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1158 こんにちは。はじめまして。はじめて質問させていただきます。
昭和20年8月7日早朝、広島(呉?)に入港した輸送船の名前をどなたかご存知でしたら、教えてください。
隙間風

  1.  当時瀬戸内海は機雷で封鎖されていたので、広島県外から来た船ではないように思います。(ハズれているかもしれません。) 鉄道が健在だったので、多くの救援者は鉄道または徒歩で入市した記録が多く見られます。(→余談2)
    救援船を仕立てた(江田島または瀬戸田から?)という記述を見たような気もするのですが定かではありません。生存者から聞き語るしか手はないのではという気もします。(→余談1)
     宇品は大陸への玄関口だったので似島に検疫所(医療施設)があり、そこへ船で運ばれた被災者も多かったようです。その応援の船だったのかもしれません。
     一方で、宇品には陸軍の船舶司令部があって、そこの機雷処理担当者は8月6日の朝には機雷処理実験のために江波沖を五日市に向け航行していたという回想がある(駒宮真七郎 続船舶砲兵 出版共同社 1981) ので、海上を往来できたのはそのような関係者だけだったのかも、とも思います。
     同じ回想には川崎汽船所属の輸送船(空母型)熊野丸 9,502総トンが無傷で金輪島に偽装繋留されていたという記述があります。この水面には今はマツダの自動車運搬船(空母型と言えないこともない)が沖がかりしていたりして、昔をしのばせます。

    IWA

  2. (余談1)
    50年以上たってもそういう船の名前は覚えているようです。私の父は朝鮮から舞鶴へ昭和20年に移動した船の名を覚えていますし、最近ではアメリカ人の元捕虜から昭和19年にマニラから門司まで運ばれた船の名前を挙げられてその写真がないか聞かれました。
    (余談2)
    阪神大震災の当時を思い出しました。船=海、は陸上の交通が途絶しても行き来ができるのですが、普段 市民生活にあまり関わりがないのでこれを活用しようという発想があまり出ないようでした。 むかし東京湾の造船所にいたことがあるのですが、その時同僚と、「大地震が来て国鉄が止まったら、横浜の自宅まで艤装中の(あの)貨物船を動かして帰ろう」 などと話したものでした。

    IWA

  3. 回答ありがとうございます。夏休みに父の実家へ帰省したときに可愛がってくれてた祖父がいました。僕が8月6日にTVの広島特集を見てたら「わしが日本に帰ってくるとき、船が原因不明の機関不調でまる1日立ち往生した。まったく突然また機関が動き出し1日遅れで入港したら広島は壊滅してた。あの瓦礫の片付けをわしもてつだった。」と祖父が言いました。これが祖父から聞いた唯一の戦争体験談でした。今から21年前のことです。その祖父も18年前に他界してしまいました。
    本当にありがとうございました。

    隙間風

  4. ゴミレス
    被災者側は思い付かないものですが、救援側は結構船の活用を考えていますね。
    関東大震災での連合艦隊の救援体制については今日あまり知られていませんが、軍艦「長門」を始め各軍港に在泊中の艦船は各鎮守府等から救援物資を大急ぎで搭載して東京湾に向かっている事実があり、記録も詳細に残っています。
    有線による交信が一切途絶した帝都と他の都市との交信回復には、やはり陸海軍の無線隊の活躍もあります。
    まぁこの当時は鉄道以外のまともな陸上輸送手段がなかったので、船に頼る以外なかったという事情もあるわけですが。
    あ、自動車の輸送力が初めて認識されたのも関東大震災だったはずです。
    関東大震災時の陸海軍の動向というのは非常に興味深いです。

    原爆の件については、呉在泊の海軍艦艇は既に空襲に備えて偽装されており、重油も一会戦分程度しかありませんから活動不能かも知れませんね。
    呉在泊の第43駆逐隊の方から、ものすごい爆風がやってきた、きのこ曇を見た時は広島に移転した火薬庫の爆発だろうと思ったなどの感想を頂いております。
    ゴミレス三四郎

  5.  広島の救援活動に関しては、船舶が随分と活躍しています。ほとんどは小型の機帆船・団平船・大発・小発・まるレ艇などですが、回想録に「フクセイという立派な客船が一隻混じっていた」という記述がありました。
    ノースバーグ


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