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2041 一般的な日本人の間で戦艦大和の名声がメジャーになったのはいつ頃からですか?
モーグリ

  1. う〜ん。やっぱ「宇宙戦艦ヤマト」放映のころじゃないですかね〜
    あはと・あはと

  2. 戦艦大和や島風などの艦名が知れ渡ったのは戦後すぐに出された大衆雑誌類の力によります。各艦に我々が抱いているようなイメージはこの時に作られています。
    BUN

  3. >1
     それまで何度かの隆盛はあったのでしょうけども、カタギの方々の間では1970年代後半は既にミリタリー後退期に入っていると思います。70年代前半辺りが最後の光芒かな、と思いますが若輩の私にはどのような状況だったのか知る術もありません。
    tackow

  4. じつは最近若い人の間で「戦艦大和は「宇宙戦艦ヤマト」の大ヒットで一般的になった。それまでは大和は有名でなかった」という説が広まっています。
    インターネット上でも複数この意見を目にしましたし、冬コミでもアニメファンと軍事ファンがこの説を言っていました。
    これって最近の若い人の間では定説なんですか?

    >1
    >3
    那須正幹氏の反戦児童文学『屋根裏の遠い旅』(1975)に「小学生の間で戦艦大和やタイガー戦車は常識」という描写が見られるので、ヤマト以前から戦艦大和は有名だったようです。本文を読むとすでにこの時期に「大和は27ノットしか出ない鈍足戦艦」という批判があったようですね。子供向きの本とはいえバカには出来ません。
    モーグリ

  5. 『宇宙戦艦ヤマト』は1974年ですがな。
    というのはさて置いといて、
    軍艦マーチの曲にのせて「戦艦大和が沈むとき、カニに○○ポコはさまれて〜」などという替え歌が子どもたちの間に流行っていたのは、さらにそのはるか以前のことです。むしろ、「軍艦といえば大和くらいしか知らない」、というのが「常識」でした。
    静岡の模型4社がウォーターラインシリーズの発売をはじめたのが1971年なのですが、当時「これでやっと大和・武蔵の一辺倒から艦船の世界が広がる」と思ったものです。



  6. 私は60年代に小学生時代を過ごしましたが、TV、漫画雑誌に軍事ネタが盛んに取り上げられておりました。当時の小学生にとっては「戦艦大和」と「ゼロ戦」は「ガンダム」や「ウルトラマン」に勝るとも劣らない知名度でありました。
    マンガ雑誌にはかかさず空戦ものの連載があり、巻頭グラビアを「グラマン」や「ゼロ戦」、「大和」の雄姿が飾っておりました。TVではラバウル航空隊をモチーフにした連続ドラマまであったんですよ。
    タカ二飛曹

  7. BUNさんも書かれていますが、戦後すぐの時期、というより終戦の同じ年のうちに、「実はあの戦争の真相はこうだった」式の読み物が無数に出回ります。そうしたものが何をくすぐったのか、「戦闘機といえばゼロ戦、軍艦は大和」というイメージがあっという間に一般に定着します。プラモデルの発売はも少し後になりますが、1950年代においてすでにプラモの世界では「戦闘機はゼロ戦かムスタング、軍艦は大和でなければ売れない」という気分になっていたのではないでしょうか。と思うのですが若輩の私にはどのような状況だったのか知る術もありません(笑)。



  8. 大正末期生まれの母は「陸奥と長門は日本の誇り」と言ってます、大和だとか武蔵だとかは知らんそうです。
    早房一平

  9. >5
    確かにヤマトの放送は74年です。でも裏番組「アルプスの少女ハイジ」の方が圧倒的に視聴率が高くヤマトは半年で打ち切りにされています。当時ヤマトに熱狂していたのは少数のマニアで、子供の間で知名度から言ったら断然「ハイジ」です。
    ヤマトが大ブレイクしたのは77年の映画版公開以降です。放送からヒットまでタイムラグが存在します。
    モーグリ

  10. 昭和34年の雑誌少年4月号の付録が全長1米の大和の紙製模型だったように記憶。
    このころ、文藝春秋やオール読物などに草鹿龍之介とかがミッドウェーなんぞの記事を書き始めたと思う。30年代中盤には街の模型屋には朴ノ木の大和や伊400などのキットがあふれておった。吉田満の「戦艦大和の最後」も漫画単行本になって貸本屋にあった。当時「大和」を知らない小学生は少なかったのじゃないか。もっとも戦地帰りのオヤジは「大和なんて知らん。戦艦は陸奥、長門、伊勢、日向・・・の10隻」といっておった。(8と同じ)
    「ゼロ戦」は各種漫画に頻出。タイガーの模型も小学生の時(30年代中)に作った。

    ノレツヲハイ

  11. 7>片さん。 プラモデルを、初めて見たのは1957〜8年頃だったと思います。それもアメリカ製の潜水艦でした。友人が外国土産として貰った物だと言っておりました。そのあまりの精密さに驚いたものでした。日本製のプラモデルを見たのは、その更に数年後だったように思います。ぎりぎり59年か恐らく60年代初めごろではないでしょうか?
     それ以前は、相当いい加減な型の木製の模型が販売されていました。おおきさは20〜30cmぐらいの物が主流でしたが、百貨店に行けば1m近くの模型もありました。いずれも、モーター(あのマブチモーター)と電池を載せて水上を走らせる事が可能でした。ほとんど全部『大和』か『武蔵』でした。たまに『長門・陸奥』が有るぐらいでした。他の艦船はほとんど有りませんでした。もし有ったとしても極稀でした。(ゴム動力で走らせる潜水艦が有りましたが、模型と言える程の物では有りませんでした)。組み立てて、水彩絵具で色を塗り、更に二スを塗って仕上げます。何ヶ月も小遣いを貯めて手に入れました(もちろん小さい方のもの)。
     実機の型を映した航空機の木製模型は、ほとんど有りませんでしたが、58年頃に友人が夏休みに作ってきた、実機を映した灰色の『零戦』は、その時の驚きとともに忘れられません。(私は、これ以外に実機を映した航空機の木製模型は見た事が有りません。またこれが市販品であったのか、手作りであったのかは判りませんが、少なくとも私は販売されているのを見た事は有りませんでした。)
     60年代初頭からプラモデルが発売されると航空機の模型も出始めました。それでも初期の1〜2年は、大和と武蔵、それに零戦がほとんどでした。が、やがて等比級数的にその種類も大きさも色々な模型がいっぺんに発売されていきました。

     航空機の模型?に関しては、ゴム動力で飛ばせる『ライトプレーン』に人気が有りました。競技大会もいろいろ行われておりました。中学生の頃、私も小さな競技会ですが優勝をしたことがありました(ちょとは、見直してくれた?(笑)。
     
    おじんの記憶モードでは以上の様だったと記憶いたしております。 
    roht

  12. 10>昭和34年の雑誌少年4月号の付録が全長1米の大和の紙製模型だったように記憶。
     ノレツヲハイさん。おお御同輩、私もその『紙製大和』憶えております。なかなか組み立てるの、しんどおました。

    roht

  13. 11> 木製航空機模型、ひょっとして東京新宿の戸山練兵場跡地近くの模型屋さんが発売していたキットではないかしら、広告を見た記憶があります。ソリッドモデルでは有名な店だったらしいのです。
    早房一平

  14. 小生が小学校に上がった昭和30年頃は、男の子は全員、女の子も大半は「戦艦大和」知ってましたよ。「戦艦武蔵」の知名度はずっと低かったですケド。
    やっぱ講和条約締結して、戦記ものの出版が自由になった頃でしょう。
    新聞にはソレ以前から少し載っていたようですケド、GHQの言論統制もきつかったようで・・・
    小学校の頃は木製の30cmくらいの「大和」「武蔵」のキットがポピュラーでしたが、上級者向きにはその倍くらいの大きさの「金剛」や「ビスマルク」「テルピッツ(ママ)」の木製キットが町の模型屋で普通に売られてましたね。
    小学校高学年の頃にようやく「マルサン」のプラモデルが出始め、前後して米レヴェル社や英エアフィックス社の輸入プラモが売られるようになりました。
    志郎家の客人

  15. こんにちは。僕は今二十歳ですが、僕の世代では軍事に興味ない人は誰一人知りませんね、大和も零戦も。ちょっと残念な気もしますが、まぁ昔のことですから当たり前なのでしょう
    >>8
    たしかそういうカルタがあったと記憶していますが。。。


  16. >13
     1957年頃、国産プラモデル第一号のマルサンのノーチラスが出る(58年だそうです)直前、F86Fの木製ソリッドモデル(スケールは48〜72分の1程度)の組み立てキットを買ってもらった記憶があります。セルロイド(アクリル?)の透明風防がついていたことは鮮明に記憶しているのですが、幼稚園児にはそれ以上の記憶なし。当然模型は未完成。今考えるとよく買ってくれたなあ。
    カンタニャック

  17. ☆タカ二飛曹
    >ゼロ戦」は「ガンダム」や「ウルトラマン」・・・・
    同世代の方でしょうか?というよりは、「鉄人28号」「鉄腕アトム」
    でしょうか(笑い)

    >頭グラビアを「グラマン」や「ゼロ戦」、「大和」の雄姿が飾っておりました
    ほんとにサンデーやマガジンやキングの表紙やカラーページがそうだったなんて
    もう若い人たちには想像できないでしょうね。その証拠が、小松崎茂氏の画集
    ですよ。ほんとに多かったです。だいたい今みたいにコミックのキャラが、表紙
    を飾るようになったなんて、ジャンプが創刊されたころからじゃないかな??

    ☆志郎家の客人さん
    マルサンといえば、100式司偵、零式三座水偵もナイスでしたが、レベル、モノグラム(1/48のBf109E,TBF,SBC,SBDなど)リンドバーグ(1/48のMe262,ホーカーハンター)ファーレル(っていいましたっけ?1/100のMe262B)なんてありましたね。
    今となっちゃ、ソフビとか200万円以上になったエビラの方が有名かな。
    まあ上記のような、模型が小田原の片田舎の雑貨屋さんでも買えたわけですから
    もちろん大和なんて1960年代子供にとってはウルトラメジャーな存在です。
    それを、字もろくに読めない幼稚園の子供に父親が、買って来たり語ったり
    するわけですから、当然BUNさんおっしゃるようなことは想像できますね。
    そういや例の「零戦」や「日本の軍艦」なんか1950年ごろだもんね。

    ☆rohtさん
    >それ以前は、相当いい加減な型の木製の模型が販売されていました。
    そういえば、小学校の頃1960年,1964年年頃の「丸」の通販コーナー
    では、プラモとともに、空母飛竜のソリッドモデルがあったと記憶
    しています。WATER LINEシリーズが発売前だったんで、なんか
    いいなーと思ったことがありました。(なんかかっこよく見えた。)

    バウアー中尉

  18. http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9707/talk1052.html

     に面白い記事が紹介されています。1961年の漫画が(子供たちへの)
    零戦ブームの火付け役であったようですね。
     孤島に配属された零戦乗りがイ400に拾われ、菊水一号作戦の大和
    の上空で空戦して戦死、イ400も大和の楯となって航空魚雷を受け、
    一番若いパイロットと大和だけが無事日本に帰るという「あかつき戦
    闘隊・特攻編」は1969年の単行本化。悪の組織が大和を潜水戦艦に改造
    した「ヤマトワンダー」が登場する「青の六号」は1967年から連載開
    始。このころには、大和のことは子供に知れ渡っていたと考えられま
    す。また「アニメンタリー 決断」は1971年の放送です。
     ですから「宇宙戦艦ヤマト」は、まさに少年向け戦記ブームの爛熟期
    に現れた、と言えます。
    マイソフ

  19. >「宇宙戦艦ヤマト」は、まさに少年向け戦記ブームの爛熟期に現れた、と言えます。
    小中学生間での「戦艦大和」「ゼロ戦」は、「宇宙戦艦ヤマト」当初放映時にはすでに名前だけが認知されている程度の存在になりかけていたはずです。その人気は昭和40年代初めがピークで、以降はかなり急速に衰えていきました。
    本スレッドのオリジナルご疑問にある「ヤマトで戦艦大和の知名度が高まった」という誤解も、みなさんがご言及された戦後比較的長く続いた「戦艦大和」人気とその後の「宇宙戦艦ヤマト」ブームとの間に「大和」不人気期があったゆえに生じたものです。

    >「アニメンタリー 決断」は1971年の放送です。
    この番組の視聴率は極端に低迷しました。
    また、東宝の毎夏だった戦争映画企画「8.15シリーズ」も興行成績不振から72年限りで打ち切られました(しかも70〜72年の作品は反戦色が濃厚)。
    さらに、↑9のとおり「宇宙戦艦ヤマト」自体も当初放映時は不人気でした。

    以上のような変化の主要理由は次のようなものでしょう。
     a:小学生の親の中心の反戦色の強い60年安保世代への移行。
     b:マスメディアの現場責任者への60年安保世代の進出。
     c:ベトナム反戦運動の高まりと反軍的風潮の広まり(bがその誘因)。
     d:塾通いやクラブ活動が活発化によるその種の余暇時間の減少。
     e:格好の代替物でもある怪獣・変身ヒーローものブームの到来。
     f:人気のまんが雑誌・まんが家の世代交代(少年ジャンプ創刊等)。

    「宇宙戦艦ヤマト」ブームは、基本的には少女まんが的画風とSF色(疑似科学の域ではあっても)を織り込んだアニメの人気です。映画版公開で人気が高まった77年は、「スターウォーズ」「未知との遭遇」の公開年、「ベルサイユのばら」ブームの末期なのです。こう考えると、当時の少年の間で戦艦「大和」の知名度は高まっても関心はさほど深まらなかったことも理解できます。

    なお、上述の社会風潮に加え、第四次中東戦争→第一次オイルショックの影響による価格高騰によって(WLの巡洋艦は250円から一足飛びに400円に!)、第二次大戦もののプラスチック・モデル人気が衰えたのも「大和」の人気低迷に拍車をかけたと思います。

    (以上は東京圏・大阪圏が基準の議論であり、地方の旧軍港所在地等では少し違った傾向もあったとは思います)
    はつゆき

  20. 大和に不人気な時期などあったでしょうか。
    昭和40年代後半には1/700のブームがありますね。駆逐艦の名前まで小学生が暗記するようになった稀有な時期がこの頃です。幅広い年齢層に一挙に受け容れられたWLシリーズは一つの文化のようなものでさえあったと思います。「ヤマト」はそのブームの末尾にくっついているんですよ。
    でも、それぞれの艦が持つ物語が形成されたのはやはり終戦直後にそれが事実であるかどうかはさて置き、とにかく濃厚に繰り返し語られた逸話が原型で、WLブームといったものはそれを最終的に定着させるものだったのではないかと思います。ほとんどフィクションでありながらも伝承に近づく程に語り込まれた濃厚な物語を背にしている為に1/700のファンは尽きないのかもしれません。

    宝物自慢で恐縮ですが、昭和30年代の木製模型「最後の戦艦・ヴァンガード」を持っております(笑)。こんなアイテムもあったんです。
    BUN

  21. 昭和30年代中後期の人気マンガ、隼戦闘機隊が主役の「大空のちかい」にも戦艦大和が良く出てきます。陸軍の話にすら出張る「戦艦大和」凄い人気なのよ。

    早房一平

  22. >タカ二飛曹さん
    大変失礼いたしました。敬称がぬけました。

    >あかつき戦闘隊
    マイソフさん。それ最初の「パゴス島編」と混じってませんか??
    記憶モードですが、その話の最初は、八雲大尉(だったっけ?)と
    今曹長(だっったけ?)月光に搭乗して硫黄島に向かうときイ400
    に撃墜され(確か今曹長は故障で墜落したといってたような)。
    救助されそのまま、イ400でレイテ沖海戦に参加したんじゃなかったかな?
    確か確か武蔵も扶桑の山城も沈んだって書いてあったと思います。

    バウアー中尉

  23. 吉田満「戦艦大和」はGHQの発禁との闘いの末、日の目をみました。
    もし、詳しい経緯を知りたければ、文庫本の後書きを読んでください。

    ところで僕は、早世した祖父が、徴用商船の船長だった関係しかないのですが、
    (祖母経由で)おぼろげな、大戦当時の話を、聞いております。
    当時の日本の船乗りさんと言うのは、非常にモダンな仕事であり、
    船乗りの自慢のベクトルの延長線上として、「大和」は、戦後すぐにでも伝えられたような気がします。
    無頼庵

  24. >20
    >>大和に不人気な時期などあったでしょうか。
    より正確には社会全般の関心の対象からかなり外れていたということです。
    ↑19では書き忘れてしまいましたが、テレビの普及とカラー化によって子供の人気の主な対象は動画のあるものに大きくシフトしたこともあり、昭和42年あたりから少年雑誌に第二次大戦ものが取り上げられる機会は激減しているはずです。

    >>昭和40年代後半には1/700のブームがありますね。駆逐艦の名前まで小学生が暗記するようになった稀有な時期がこの頃です。幅広い年齢層に一挙に受け容れられたWLシリーズは一つの文化のようなものでさえあったと思います。
    ご指摘のブームには仮面ライダーブームのような広まりはなく、たまたまプラモファンの多かった特定の学校等での現象と考えるべきでしょう。
    私はその時期に小中学生で、大阪・広島・東京の各近郊でいずれも世帯数が多い自衛隊官舎で育ったのですが(父は自衛官)、官舎の小学校高学年以降に大人気だったのは何とビートルズで、海自官舎の子を含めてWLシリーズを集めていたのは私だけでした。自衛隊幹部の師弟でその有様ですから、民間の方々のお子さんたちは誰もミリタリーに興味などなく、「時代遅れの趣味の代表はプラモと切手収集」というのが通り相場でした。
    また、このご意見について職場や趣味関係の知人のうち当時小学生だった人たち10人以上に尋ねてもみましたが、仮面ライダーの怪人の名前は覚えても、駆逐艦の名前どころか「駆逐艦」という艦種も知らなかったという反応ばかりでした。
    この種の議論では、なるべくバイアスを減ずるために、現在ミリタリーファンではない層にあたってみることが大切なのではないでしょうか。
    はつゆき

  25.  いや、先輩方のお話を伺っていると平成の今がミリタリー氷河期である様な気がしてきました。昭和三〇〜四〇年代の頃はミリタリー趣味を嗜んでいても日陰者などではなかったんですね。今はプラモといえばガンダムとかのキャラクター物が殆どですし、僕には想像もつきませんが、なんか羨ましいです。
    tackow

  26. (なぜこれを思い出さなかったのでしょうか…)
    昭和40年代前半、わが国ではアポロ宇宙船・別名「月ロケット」が大人気を博しました。何しろ人類が月面に行ったのですから、アポロ11号のテレビ中継は、アメリカ人が宇宙でやっていることなのに、昨年のサッカーWカップ以上の盛り上がりだったのです。ウルトラマンシリーズの大流行も宇宙志向の高まりが背景にありました。
    時代背景は高度経済成長期で未来への期待感は空前の高まりを見せ、当然当時の子供たちも未来と宇宙への関心が強く、過去のプロペラ機や戦艦は少年向けの雑誌等では月ロケットやウルトラマンに急速に取って代わられたのです。

    >25
    もし東京圏にお住まいなら、今は悪い時期ではないと思いますよ。ミリタリー趣味が他のマイナー趣味と同列視され、近くに専門店があればガレージキットも含めていろいろなプラモが入手できますね。ミリタリー雑誌の種類も多いですし(記述内容の質は上がっていませんが)。
    昭和50年代前半の東京では、立中高校では教員労組の力が強くてミリタリー趣味者は白眼視されかねず、プラモもマイナー化していたのですから、私などはむしろ現在がうらやましく思えます。
    はつゆき

  27. 19>石油ショックの影響でWLの巡洋艦は250円から400円に!
    25>今はプラモといえばガンダム

    私はプラモファンですがWLの値上がりひどいですね。十年ちょっと前は700円で手に入った巡洋艦が1800円とかで一部金属パーツ付きの場合は3000円とか。それなんで安いガンダムを主に作っています。バンダイはガンプラの独占企業のはずなのに安いし高品質だし、優良企業やな。とつくづく思う。
    ロックマン

  28. >>12 私も徹夜で作りました。紙製大和 副砲砲身がマッチ棒だったような・・

    昭和30年代に小学生だった世代ですが、担任は海軍2等兵曹、隣のクラスは陸軍軍曹(鉄拳が得意技)、親父は幹候あがりの主計中尉で兵隊時代は96式の機関銃手(LMGと言ってました)・・という環境だったので小学3年で機関銃の発射原理を図示できました(笑)。
    あるときデパートの模型売り場にいったところ、親子連れの客がいました。子供は私と同じくらい。その父いわく「おお、これはオレが乗っていた隼だ。おっ99双軽・・これも乗ったんだよ、いいヒコーキだったな」 子「お父さんすごい!」・・・・猛烈うらやましかったデス。
    ノレツヲハイ

  29. 13> 早房一平さん。有難うございます。あれが小学生に作れる物とは考えにくいので、きっとその模型だったのでしょう。

    14> 志郎家の客人さん。「テルピッツ(ママ)」。この木製模型は、あの新海大佐の最期の出撃に、直掩される側の操縦者として一緒に出撃され生存帰還された方に、お土産として頂きました。大きなモーター1つでギャアを使い2つのスクリューを回すようにした物でした。おそらく1958〜59年頃だったと思います。大きさは1m弱あったように思うのですがはっきりは判りません。(しかしなぜ、元陸軍航空隊の操縦者であり、当事航空自衛隊の佐官であった方が独逸の「テルピッツ(ママ)」だったのか?未だに判りません?)

    16> カンタニャックさん。国産プラモデル第一号のマルサンのノーチラスが出る(58年だそうです)。
     11>プラモデルを、初めて見たのは1957〜8年頃だったと思います。
    >それもアメリカ製の潜水艦でした。
    >友人が外国土産として貰った物だと言っておりました。
    と書きましたが、これがカンタニャックさんの言われておられる 国産プラモデル第一号のマルサンのノーチラスだったようです。時期もばっちりあいますし。私の記憶違いか?友人が見栄をはったのか?(笑)

    みなさん、ありがとうございました。
    roht

  30. >28 ノレツヲハイさん。
      不思議とタッチの差になりますね。

    > 猛烈うらやましかったデス。
    ついでに、もう一つうらやましがらせて頂きます(笑)。うちの親父は、九七重の一号機から操縦していました。
    roht

  31. 17> バウアー中尉殿。
     >空母飛竜のソリッドモデル
     そう言われれば、空母も有ったような・・・?
    たしかに空母と言われれば 飛竜 が出てきますね。
     
     『丸』のグラビアの写真(白黒)を切りとり、ボール紙に不易のりで貼って周りに5mm角程の模型用の木材をセメダインで額縁の様に貼り付けて、友達に5円か10円で売って小遣いを稼いだものでした(笑)。
    roht

  32. >25
    >27
    ガンプラはバンダイの良心で「発売以来価格を変更しない」というモットーがあるそうです。軍艦のプラモが売れない一因がこれだと聞いたことがあります。
    そのかわりガンプラは絶版にはならないので昔のガンプラを持っていてもプレミアはつかないとか。
    モーグリ

  33. >29 rohtさん。
     お友達がアメリカでお買いになったのは、レベル社のノーチラス号だと思います。マルサンのノーチラス号はレベル社の製品のコピーです(フルコピーなのか、一部変えてあるのか、また権利関係はどうなっていたのか等は存じませんが、誰が見てもそっくりでした)。
    カンタニャック

  34. お題がよろしかった様で、大変な数のレスが・・・
    >>30
    97重ではあまりうらやましくないです。(笑)
    100式司偵とか4式重だったらムムです。
    零戦乗りは一人存じ上げてますが、空母搭乗員ではありません。今でも半長靴はいてます。
    TVの初期に富士フィルム提供の「20世紀」というドキュメンタリー番組がありました。このなかでビスマルク追撃戦があり、フッド爆沈の実写フィルムが放映されました。戦前育ちの親父は「世界最大艦フッド」に思い入れあったようで、残念そうな顔が忘れられません。パットンの「ナッツ」やスターリングラードの冬将軍もこの番組で覚えました。スカパの自沈も見た記憶があります。
    まぁ我々の世代は身近にそういったものが転がっていたことは確かです。
    ノレツヲハイ

  35. >「時代遅れの趣味の代表はプラモと切手収集」というのが通り相場

    想像するに、はつゆきさんはオイルショック以後の小学生なんですね。
    BUN

  36. 33>カンタニャックさん。
     有難うございます。友人も見栄を張ったのではなく、わたしの記憶力もまだ昔の事に関しては大丈夫のようで安心致しました。昨日の夕食のメニューを時々思い出せ無い事が時々有りますので、また間違ったかと心配致しておりました。「昨日の夕食のメニューを思い出せ無い」と言う事は、(老人性)痴呆の始まりの一つの基準になるそうですので。そのうえ昔のことを忘れるとなると・・・。

    34>ノレツヲハイさん。
    >100式司偵とか4式重だったらムムです。
    四式重にはまず搭乗していると思いますが、新司偵は???。

    35>BUNさん。
     このサイトに来て、それもつい最近まで、子供たちは『大和・武蔵・零戦、隼』なんかは、誰でも知っているのが常識だと思っていました。そう言えば「最近の若い人には、米国と戦争したのも知らない人がいる」と言う話を聞いて「まさか」と思っていましたがあながち嘘でも無いのかもしれませんね。

    roht

  37. 36> 訂正 このサイトに来て→このサイトに来ても
    roht

  38. 34>ノレツヲハイさん。

    父親ではありませんが、以前働いていた会計事務所の先生が四式重に乗っていました。
    重爆乗りということを聞いていたので、ある日「重爆乗りとお聞きしたんですが、呑龍にでも乗ってらっしゃったんですか?」と聞くと、
    「いや、キのロクナナ。。。飛龍です」と誇らしげに語ってらっしゃいました。
    エラガバルス

  39. 初めまして。昭和30年代末から最近までHNの仕事をしていました。うちは営業が強い出版社なので、営業が書店さんの評判や読者の皆さんからのハガキ等をこまめにチェックして、編集に売れる書籍雑誌づくりをさせる伝統があります。特に『少年マガジン』はうちの大黒柱でしたから、年少読者の声という天の声には私たちも編集も全面服従でした。
    このサイトではずっとROMでしたが、一部の方の誤解があまりに目に余り、「大和はヤマトがきっかけで有名になった」に負けず劣らずの奇説「大和は戦後ずっと人気の的」が定着してしまうと大変なので思い切って私の体験をふまえて投稿します。

    >はつゆきさん
    あなたのご意見どおりです。昭和40年頃から帝国海軍ものの人気は急速に廃れました。
    書店さんからは「ゼロ戦や大和じゃ売れない」、読者の皆さんからは「戦争中の古臭い話よりロケットやウルトラマンをやれ」、若手社員からは「反動軍国主義粉砕!」と総スカン状態になって太平洋戦争ものは誌面から退場。代わって活躍したのがウルトラマンやアポロや日本万国博覧会想像図やらの空想未来物。
    以後「ヤマト」は版権の関係でやれませんでしたが、その頃に便乗で「大和」をやれという書店さんや読者の皆様の声も社内意見もなく、ぱらぱら書籍編集がてがけた「大和」ものも今日に至るまでほとんど売れていません。他社も同じようなものですよ。
    他の投稿を拝見するとはつゆきさんはシビリアンの政府関係の方の疑いが濃いと思うので、あなたならわかると思いますが、うちは他社で売れたものはすぐ真似しますし、先代社長は阿南元陸相のご子息がオーナー野間家に婿養子で入った方だったくらい根っ子は保守体質の会社だし、大和で商売になるのなら積極的にやっているはずなんですよね。

    >BUNさん
    私は戦中に海軍士官の息子に生まれた軍国小国民で古参のプラモファンで体育会系で学生運動歴なしという生粋の海軍ファンですが、悔しいけれどもあなたよりもはつゆきさんの意見の方が当時の子供社会全体の流れを良く捉えていますよ。昭和41年頃に大手出版社で少年雑誌に関与していた者ならちゃんとプラモや切手収集は時代遅れと認識していましたよ。私たちは子供の世界の流行に神経を研ぎ澄ませて「少年マガジン」を売って、当時はトップシェアを確保し続けていたのですから。リサーチにもずいぶん手間もカネもかけましたしね。当時私達より確かな認識を持っていた
    また24,26から、はつゆきさんは昭和40年代に小中学生で昭和50年代前半に中高校生だったのは簡単に読み取れますから、この方は昭和35,36年生まれでオイルショックの年には小6か中1のはずで、35の「同時代の空気を知らんくせに」とのニュアンスのご指摘は的外れ。
    元K講談社営業マン

  40. 推敲ミス。
    HNはK談社営業マンにしておくつもりでした(苦)。
    それに末尾近くの「当時私達より確かな認識を持っていた」には「という確信がおありなら、客観的根拠をお示しいただきたいと思います。」が続きます。
    さらにBUNさんあてには「ウォーターラインが大人気だったというのも私達の認識と異なりますよ。あれは大して売れなくてメーカーは雑誌広告費の支払に四苦八苦していたほどでした。」が続きます。
    元K講談社営業マン

  41. 子供向け商品の商業的な成功、不成功で語れば大和がその主人公だった時代は存在しないのではないでしょうか。
    最初の書き込みにあるように大和の物語を大衆化したのは子供向け商品ではありません。これには反論は無いでしょう。
    そして子供雑誌の商売はおっしゃる通りの実態でしょうけれども、前にも書いた通り、大和が戦後広く認知されたのはその存在と一体となった物語あってのことで、それは少年雑誌が作り上げたものではないと思います。
    大変貴重な御発言だと思いますけれども、子供文化がテーマではなく「日本人の間で大和が認知されたのはいつか」という話題ですから、子供向け商品の栄枯盛衰だけで当時の状況を語ることが全てではありません。
    戦後の日本において大和は子供のものだけではなかったと私は思っています。というよりもむしろ少年雑誌文化は大和に大して新しい物語を付加するまでには至らなかったと思いますが如何でしょうか。
    私がWLシリーズを評価しているのはそれが当時、プラモファンの子供の枠を越えて広がったからです。商業的には失敗だったのでしょうけれどもプラモファンでもない大人が買いましたし、テレビの上に無塗装のモデルを並べていたような方々とはよくお会いします。WLは大和以外に隼鷹や鹿島といった艦艇があることを世に知らしめた事だけでも見事なものです。WLで初めてその艦艇の名前を知った方々はこのサイトにも多いのではないでしょうか。文化の形はそういった場所にも現れるのではないかと思います。
    BUN

  42. そう、大事な事を忘れていました。
    >「同時代の空気を知らんくせに」とのニュアンス
    を感じられたとしたら、失礼いたしました。

    BUN

  43. 時間節約のため体言止めで失礼。

    >はつゆき氏、元K講談社営業マン氏
    両氏の見解が妥当。対「大和」社会的関心度持続期間は昭和27年頃から同40年頃の間のみ。その後の「宇宙戦艦ヤマト」は一時的現象。両氏の見解が事実誤認の社会状況ならば改憲と軍事知識普及が実現済の筈。

    >BUN氏
    >>最初の書き込みにあるように大和の物語を大衆化したのは子供向け商品ではありません。これには反論は無いでしょう。
    大いに異議。これが真相だ式読み物とは、GHQが日本国民向けに戦時中の日本軍部の無能さを宣伝した刊行物群、内容は真珠湾の騙し討ち、ミッドウェー戦の日本機動部隊惨敗、ガダルカナル戦の実相その他、当然「大和」「島風」の活躍記述皆無。貴殿言及の出版物はサンフランシスコ講和条約前後からの伊藤正徳氏等の手になる戦記物。両者の混同は初歩的かつ致命的重大ミス。
    >>子供向け商品の栄枯盛衰だけで当時の状況を語ることが全てではありません。
    事は天下の講談社。"ぱらぱら書籍編集がてがけた「大和」ものも今日に至るまでほとんど売れていません。"が前間孝則著あたりの大人向け刊行物を指すのは明白。それに話が子供文化方向に流れたのは貴殿の下の発言が原因。
    >>昭和40年代後半には1/700のブームがありますね。駆逐艦の名前まで小学生が暗記するようになった稀有な時期がこの頃です。
    責任を負うべきは上の発言のご当人。
    >>私がWLシリーズを評価しているのはそれが当時、プラモファンの子供の枠を越えて広がったからです。商業的には失敗だったのでしょうけれどもプラモファンでもない大人が買いましたし、テレビの上に無塗装のモデルを並べていたような方々とはよくお会いします。WLは大和以外に隼鷹や鹿島といった艦艇があることを世に知らしめた事だけでも
    "商業的には失敗だった"と貴殿自身が確認済の商品群が"プラモファンの子供の枠を越えて広がっ"て"大和以外に隼鷹や鹿島といった艦艇があることを世に知らしめた"という因果関係は不成立。売れなかった物が社会に広まったとは矛盾の極。
    >>テレビの上に無塗装のモデルを並べていたような方々とはよくお会いします。
    自衛官でもそんな人間は稀。ご自分の交友関係と社会全般の傾向との一致性の再考究を勧奨。

    >各位
    すでに論旨は尽くされた感。これ以上の論争は不毛につき打切りを提案。
    昭和二十年代出生

  44. >39、40
    ご配慮深謝させていただきます。ありがとうございました。
    なお、私はご想像どおり昭和36年生まれです。
    職業については当らずと言えども遠からず、ネットでこれ以上は避けさせて下さい。

    >43
    こちらもご好意感謝させていただきます。
    ただし、BUNさんは「真相はこれだ式読み物」には直接言及しておられません。もちろん「戦後すぐに出された大衆雑誌類の力によります」との論を立てておられますから、昭和二十年代出生さんのお説の骨幹部分はなお妥当するとは思いますが、他の方のご発言への反論ではこのあたりに細心の注意をなさられた方が、と思います。
    なお、論争打ち切り提案には同意します。大人社会についても出版物や放送の内容計量分析等で自説立証の確信はありますが、その労力の余裕がありません。後は閲読された方々のご判断に委ねたいと思います。

    はつゆき

  45. 私は「真相はこうだ」式の出版物で大和の物語が広められたとは書いておりません。あまり思い込みで断定なされない方がよろしいのではないでしょうか。
    「島風は40ノットの快速駆逐艦」といった内容の大衆読み物は少年雑誌と関係なく先行して存在しております。改憲と軍事知識普及がご希望でしたらば、そのような形での大和人気は戦後一度も存在しなかったでしょう。

    >自衛官でもそんな人間は稀。
    とは何の根拠でそうおっしゃるのでしょう。WLモデルの大半はそうして楽しまれたのではないでしょうか。私にはまるで「長島が少年雑誌の表紙から消えたから長島は不人気だった」と強弁しているように響きます。
    BUN

  46. 私が言っているのは、
    大和がそれにまつわる物語と共に認知されたのは戦後の大衆読み物の力が大きい。
    子供向け商品の栄枯盛衰はあっただろうけれども、それが全てではない。
    (はつゆきさんのおっしゃる事も理解できるけれどもそれだけじゃない、と言いたいのです。)
    この二点です。
    あまり愉快ではない方向に進んでしまいましたので私は撤退いたします。
    BUN

  47. 当時、大人の文化と子供の文化って、相互に関係していなかったでしょうか?
    私は学校に行く前に、叔父から紫電改は「N1K1J-2」だと信じ込まされました。
    小学校の担任の先生から、昭和35年ごろに戦艦大和・酸素魚雷・零戦について、
    授業をほったらかしての1時間にわたる熱弁を、何度も教室できかされました。

    今の、子供の文化(私にはタレントの区別がつきません)と大人の文化との、
    憂うべき乖離がなかった古きよきあの時代には、大人が戦後すぐに出された
    大衆雑誌類で仕入れた情報は、直ちに子供にも伝わっていたように思います。
    (子供に伝わったとしても、直に子供向けの商品には直結しなかったでしょう)

    BUNさまも、はつゆきさまや元K講談社営業マンも、少し見方が異なるだけで、
    問題は、いつからなぜ子供達が父親など大人から、軍関係のヨタ話などを含めて、
    しょもうない漫談などを、まじめに聞かなくなったかということかもしれません。

    そういう私も、たまに子供相手に、なにか話をしようとして「東郷ビール」や、
    「三軍の長は陸海空」などと口走っては、子供達にバカにされてばかりいます。

    このサイトをはじめとして、インターネットなどが、日本の世代の間を超えて、
    各種文化の橋渡しをしていただいているものと、いつも感謝いたしております。
    GST:20年代生

  48.  ここでのテーマである「名声」からは外れますが、大和について語るならその「悪名」の歴史も検討する必要があるのではないでしょうか。

     私の子供時代(昭和30年代)「大和」は「日本の誇る世界最大の戦艦」であるとともに、「一度も撃ちあうことなしに飛行機に沈められた時代遅れの巨大戦艦」あるいは「ピラッミド・万里の長城とならぶ世界の三バカ(あるいは三無駄)構築物」、いう二つの顔を持った存在でした。しかも後者の方が、マスコミなどではより一般的な評価であったように思えます。占領下の時代に「無駄としての大和」の報道がどれほどなされたのかは存じませんが、昭和30年代前半には間違いなく「大和」は軍の旧弊と不合理のシンボルでした。

     しかし、にもかかわらず、「無駄としての大和」のを語るためには、その無駄を示すためにも「世界最大の戦艦」が不可欠の前提となります。「世界中のどの戦艦よりも強かったけれど、新時代のヒコーキには勝てなかった大和」という見方は、他方「優れてはいるが時代に合わなかった悲劇の戦艦」という、日本人の大好きな悲劇のパターンです。

     戦後「大和」は、おそらく敗戦直後から現在に至るまで「旧軍の愚かさ」と「日本の技術水準の高さ」のシンボルであり、そしてまた「日本海軍」そのもののシンボルでもありました(何故赤城や飛龍でないのかは面白い問題ですがここではカット)。だからこそ一般的なメディアではレイテやマリアナでなく、天一号作戦を「帝国海軍の最後」として大きく扱うのです。

     このような複雑なシンボルとしての「大和」は、少年漫画やプラモデルではなく、ここでの議論ではあまり取り上げられていない、新聞や雑誌・ラジオ・テレビ・映画などのメディア(昭和40年頃までは終戦記念日前後のあらゆるメディアは戦争回顧一色に染まった)と、戦後の人々の口話(親や親戚や教師などの昔話)によって伝えられていきました。

     この伝承は、再生産されつつ現代に至るわけで、その意味で大和はゼロ戦とともに日本の戦争のシンボルであり続けたと思います。

     ただし、第二次世界大戦に対する日本人の態度は、敗戦から一世代を経た昭和40年代に、質的な変化があったようです。戦争体験が身近な過去から遠い過去になり、戦争をまったく知らない世代が社会人になり、第二次大戦よりベトナム戦争の方がより身近に考えられる時代の到来とともに、戦争の伝承が現実的な意味を失っていったこともたしかです。昭和30年代後半の戦記マンガブームは、子供に「悲惨でない」第二次世界大戦を語ることのタブーが解けたときに爆発的に流行し、もっぱら社会全体の第二次大戦に対する興味の低下により衰退したように思えます。
    カンタニャック

  49. >45
    >>私は「真相はこうだ」式の出版物で大和の物語が広められたとは書いておりません。あまり思い込みで断定なされない方がよろしいのではないでしょうか。
    他の方が使用した表現との混同については深くお詫び申し上げます。
    しかし、"戦後すぐに出された""大衆読み物"を重視することが大間違いなのは明白です。
    "戦後すぐ"はどう拡大解釈しても昭和22年までが限度で、その時期はGHQの言論統制で仰せのような内容の代物が広く流通することなどありえませんでした。
    "大衆読み物"が社会に多大な影響を与えたという仰せも論外で、今日に当てはめると「世論を形成しているのは東京スポーツや内外タイムス」というレベルの認識です。社会の本流はそんなに低レベルではなかったのです。
    また、「島風」なんて昔も今も普通の人は名前さえ知りませんよ。

    >自衛官でもそんな人間は稀。
    とは何の根拠でそうおっしゃるのでしょう。
    私は防衛大学校卒業の元一等海佐です。長年の半閉鎖社会での勤務で、上司・同僚・部下の嗜好等に注意を払うのは当然であり、特にガンマニアやプラモマニアは物品管理や保全上の問題を起こす例が多かったので、その種の趣味歴には特に注意を払っていた故にそうした判断が下せるわけです。

    >改憲と軍事知識普及がご希望でしたらば、
    私はそんな事は申しておりません。むしろ平和の維持のためには解釈改憲にとどめるべきとの思想の持ち主です。「ふなたの言うように軍事知識が広まっていたなら、そういう世の中になっていただろう」という反語的推測を述べた部分さえ読み取れない方がいらっしゃるとは驚きです。

    >長島が少年雑誌の表紙から消えたから長島は不人気だった」と強弁しているように響きます。
    はつゆきさん等が言われた事に「市場経済社会で人気が無くなったものはマスコミから消え、それでまた知名度が下がって人気も下がる」という含意があるのは自明です。「長島が少年雑誌の表紙から消えた時期には長島の不人気化が進行していたと考えられる」と言われているのは至極当然で、強弁と言われるべきはあなたの仰せの方です。

    結局、この方の言説を通読すると「大和」や「ウォーターラインシリーズ」に人気があったのか否か全く一貫性を欠いており理解に苦しむだけなので、元々議論が成立する条件がなかったのでしょう。

    >48
    大変的確なご意見に感服いたしました。

    なお、戦争被害者の多くは戦争について語る事を忌避し、特に女性においてはその傾向が顕著だった事を強調したいと思います。皆さんの議論では、社会全般についての議論なのに女性の存在がほとんど意識されていないようですので。
    昭和二十年代出生


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