです
    慣例として、軍籍の艦艇は国際的に重要な位置付けを持っていますが
    念の為にも「軍艦」を派遣する必要性があると判断されたのです

    良いところに嫁入りするのに色々あれだから
    どっかの養子にしてから入るようなものですな(笑)

    SUDO

  11. >つまり中国や北方警備では外交問題に発展する恐れが常にあるので
    >国家の名代として軍艦である必要性があったのです
    >慣例として、軍籍の艦艇は国際的に重要な位置付けを持っていますが
    >念の為にも「軍艦」を派遣する必要性があると判断されたのです

    これらが正しいとしたら、私が一応あたった文献などにおける記述には
    矛盾しません。仮に日本海軍の「軍艦籍にない艦艇」が軍艦旗を掲げる
    ことで、国際法的には「軍艦」(=様々な権益を持つ)と見なされるとして
    も、なお日本海軍の軍艦に種別されることが「望ましかった」というこ
    とかと思います(「軍艦籍であって欲しかったのだろう」という想像ま
    ではしたのですが、その厳密な理由まではさすがに特定しかねていまし
    た)。

    できれば、上記の件に関して記述のある文献をご教示願えれば幸いです。

    今泉 淳

  12. いえ、まったくの推論です(;_;)

    SUDO

  13. でもって、軍艦籍が重要だったのではなくて
    指揮官が「艦長」であることが重要だったのではないかと思うのです

    艦長、つまり大佐が指揮する以上
    それは「軍艦」でないと困るってのが根底に有ったのでは?
    また、軍艦になると、ある程度の自己裁量権を持ちますから
    出先機関として考えると、かなり重要な要因だったのではないでしょうか

    個々のの要因・要素は、材料としては弱いとは思うのですが
    それらが合わさったとき、それなりの説得力があったのだと思います

    でもって、便乗質問
    陸戦隊の編成と派遣って「軍艦以外」でも自己裁量で出来たんでしょうか?
    これが出来るのと出来ないのでは、かなり違うように感じたのですが

    そいや河川砲艦って、艦隊司令部の旗艦能力持ってるんですよね
    規模も能力も比較にならないけど
    第七艦隊旗艦ブルーリッジと似た性格かも>あれも艦長は大佐ですよね
    そういった、海軍としての慣習もあったのでは?

    SUDO


  14. 職場なので文献を参照できないので、あしからず。

    >いえ、まったくの推論です(;_;)

    期待してたのですが。(;_;)

    > でもって、軍艦籍が重要だったのではなくて
    >指揮官が「艦長」であることが重要だったのではないかと思うのです

    あー、その気持ちはよーく良く分かります。自然にそう考えたくなり
    ますよねえ。

    んでも、実は揚子江の砲艦の艦長って、実は少佐とか中佐もいるんで
    す(大佐がどの程度いたのか、逆の意味でまだ判然としませんが)。50
    期の寺崎隆治さんなんか、その例のはずだと思いますよ。

    ですので、

    >艦長、つまり大佐が指揮する以上
    >それは「軍艦」でないと困るってのが根底に有ったのでは?

    指揮官の階級には無関係なのではないかと思います(事実からす
    れば)。まあ、一応定員令上の砲艦の艦長職の規程はチェックす
    べきなのでしょうけどね。

    で、家にあるとある陸海軍辞典(1万円以上した割には、あんまり
    たいしたことない)に、多賀一史さん(でいいんだっけ?)が、「砲
    艦」の項目を執筆されていたのですが、そこにはやはり「艦政上
    軍艦に種別されていた」理由は、外交上の関係とありました。

    確かに、国際法的な意味での「軍艦」の定義(確か、現役海軍士
    官名簿に載っている士官が指揮をして云々とかいうのがあったは
    ずです)からすれば、駆逐艦とかだって「軍艦扱い」になるはず
    なので、砲艦(や海防艦)が必ずしも軍艦である必要はないように
    も思われるのですが、日本海軍の艦政上の都合で「軍艦」にされ
    ているそれ以上の詳細な理由はわかりかねます(更に調査します)。

    どっちにしろ「軍艦でないと困る」というのはあったと思います。
    ただそれが、国際法的な意味ではなくて、日本海軍のどのような
    都合によるものなのかということですね。


    今泉 淳

  15. 薩摩藩から明治政府に移管された1859竣工の乾行、同じく佐賀藩からの1868竣工の延年が砲艦に類別されていることから、砲艦という艦種が発足当時の帝国海軍にとって議論の余地なく立派な軍艦であった、と想像しては、早計か・・・。もうちょっと調べなきゃいけませんね。
    BUN

  16. 河川砲艦の場合、列強の同業者に対するハッタリもあったのでは?
    王室にそれなりの敬意を表するのが当時の常識だったのですから
    菊の御紋章はそれに合致していたのかも

    SUDO

  17. 明治海軍初の本格的国産軍艦にあたると思われる1876年竣工の清輝艦は、任務の上でも国産艦による初の欧州各国訪問を果たしています。平時に於いての「軍艦」らしい任務を初めて果たした艦ではないかと思いますが、この艦、トン数は897トン、15糎砲以下6門搭載で、ちなみに艦長の階級は中佐でした。
    この艦の先輩、あるいは同期にあたる同クラスの艦に後に砲艦に分類される艦が多くあり、千トン前後の軍艦が明治後期まで一等、二等砲艦として存在しています。
    これに対して、駆逐艦は出現当初は250トン程度の小型艇(明治28年度海軍拡張計画修正案の中に12隻建造の計画)から始まり、ヤーロー社製345トンを経て、明治42年にようやく千トンを超える航洋能力を持った一等駆逐艦が建造され、この時点で、ようやく駆逐艦が砲艦(と呼ばれる船)をトン数で超える場合が生まれる訳です。
    その後定義の曖昧な砲艦と言う艦種は航洋砲艦と河用砲艦とに別れて行くのですが、これら後期の砲艦に菊の御紋章が残された理由をについて外交の問題を真っ先に考えるのはどうかと、思います。まして外交の意味するところの異なる北方警備においての海防艦も同様です。

    砲艦という艦種が軍艦籍を維持していたのは上に記した経緯により明治期の砲艦が「大きく立派な軍艦だった」からなのですが、その後に於いて、菊の御紋章が長く残された最大の理由は人事上の都合、軍縮期のポストの確保にあったのではないでしょうか。
    八八艦隊計画中止後、次の艦隊拡充期まで艦長クラスを予備役に編入せず温存出来たことなどを考察してみてもいいのではないでしょうか。
    不自然に高位の役職を必要とする部署が存在する場合こうした理由を第一に考える方が自然な気がします。戦時に砲艦、海防艦からの他の艦の艦長クラスへの転勤の事例があるかは未調査ですが・・・。
    BUN

  18. 明治の中期まで、日本海軍には「類別」は基本的に無かったので
    便宜上「砲艦」とか「巡洋艦」とかスループとかと呼称してましたが
    正式には全部「軍艦」です

    これを、真面目に分類したのは明治23年ですが

    第一種 戦闘航海に堪える軍艦
    第二種 水雷艇
    第三種 戦闘航海に堪えない軍艦
    第四種 運送船等
    第五種 倉庫船等

    つまり、往時の砲艦は、立派なのかどうかでは無く
    戦闘航海が出来るので「軍艦」だったのです

    またBUNさんの指摘する海軍内の事情ですが
    大正期の日本海軍は軍縮から少しでも身をかわそうとしていましたから
    うなずける部分も多々有るのですが
    既に河川砲艦は第一次大戦前に数隻存在します
    明治38年12月に大々的な艦種類別の変更が行われたときには
    未完成でしたが、建造が進んでいたのですから
    この艦に相応しい類別を用意することも十分に可能だったと思います
    何しろ、この改定で駆逐艦が軍艦籍から外されてるのです(!)
    河川砲艦が軍艦籍から外されても不思議ではなかったのでは?

    SUDO

  19. 河用砲艦が800トン以下の二等砲艦として明確に用途が規定されたのは明治38年ではなくて明治末年頃ではないですか。それ以前は単純に千トンを基準に一等、二等を分けていたはず。
    38年頃にはまだ大型の砲艦が在籍しており、駆逐艦が千トンを超えるのはその直前なので、駆逐艦が軍艦籍を持つ方が不自然ではありませんか。
    しかも、初期の河用砲艦は、あの日本海大海戦に何と参加しており、この場で私が主張したい砲艦の「軍艦としての立派さ」に更なる輝きを添えております。
    どんなもんです。「立派で、大きい」でしょう。
    BUN

  20. ダメですよ日本海海戦もちだしては(笑)
    あの海戦は、闘える船は全て参加したんです
    「宇治」は常備620トンの河川航行も出来なくは無い航洋砲艦で
    あの戦いに参加するのはある意味当然です
    この頃の駆逐艦は300-350トンですから確かに「大きくて立派」ですが
    これは河川砲艦では無く、まさに砲艦だったんです

    私が河川砲艦と称したのは明治39就役の「隅田」で
    英国で完成後、分解されて37年上海到着、現地で組み立て開始
    もう日露戦争やってますな>当然ロシア側の妨害もあったようです
    ちなみに排水量は126トンで駆逐艦より小さいです
    分解され運ばれて組み立てられたことなど、初期の水雷艇に近いです
    これを「軍艦」としたところに、私は非常に興味を持つのです
    何故「二等砲艦」で、独立艦種「河川砲艦」でなかったのか

    この時期の日本海軍は明治という時代故か、現実的だったのです
    ならば、軍艦であることに対する
    何らかのコンセンサスがあったのでは無いかと想像するのです

    SUDO

  21. 隅田などは明治中期の第一次、第二次海軍拡張計画の中に「浅喫水砲艦」という用語で語られており、こうした艦種が公式ではなくとも認知されていたと思われます。この他、水雷砲艦(後に通報艦となる)等の用語も見られ興味深いところです。
    明治期の雑多な艦種の出現と消滅を眺めつつ思ったのですが、小型浅喫水の砲艦が軍艦籍を保てた最大の理由は、砲艦が砲戦を主に行なう艦だったからではないでしょうか。
    明治33年に駆逐艦として一旦軍艦籍を得た水雷駆逐艇が、その後水雷艇の任務を重視されるに従い、軍艦籍を失うように、どうも砲主雷従的な類別の基準が存在すると考えて良いような気がするのです。
    浅喫水砲艦は砲戦を主に行なう最小の艦種として軍艦籍を保ち得た、とは考えられませんか。
    BUN


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