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2229 マスコミ等で「不沈艦・不沈船」とアピールされた船の名前を教えてください。
「客船タイタニック」「戦艦プリンス・オブ・ウェールズ」のような沈んでしまった例と
廃艦になるまで沈まなかった例、それぞれ教えて頂きたいです。
ベリアル

  1. 長門なんかどうでしょう。同型艦の陸奥はあっけなく沈んでしまったんですけどね。
    居眠り将軍

  2.  不沈艦と謳われた中で一番有名なのはビスマルクじゃないでしょうか。一回目の出撃で沈んでしまったので、同型のティルピッツには冠されませんでしたが。
     あと、大和もそう言う風に言われてますね。
     雪風や響、時雨等の場合は幸運艦と言われる方が多いようです。

    hush

  3. 逆の場合もあり?
    USSサラトガの場合などは、「いつも肝心なときにいない!」とまで言われてしまいましたが、、、

    Lachesis

  4. 回答ありがとうございます。
    追加質問になり失礼になりますが、お訊きしたいことがあります。
    大和も浮沈艦のイメージがありますが、当時の秘匿性を考えると
    浮沈艦とアピールされたとは考え辛いです。
    大和=浮沈艦と読んでいた人たちはどれくらいいるでしょうか?

    ベリアル

  5.  ジェーン海軍年鑑の1945-6年版にYamatoが記載されております。要目等が非常に異なりますので(たとえば16インチ砲orそれ以上9門であるとか)、詳細な情報が入る前に記載されたものと思いますが、連合軍側は戦争中には日本の新戦艦について、ある程度の情報をつかんではいたようです。したがいまして、肝腎の要目はともかく、存在自体はある程度知られていたようです。もちろん、日本の国民のほとんどは、この艦の存在について知らされたのは戦後、たとえば伊藤正徳の「連合艦隊の栄光」や「連合艦隊の最期」のような書物によってだと思います。しかし、海軍関係、特に艦隊勤務の者は一般兵卒でも艦名等は知っていたようです(これは回想等をいくつか読んでみて思ったことであり、その人たちが戦後仕入れた情報と混ざっている可能性は否定できません。当時の日記等に記載があれば確実ですが)。そのような人たちにとって、長門より巨大な戦艦の姿は(ついでに言えば、赤城が持っていた全長の記録も更新しています)不沈艦を思わせるものであったと思います。もちろん、存在が秘匿されていた以上、アピールされていたとは考え難いものはありますので、どれくらいの人達がそのように呼んでいたかは、そのような性格上、数値化することは困難かと思います。ただ、艦隊内では不沈艦として囁かれてものと思います。このあたり、吉田満著「戦艦大和ノ最期」に書かれていなかったかなと思いますが、今、手許にありません。フォローしていただける方がいれば嬉しいのですが…。

    hush

  6. 以下のページに米海軍が大和に関して、何をいつ知ったのかという記事があります。

    http://www.warships1.com/index_tech/tech-084.htm

    これが全て本当だとしてですが、

    1936:帝国海軍が45,000-55,000トンの戦艦の建造を計画していることを、駐在武官のRogers大佐が報告。

    1938:後任のBemis大佐が16インチ砲搭載で、少なくとも35,000トンと報告。当時の各国駐在武官の間の推測では35,000-50,000トンの間で、16インチ砲12門搭載ではないかとの見方が主流。
    18インチに関しては8・8艦隊計画の13号艦でその搭載が検討されたにも関わらず、工作機器の問題等から、可能性は低いと判断されていた(現在は13号艦の18インチ砲搭載は平賀私案との見方が主流のようですが、当時は計画があったと見られていたのでしょうか)。

    1942年8月:主砲が9門であることが確認される。

    1942年10月:海軍情報部(ONI: Office of Naval Inteligence)は35,000トン、16インチ砲9門と推定(少なくともこの大きさでは不沈艦とは呼べないでしょうね)

    1943年春:CINCPAC情報部は45cm砲9門と推測

    1943年7月:海軍情報部が捕虜の証言から信濃が空母に改造され、50,000トン以上であるとの情報を得るが、これを信ぜず空母に改装されたのならせいぜい30,000トンと推定。

    1943年10月:日本軍の通信傍受により、特別な40cm砲搭載との情報を得る。(これは正式名称が94式40cm砲であるため、まんまとひっかかったもの)

    1944年2月:大和の写真を入手。写真解析の専門家は18インチ砲搭載と推定し、艦船設計の専門家はそのためには60,000トン以上の船体が必要と推定した。が、そのような巨大戦艦は実用的でないと判断を変える。

    1944年10月-45年4月:この間のどこかで、米海軍は大和の主砲が18インチであること、大きさが60,000トン以上であることを確認する。

    と、なっておりますので、1944年後半になるまで大和の実体は知られていなかったようです。ですから不沈艦との認識も当然なかったでしょう。但し、沖縄戦の時点では「十分なエアカバーがあれば、大和は非常な脅威である」との認識はあったようです。



    富士見町

  7. 富士見町様
     フォロー、多謝。

    hush

  8. 丁寧な説明ありがとうございます。
    とても勉強になりました
    べりある


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