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2116 こんにちは、勉強させていただいています
また、教えてください。
最後の信濃のことですが他の大和型は本当に不沈艦と思わせるほど
打たれ強くなかなか沈ませるのは大変でした
が!なぜ信濃はあんなにも簡単に沈んでしまったのでしょうか。教えてください

  1. 大和型二艦の竣工から沈没までの期間、乗員はかなりの時間をかけ、色々な訓練を行うことができたでしょう。当然、応急の訓練も行われていたはずですし、そもそも、下士官以上にはそれなりの実務と経験を積んだベテランが優先的(他の小艦艇よりは)に配備されていたようです。
    信濃については、どうでしたか?
    一応竣工とされ、出航はしたものの、残工事があり、工員を乗せた状態であったとされていますし、乗員も、自分の艦に乗ったばかりの者もおおかったようですし、何より、出航時に”防水区画”の検査も未了。一説にはその防水区画の扉ですら、工事未了とさえ言われています。更に乗員は新参の方も多かったといいます。
    この状態で、先の二艦と同様の打たれ強さを期待されるのも、いかがかと考えます。

    それと、申し訳ないのですが、この程度の質問は、行う前にご自分でもう少し資料を調べれてはいかがでしょうか?図書館というものを、ご存知ですか?大き目の本屋の立ち読みですら、十分に答えを見つけられるはずと考えております。
    Lachesis

  2.  端的に言ってしまえば「未完成」だったからです。
    「信濃」は、空母に改造されましたが、早期戦力化のため突貫に次ぐ突貫工事で無理やり工期を短縮された上、B29による横須賀空襲を恐れて水密試験すら省略した状態で、呉への回航を命じられました。満足に訓練すらできていない、まだ信濃の構造や装備に全く慣れていない乗員を乗せて。
     大和や武蔵は驚異的とも言える防御力を発揮しましたが、それは艦自体の強靭さもさることながら、乗員の必死の復旧作業により得られたものなのです。
     大和の元乗員の証言として「我々が大和の構造を理解し、どうにか不自由なく動かせるようになるまでに1年かかった」というものもあります。また新造ほやほやの艦では、初期不良の類も数多く発生します。
     本来、完成した軍艦は訓練を繰り返し、乗員の練度を高めると同時に、その間に発見された数々の初期不良を改善、修理し、やっと戦力として使えるものになるのです。(その期間は艦種や艦の規模などによりますが・・・)
     未完成の船体の上、全く艦に習熟していない乗員、不運にも魚雷がバルジの厚い部分でなく、比較的防御の薄いバルジ上端に命中してしまった、ということもありますが、その結果として艦の注排水がうまくいかず、傾斜を復元することができないまま、信濃は転覆沈没してしまったのです。
     書類上の竣工日から、わずか10日後の出来事でした。
    つね

  3. 書いている間に、先の回答が入っていました。申し訳ありません。
    つね

  4.  信濃は潜水艦魚雷を片舷同時に4本受けたにもかかわらず、03:15に被雷して11:00に転覆沈没するまで元戦艦らしく粘っていて、そう簡単に沈んだわけではありません。 他の2艦の沈没までの被爆・被雷数は多いですが、爆弾の被害は直接浮力を失わせるわけではなく、また航空魚雷は潜水艦魚雷より軽量で威力に劣るということも考慮する必要があるかと思います。
     信濃の沈没状況については、C. 光人社NF文庫の 信濃−日本秘密空母の沈没 J.F.エンライト著の一読をお薦めします。

     最も直接に信濃の命運を尽きさせたのは大傾斜による動力の停止(06:00ころ)で、これにより排水も傾斜の復原も防水対策もできなくなり、その後5時間で転覆沈没しました。被雷後3時間の間に大傾斜を止められなかったのを、未完成で乗員訓練未済のゆえとするのは、1945年に三河軍一中将を長とする「S事件調査委員会」で出された報告書の見解ですが、当時から異論があります。 A.航行計画と護衛体制のまずさ B.基本設計と構造設計の不備 が信濃喪失の主要因としてあげられています。

    A. 護衛総司令部参謀 大井篤大佐の調査委員会報告書評 - 著書「海上護衛戦」から
    「火の用心はあまりしないで消防夫が悪いから丸焼けにされたとうらみを言っているように聞こえる。根本的には航海計画が悪く、敵の潜水艦とその魚雷の威力をあなどったところから来ている。」

    B. 大和詳細設計、信濃基本設計担当 「S事件調査委員会」委員 牧野茂 - 著書「牧野茂艦船ノート」から 
    「大和の浸水計算は魚雷三発では沈没することなく基地に帰投し得る方針でダメージコントロールが計画されている。四発目の結果に関しては検討が充分なされていなかった。 大和型には重量軽減が極度に行われた関係上、極度に薄板構造の部分があって、雷撃の衝撃振動でそうした薄板構造部分の防水が破れて、浸水の波及がなかったとは断言できない。 私は信濃沈没の責任が、全部建造所の防水工事の不備にもとづくものと断定するにしのびない。」

    C.にある一文ですが
    「阿部艦長は自分の任務は信濃を呉に無事に持ち込む事として、戦闘を回避しようと計り、米潜を撃破する機会を捉まえそこなった。 米側は推測が正確で、データに信頼性があり、分析が健全で、運がよかった。」

    そのほかA.に関連して挙げられている事項ですが
    護衛の磯風や雪風がレイテ戦帰りで電測・水測兵器が使用不能であったこと。加えて信濃自身が電波輻射を禁じたこと。 直前の雲龍の横須賀−呉回航が成功したように高速之字運動で潜水艦の攻撃は回避できると判断したこと。 航路が本土から遠方過ぎて救援船が間に合わなかったこと。

    B.の著述には以下のような事項も挙げられています。
     大和型の舷側水中防御は上部甲鉄と下部甲鉄の継ぎ目部が、バルジ外板から連続する棚板になっていて、この部分で甲鉄が滑り雷撃の衝撃圧で背部の縦隔壁の水防が破れる構造になっていたこと。
     魚雷が命中した部分のバルジが薄かったため防御部へ悪影響したというのは、大和基本計画主任の福田啓二技術中将の意見で、これに対し牧野茂氏は「理解に苦しむ」と強く否定していること。
     大和型の罐室、機械室配置は3条の縦隔壁で大区画に区切られており、これがため片舷浸水による大傾斜を招いたこと。
     防御部に命中した3発の魚雷は全て水中防御を貫通し、外側機械室と外側罐室など5区画を満水させたこと。
     横隔壁上に水平桁が配置されていて、これが雷撃による側圧で外側罐室と内側罐室の間の縦隔壁を破り、内側罐室1室を満水させたこと。
     後部の非防御部に命中した一発の位置は大和、武蔵にはない倉庫・ガソリン庫の大区画でここも中心線縦隔壁により片舷満水したこと。
     大和型では主砲塔弾火薬庫部であったところは、信濃では広大な機銃・高角砲弾薬庫でここも浸水したこと。
    IWA

  5. 大変よく解りました、詳しく色々と教えていただきましてありがとうございます。



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