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1610 日本戦艦の中で、ある意味最も影が薄い存在かも知れない「河内」について教えて下さい。
イギリスでは既に超ド級戦艦が建造されつつあったあの時期に、
どうしてあのように「時代遅れな」仕様になってしまったのでしょうか?
私がこれまでに目にしたことのある書籍等(下記)には、それぞれ断片的な記述はありますが、これらより深く突っ込んだ詳しい経緯についてお教えください。
また、それが記された書籍等があればご教示ください。
 A世界の艦船増刊「日本戦艦史」、B「日本戦艦物語」福井静夫、C「大海軍を想う」伊藤正徳、D「軍艦メカ図鑑・日本の戦艦」グランプリ出版、Ewarships1.com

MZ

  1. 質問者です。教えて頂きたい内容についてもっと具体的に記させて頂きます。
    A〜Eは、それが記されていた質問文中の書籍等を示します。

    (1)どうして主砲が六角配置なのか?
     英国で超ド級戦艦が建造されつつある河内建造時点で「非戦側を休ませるためC」だけでは根拠が弱いような気がします。「薩摩・安芸の時に単一口径中心配置案が
     排された議論C」に相当するような議論が河内型設計時にもあったのでしょうか。

    (2)どうして主砲口径が不統一なのか?
    (2-1)「東郷元帥の鶴の一声『前後の砲はより強力に』A、B」ということですが、これはより詳しく言うとどういう意味なのでしょうか。
     舷側主砲も前後方向に射撃可能だと思うのですが。

    (2-2)あるいは「経済的な理由で全部50口径にできなかったE」とすると、45口径と50口径でどれくらい価格差があるものなのでしょうか。

    (2-3)45口径主砲は「既に薩摩・安芸等で国内生産していたD」にも拘わらず、「英国から購入したA、D」のはなぜですか。国内生産でも安くはならないのですか。

    (3)どうして垂直艦首なのか?
     どうして垂直艦首だと「威容を増せるA」のでしょうか。クリッパー型のように菊の紋章がお辞儀しないから? 凌波性の低下は無視可能範囲と判断されたのでしょうか。

    (4)艦尾形状(便乗質問ですが)
    (4-1)河内型の側面図には、上甲板後端よりも吃水線後端が「後ろ(三笠等と同様)A」になっている図と「ほぼ同じ位置(垂直艦尾?)D、E」になっている図があります。どちらが正解ですか。

    (4-2)艦尾が明瞭に見える写真が掲載された書籍・HP等はないでしょうか。

    以上です。

    MZ

  2. 時代遅れと言われればその通りですが、
    お持ちの疑問については薩摩・安芸からの流れとして捉えれば、
    かなりの部分は解消しませんか?

    そして当時の日本はまだまだ自国の建艦技術に自信が持てなかったことは
    お忘れなきよう。
    世界の第一線に追いつくために、この後金剛の発注が行われているわけで。
    勝井

  3. >2
    いや、そうした「気分的に納得」する話ではなくて、明快な根拠となる資料をお探しなのだと思いますが。
    推測ならばいくらでも語れますが…。
    まなかじ

  4. 勝井様、まなかじ様、レスありがとうございます。
    まなかじ様のおっしゃる通り「明快な根拠資料」を探しています。例えば何かの会議の議事録を直接参考資料にした書籍・資料とか、あるいは議事録そのもの(?)とか。
    私が挙げたような市販の書籍等には、結果と簡単な根拠はあっても、どうしてああなったか(しかもあのタイミングで、しかも造艦側は既に薩摩の時に中心線配置可能としていたにも拘わらず)について十分納得できる根拠が示されていないと思われるのです。
    どうぞ、よろしくお願いいたします。
    MZ

  5.  弩級戦艦河内型の砲塔配置ですが、明治39年に9月に「新型艦型審査委員会」というのが設置されて、同12月に「六角」配置が最善とする結論が出されています。

     全砲塔の中心線配置も検討されたみたいですが、爆風が問題になるだろう、ということで最善とはならなかった様です。その他中心線三連装×2基+舷側連装×2基等の配置も検討されたようです。

     主砲の口径長ですが、はっきりとは判りませんが。最初は全部45口径で行き、明治41年に前後のみを50口径に変更してますから「せめて前後だけでも」という雰囲気も感じられます。
     英国で採用されたのがその前年ですから、時間的な問題もあったのではないでしょうか?

     あと、我が国ではあの配置を「時代遅れ」とは感じていなかったみたいですよ。
    tackow

  6. 「明快な根拠資料」は全く提示できませんが、砲配置が旧式な点については1516番「背負い式配置に関する質問」の回答をお読みになれば納得いただけると思います。

    「時代遅れ」に関しては竣工年では無く計画年で比較した場合、一概に旧式とは言えないでしょう。
    ドレッドノートを1隻のみの試作艦と考えた場合、同じ1905年度計画のサウスカロライナ級(米)が初の量産型弩級艦です。そして1906年度計画艦はヴェストファーレン級(独)、ベレロフォン級(英国初の量産型弩級艦)、ミナスジェライス級(ブラジル)、デラウェア級(米)、ダンテ・アリギエリ(伊)。以上の艦で斉射時遊んでる砲塔が存在しないのは米2クラスと伊艦のみ。
    河内と同じ1907年度計画艦はセント・ヴィンセント級(英)のみ。同級はベレロフォンの主砲を50口径に長砲身化するなどの小改正型。
    次に多数の1908年度計画艦(露初の弩級艦ガングート含む)があり、その次の1909年度計画艦として超弩級艦オライオン級が来るのです。
    オーストリア・ハンガリー帝國初の弩級艦フィリブス・ウニテス級、仏初の弩級艦クールベはその後の1910年度計画艦ですから、河内級は計画時において旧式艦とは言えないでしょう。主砲砲身を2種類にしたのは確かに大失敗だと思いますが・・・

    『前後の砲はより強力に』前後部主砲の方が舷側砲より幾分射界が広い(約270度?vs約180度)ためもあったのでは?
    戦艦乞食

  7.  英の初期のド級戦艦は、艦橋横の主砲が発砲した場合そのブラストが上部構造物に被害を与えるため、
    艦橋横の主砲は艦の首尾線30度以内で射撃する事が禁じられています。故に完全に前後方向に
    射撃できるのは艦橋前と艦尾の砲塔のみでした。

     これまた推論にしかなりませんが、この事から前後の主砲を強化したのは、追撃戦時や戦闘離脱時に
    使用できる2門だけの砲を少しでも強化したかったから、という類推は出来ます。

     あと艦様ですが、第二次大戦時ドイツの主力艦の大半が建造時垂直艦首を持っているのは、
    艦の威容のためです。当時ですとクリッパー艦首は小型艦か商船の形態なので、国の象徴である
    大型艦、特に戦艦の場合は威容を損ねる、と思われたのかも知れません。
    大塚好古

  8. 5> 「明治39年に9月に「新型艦型審査委員会」というのが設置されて・・・」 →ここらへんの事が記された資料をご教示いただけないでしょうか。

    6> なるほど、おっしゃるとおり竣工年ではなく、計画年で較べるべきでるよね。

    7> 舷側主砲が前後に射撃できないとは、思ってもみませんでした。
      艦首について、クリッパー=小型艦船という図式があったのですね。

    皆様、ありがとうございます。マルチレスで申し訳ありません。
    MZ

  9.  お尻の形について…(なんか綾椎な)。

     Warships of the Imperial Japanese Navy 1869-1945の掲載図面では、両艦の
    1912年時点とされる図面が掲載されてますが、これだと両艦とも水線部が長い
    形状になっているのに対し、Conwayの軍艦年鑑1906-1921では1917年の河内の
    図面として、クルーザー=スプーン型艦尾を持つ状態の図面が掲載されており、
    また河内と摂津の識別点として「垂直な艦尾を持つのが河内、クリッパー型艦首を
    持つのが摂津」という説明が載せられています(何となく年鑑の著者が「Straight Stem」を「Straight Stern」と書き間違えた気もするんだが…(´Д`;)。
    またWarships of the Imperial Japanese Navy 1869-1945にある摂津の標的艦時の
    図面も艦尾が艦尾上部と水線部の長さがさして差がない状態となってますので、
    各々の図面が正しいとすれば、1912年から1917年の間に、この両艦に対して
    何かしらの改修が為された可能性があります。

     なお、河内のお尻は丸スペシャルの「戦艦扶桑・伊勢型」に、明治四五年に
    撮影されたドック入渠中の写真があります。この写真を見る限りでは、この当時は
    水線部の方が長い形状となっている様です。
    大塚好古

  10. sternとstemは、いかにも綾椎ですねぇ。丸スペシャル、探してみます。
    金剛型以降のように速力向上のための艦尾延長というわけでもないのに艦尾形状の改修が行われた可能性があるとは思いもしませんでした。
    実は、艦尾形状だけではなく、上部構造物(最上甲板?シェルター甲板?)の平面形状についても、舷側主砲の間(前後)の平面形について、DやEの図では直線部分の多い全体として菱形に近い形状なのに対し、何かで見た公式図(?)や工房飛竜のキットでは舷側主砲を囲む円弧部分の長い六角形に近い形状になっており、実際はどちらなのか悩んでいます。
    これも改修された可能性があるということなのかもしれませんね。

    MZ

  11.  1917-1919年の間に撮影されたとする摂津の写真です。正横からの写真ですが、艦尾は
    ほぼ垂直に見えます。

    http://www.warship.get.net.pl/Japonia/Battleships/1912_Settsu_class/Settsu_03.jpg

    標的艦時の摂津。艦尾形状は多少変わってる気もしますが垂直に近いですね。

    http://www.warship.get.net.pl/Japonia/Battleships/1912_Settsu_class/Settsu_target_01.jpg

     以上、御参考までに。
    大塚好古

  12. >8
     資料ですが、「そのものズバリ」というのは市販の書物では無いと思います。「日本海軍史(第一法規出版)」中にある程度(といっても結構な量)の解説がありますね。かなり高い本ですが、普通の図書館に置いていると思います。
    tackow

  13. 大塚様、tackow様、ありがとうございました。

    MZ


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