QQCCMMVVGGTT
2002  日清戦争の鹵獲戦艦「鎮遠」の主砲について質問があります。
 コンウェイによると清軍時代の砲塔装甲は1吋弱だそうですが、鹵獲後の要目では12吋になっています。これは、鹵獲後に砲塔装甲を変更したと言うことでしょうか、それとも元から12吋の砲塔だったのでしょうか。
 また海軍艦艇史の写真を見ると、旅順口の船渠にある時の写真では砲塔が無く砲をキャンバスで覆っただけのように見えるのですが、内地へ回航中の写真(推定ということですが)では砲塔があるようです。これは、旅順口で一度取り外してあった砲塔をその場で搭載してから回航した、と言うことなのでしょうか。
 どうかよろしくお願いします。
摂津

  1.  清国海軍時代同艦の12in砲座天蓋装甲厚は1inです。日本艦時代の砲塔装甲厚12in表記については、個人的にはバーベット部の装甲厚記載を砲塔と書き違えただけじゃ無いかと思うんですが…(天蓋の形状は清国艦・日本艦時代で特に変わったように見受けませんし、また天蓋部だけ換えるにせよ、当時の日本に12in厚の装甲鈑が造れたとは思えないので…)。

     なお、旅順口での修理時の写真では、バーベット部から上の全体をキャンバスで覆っている様に見受けられます。このため装甲天蓋を外しているように見えるだけでは無いでしょうか?
    大塚好古

  2.  鎮遠の砲塔はフード付露砲塔というもので、防御は基本的にバーベット部分にしかありません。天蓋(フード)は薄く、日常で風波を避けるための存在です。
     鴨緑江海戦のとき、鎮遠、定遠はフードを外して戦闘に臨んでいます。フードそのものは旅順に保管されていたそうで、戦後に取り付けなおしたようです。ご指摘の写真ではフードが外されており、砲に直接キャンバスが被せられています。

     日本へ移ってからのことはよくわからないのですが、12インチもの厚みのある天蓋には相当な重量がありますので、取り付けるならば旋回支持部以下の補強が必要になります。おそらくは大塚好古さんのおっしゃるように、改造は施されず、記述者の誤解ではないかと思われます。

     なお、僭越ながら、露砲塔の構造については拙HP「三脚檣」をご覧ください。
    http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/
    志郎

  3.  御回答、有難うございます。
     考えてみると時期的に12吋という装甲厚もちょっと中途半端ですし、確かに換装したとは考えにくいですね(汗)。
     しかし12吋の装甲を持っていたとする資料がかなり多いので、これが少し不思議です。あれだけ撃たれたのに戦闘力を失わなかったため堅艦と言うイメージが強いせいでしょうか。

     あと、読み返してみると用語の使い方が適切でありませんでした(砲塔→天蓋)。失礼しました。

    追伸 三脚檣、拝見しました。19世紀末頃の軍艦に特に興味があるもので、説明もわかりやすく大変勉強になります。どうも有り難うございました。
    摂津


Back