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ふと気になったのですが、刀剣類に「左利き用」はあるのでしょうか? 特に剣術が実用性を失って様式化する前、つまり戦国時代までの日本においては、「構え」の規格化がなされていなかったはずですので、無理な左利きの矯正は行われず、左利き剣士にも配慮がなされていたと思うのですが。 Schump |
- 追記ですが、少なくとも15世紀末には日本の戦死者の8割は飛び道具によるものだというのが最近の歴史学の定説であるので、それだけの地位を持った「弓」や「火縄銃」についても左利き用の存否が気になります。
盛りだくさんの質問で申し訳ありませんが、よろしくご教示願います。
Schump
- いや、矯正はされていたらしいですよ。
「構え」の規格化はされていなくても、刀を腰にさす場合などに関わりますから。
それに、周りがほとんど右利きなのに一人だけ左利きだと、
「鬼の子」などと忌避される原因にもなりかねません。
故に、左利きの子供を持った両親は必死になって矯正したと推測します。
で、左利き用の武器ですが、
一年程前だったでしょうか、「開運なんでも鑑定団」で
左利き用火縄銃が出てました。
なんでも、藩主(細川家だったと思います)が左利きだったそうで。
……身分が高くなると、矯正する必要がないのですね。(^^;;
如水
- 弓に関してですが、現在の洋弓(いわゆるアーチェリー)に関しては左用というのがありますが、ここで左右どちらを選ぶかというのは「利き手」で選ぶわけでなく「利き目」を重視しています。しかしこれも必ずしも「利き目」で狙う方がよく当たるというものでもなく目安程度です。ここで和弓を考えてみると構造上の左右の違いがないと思われるのですが、命中率に大差がない以上、指揮の取り易さなどから右に統一されていたと思われます。
taka
- 直接話の主旨に関係のない話でなくてすみませんが、「日本の戦死者の8
割は飛び道具によるものだというのが最近の歴史学の定説」とありますが、
まだ、多数の説のうちの一説であるのが事実です。普通、学会では学校の教
科書に書けるようになって初めて定説といいます。例の長篠の三段打ちでさ
えもまだ定説として生きています。また、私は鈴木眞哉さんの説に賛成です
が、著者の鈴木眞哉さんは専門の学者ではありませんし、残念ながら文献学
的な手続きが不完全です。それに学会誌に報告されていませんので歴史「学」
界では相手にされてないと思います。そんな意味で「定説」というと誤解を
招きます。良かれ悪しかれ学問の世界とはそんなものなのです。
tk
- 関係者には失礼ながら、日本の「歴史学」は「学問」としての水準に達しているとは言い難いので、定説も何もどーでもいいことでしょう。派閥・学閥によらず、論理的な議論がなされるようになったら「学問」になるでしょうがね。
るん
- すいません誤解を招いたようなので。
派閥・学閥によっているくだらない方(?)もたくさんいらっしゃいます
が、ここで「定説」と言っているのは、本来は誰もが文句を言えないくらい
に立証され尽くされた説という意味です。(いわゆる「定説」がすべてそう
ではありません。)
学問の上では穴のない立証をすることは大変難しいのです。本来、歴史学
の論証手続きは大変厳密なものなので、それで、どうしても資料的に完備し
ていて欠点の少ない説の方が有利になります。新しい常識を作るときにはそ
れだけ丁寧な立証を要求されるのです。
ただ、日本では戦術眼・戦略眼を持った歴史家が非常に少ないのが残念で
す。本職である参謀本部の日本戦史でも?と思う部分がけっこうあります。
やはり、すべて自分たちの型で発想してしまうのでしょう。
日本では軍事学が普通の人の一般教養ではなく、マニアのものとされてい
るくらいですから、軍事史が史学の正当な一部分とされるのも難しいんでし
ょうね。
tk
- 宮本武蔵が左利きだったという説を聞いた事があります。残されている書の筆の運びが明らかに左で書かれている事と、二刀を持った肖像画に描かれている両手の握り方から推測出来るそうです。それによると、利き腕の左に持った小刀は細かくコントロールして使い、右の大刀は力任せにぶった切るのに使ったのではないか、という事でした。
MITTU
- 吉川英治「随筆宮本武蔵(小説ではない)」に本田忠政の家臣、三宅軍兵衛と宮本武蔵が立ち会った様子が記されています。これは軍兵衛自身の口伝が筆記されて伝わっているものらしいですが、それによると三宅が諸手で突きを打ち込んだところを「左手の小太刀で刎ねのけ、右の大太刀で三宅の頬を突いた」とのことです。この一文を持って武蔵左利き説の傍証にはなりませんが、示唆深いものがありますね。
ささき
- 封建時代は、いまでも左利きをチンバとかいうように一種の身体障害として
とらえられていたと何かで聞きました。
であれば、侍の子弟は箸、筆、刀は半ば強制的に治されたことは想像に難くありません。
それに鞘あたりを極端に嫌ったことから刀は左に差すものと決まっていたそうなので、刀は普段持ち歩き大衆の目に触れる侍の看板ですから、いざというときを踏まえてなお更右利きで剣の修行をしたと思われます。
但し飛び道具は戦時のものですので、結構融通が利いたのではないでしょうか?
但しこれは江戸時代のことで、それ以前は関係無かったかもしれません。
少なくとも私は左利き用の刀剣の拵えを見たことはありません。
MARO
- 私は二天一流の門下でもあるのですが、流祖が左利きであったかは聞いたことがありません。
ただし五輪書にも有りますように、「刀は左右の別無くこれを良く使い」と言うことで稽古でも正二刀、逆二刀と両方を稽古します。
刀自体には左右の別がありませんから、腰への差し方のみの違いでしょう。
立会いの場では差し方は既に問題ありませんから、腰の左右が関係してくるのは居合の場だけです。
これは訓練により矯正するより無いと思います。
Sq