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2324 稚泊連絡船をサイトで見ていたら、樺太丸と壱岐丸が非常に混同して来ました(サイトを開くほど)。 誰か両船の最後(経歴)を教えて下さいませんか?
甲標的

  1.  壱岐丸型連絡船は下関−釜山(プサン)を結ぶ関釜航路用として山陽鉄道が発注した渡峡船で、壱岐丸は日露戦争終結直後の'04年9月から、姉妹船の対馬丸は11月から就航しています。なお、翌年鉄道国有法の公布により、関釜航路は国鉄が引継いて直営航路となります。
     年月が経ち、新造船の投入でお役御免となる見込みが立った'21年、かねてから国鉄直営航路開設の要望が強かった稚内−大泊(現コルサコフ)に投入されることが決定し、両船は砕氷船に改造されます。

     以後、対馬丸は'25年12月に濃霧の中野寒岬で座礁、乗員乗客全員と積荷の一部は救助されましたが、やがて荒天のため船体が大破、放棄されました。壱岐丸は以後も運航を続けましたが、大寒波が襲来した'31年2〜3月の難航で船体に損傷を受け、安全性を確保することが難しいとして5月に係船されます。
     翌32年壱岐丸は大阪商船に売却され、若干の改造を受けて琉球航路に就航します。'37年北日本汽船に売却されると樺太丸と名を変え、再び稚内−本斗(現 ネベリスク)間の樺太航路に就航することになります。なお、'43年に北日本汽船と大阪商船が合併したため、樺太丸は再び大阪商船の所属となっています。

     樺太丸(壱岐丸)は太平洋戦争を生き延び、終戦直前から約2年間、壊滅した青函航路に応援として国鉄に用船されて就航します。以後は係船となり、'50年政府の低性能船買上法の対象として室蘭で解体され、46年の生涯を閉じました。現在、東京神田の交通博物館に、鉄道記念物として壱岐丸の号鐘が保存されています。
    天翔

  2. 回答ありがとうございました。
    やっぱり同じ船だったのですね、樺太航路、関釜航路、青函航路、南西諸島航路を制覇。 北の海では南系の船名(壱岐丸・対馬丸)の砕氷船で就航して戦争を生き延びた勇士だったのですか・・・ ウ〜ん こんな船も有ったのだ!
    甲標的


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