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2211 最近刊行されたG社の「世界の戦艦」を一昨日購入しました。特に今号は“大塚好古様の独壇場”という印象もあり、各々の文章力と説得力に感動しております。

それで、P166からのドイツ戦艦に関する件ですが、「ビスマルク」の竣工時点でその喫水(満載時?)がドイツ国内の主要港湾施設の水深の限界に達しているという件を初めて知りました。続くH級戦艦等の設計にも喫水の面で大きな影響を及ぼしている旨も詳細に説明されていますが、ここで素人の素朴な疑問が出てきました。

『ビスマルク、ティルピッツらが大破し、なおかつ相当な浸水を被って沈没寸前で本国に帰投する場合、港湾に入れないのではないか?』という事なんです。
……と、なると港外で目一杯排水、浸水防止作業を自力でできない限り、港内手前で着底するしかないのではないでしょうか?
紀伊国屋

  1. ジャットランド海戦のときの巡洋戦艦ザイドリッツがまさしくそのような状況に陥ってます。同艦は被雷などで前部の浸水著しく、6月1日03:40ホーン・リーフ北浮標の東方に座礁、後進にて離礁したものの、前部の吃水13mに達し、同日10:00ヘルヌムの正横にて再び座礁し、後部に反対注水を行ない、後進にて航行し、ポンプ船2隻に補助されてようやく6月2日天明時にヤーデ到着、とあります(北海海戦史第5巻)。ちなみにドック入りの際、前部重量軽減のため艦首砲塔の砲身と天蓋を取り外しています(戦闘で破壊された云々は誤り)。
    志郎家の番頭

  2. ご回答ありがとうございます。
    そうですか、喫水13mで座礁とは本当にギリギリの水深ですね(苦笑)。WW2当時の大型艦は大体喫水が7m〜9mソコソコなようなので上構のみの大破ならともかく、水線際の被弾、魚雷等による浸水の被害ならば必要以上の多大な手間がかかるのがよく分かりました(水深にゆとりが有れば不用な注水作業や砲身や天蓋の撤去とか)。

    しかし、この港湾施設の水深の浅さ。港湾施設建設の際に意図的に潜水艦や潜航艇の攻撃を受けない安全な場所に建てたのでしょうか?それとも港湾施設を建てた当時とは想像もできなかった大型艦が就役した故なのでしょうか?まさか建ててから水深の浅さに気付いたとか・・・?
    紀伊国屋

  3. >港湾施設を建てた当時とは想像もできなかった大型艦が就役した故

    基本的にはそういうことです。
    例えば、もともとヴィルヘルムスハーフェンは水深が浅い海域にあり、ヤーデ泊地も伝統的にそこを使ってきたからという理由でそこが根拠地になっていたというもので、超ド級戦艦クラスの大艦には既に不十分なものでした。
    第二次大戦時にはヴィルヘルムスハーフェンは二線級の基地になっています。

    ただ、その拡張にあたって帝政〜ナチスを通じてドイツ海軍が消極的であった、もしくは消極的にならざるを得なかったのも確かです。
    これには予算の壁があったのも事実ですが、海軍上層部の想像力の欠如という部分も大きいと言わなければならないでしょう。
    例えば、ド級戦艦を就役させるにあたって、キール運河の拡幅&浚渫、主要軍港の浚渫、造船施設の拡大はやっていますが、それはド級艦にギリギリの深さと幅でしかやっていません。もともとの想定が最大1万5千トンという控えめなものであったたために、各所で行う工事にそれぞれ多額の費用とマンパワーを要することになったからです。
    もちろん当時のドイツがひねり出せる最大限度の予算を投入して行なったものでしたが、ここで思い切って大型船舶に対応できるようにすることができなかったツケは40年後まで響くのです。
    既に第一次大戦の時点でも、最新鋭最大最強の戦艦であったバイエルン級の満載時の喫水は(設計ミスもあって)13メートルに近く、キール運河の通航は軽荷状態で行わないと危険でした。
    第一次大戦中は陸上戦が忙しすぎたこともあり、何とかそのままでも使えなくもない港湾浚渫作業は結局本格的な実施はされずに終わります。

    商港であるハンブルクやブレーメンは大型貨物船の入港があるために十分な水深を持っていましたが、軍港はといえばベルサイユ条約や英独海軍協定の手前もあって浅いままで、これもZ計画が本格的に動き出せばやるつもりだったのでしょうが、それに手をつけられないままに第二次大戦が始まってしまいます。

    大型艦の母港がわざわざ占領地であるゴーテンハーフェンに置かれたのも、英軍双発爆撃機の攻撃圏外であることもさることながら、ポーランド時代に整備されていた港湾の水深(及びダンツィッヒ湾泊地の水深)がちょうどよかったという面もまた大きいのです。

    まなかじ


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