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2255 「世界の艦船」のバックナンバーにあった「戦艦 扶桑型の謎」という記事ですが、もう答えは出ているのでしょうか(学研のシリーズの扶桑型に期待したのですが、この件は触れられておらず、ちょっとがっかりしました)
1.山城はなぜまったく動かなかったのか(行動年表を見てもほとんど動いていません)。機関に重大な問題があったという説もありますが、そうなるとなぜ西村長官はそんな艦を旗艦に選んだのか?
2.扶桑型の最高速力は24.5ノットとされていますが、実態は20ノットを出すのも大変だった。だから第二遊撃隊として別行動を取らせたのか?
TOTO

  1. 1.山城と扶桑は構造上重大な欠陥がありました。
    艦体に対して平均的に主砲を並べたことにより、側面への一斉射撃を行った際、その爆風と衝撃により艦の上部構造物、艦橋等に傷害を与えることが後に判明しています。あとは、防御力が他の戦艦に劣っていました。したがって、第一線で戦う機会はほとんどなく、内地で練習艦として利用されていました。
     西村中将に関しては、もともと全滅覚悟の作戦であることをよく理解していました。生きて帰れるとも思っていませんでした。第2戦隊の旗艦・山城がそのまま第2遊撃部隊の旗艦になったのは自然なことだと思います。
     連合艦隊が山城・扶桑をも投入したのは、いずれにしろ今後使い道がなくなるのは必至だからでしょう。出し得る限り最大の兵力をつぎ込んだのがレイテ沖海戦であり、空しく内地に留めておくという選択肢は(当時の司令部には)考えられませんでした。

    2.速力が劣るから栗田艦隊とは分離した、ということで正しいと思います。もし第2遊撃部隊のほうを米艦載機が攻撃してくれればしめたものですし。実際はわずかな航空攻撃を受けたのみでしたが。
    田中

  2.  戦前の演習で21〜22ノットで戦闘射撃演習やってますので(昭和15年の演習でも確認)20ノット出すのが精一杯という事は無かったと思います。
    SUDO

  3. 昭和18年当時、扶桑艦長だった鶴岡少将が「24ノットで戦闘運転ができ、全く問題は無かった。」と「艦長たちの太平洋戦争」で証言していますね。
    Oil cloth

  4. 回答ありがとうございました。
     扶桑の方は比較的動いてますので、船体としては問題なかったのでしょうね。
     主砲の斉射に関しては、「斉射を行うと爆風の影響で必ずあちこち壊れたが、それよりも敵に被害を与えることを望んだ」ようで、爆風に強い簡素な構造より、多くの観測機器を装備して「この一撃にかける」みたいなところがあったのかもしれません。
     しかしやはり全く動かなかった山城は謎です。西村長官にしてもエンコするようなフネで死地に赴くなんて悔いばかりでしょう。
    TOTO

  5. 山城は砲術学校等の練習艦となったり電探の実験を実施したり輸送作戦に参加したりと結構動いているようです。


    ルージュ


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