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80 インパール作戦で師団長を解任された山内、柳田、佐藤中将はその後
どうされたのでしょう。佐藤中将は軍法会議の前に精神に異常をきた
したとされていますがこれは牟田口中将の策謀なのでしょうか
Ko

  1. 山内師団長は一九年八月に戦病死、柳田師団長は参謀本部付けの後旅順要塞司令官、関東州警備司令官の後
    ソ連軍の捕虜となり昭和二七年にモスクワで死亡。佐藤師団長は予備役に編入、侍命となって終戦を
    迎えたと記憶します。佐藤師団長が精神異常とされたのは師団長の任命は天皇陛下の裁可によって
    行われるため、軍法会議にかけると陛下に責が及ぶことを懸念したためだと言われております。
    大塚好古

  2. 牟田口中将が佐藤中将を軍法会議にかける事を諦めたのは、勅任官である将官の裁判は現地ではなく東京で行われることがわかった為だそうです。佐藤中将は逆に法廷で牟田口中将を告発すると息巻いていたので、それこそ思うつぼになってしまうからです。その為「精神錯乱」という名目での解任に切り替えたようです。
    田所

  3. 牟田口中将は戦後になってからもインパールの失態について「私には全く恥じるべき理由はない」と豪語していたそうですが、東京での裁判を避けたところを見ると自分の犯した愚行を認知する脳ミソは持っていたようですね・・・つくづくゲロ野郎だなこの親父は。
    ささき

  4. 回答ありがとうございます。
    インパール作戦は英軍が体制を立て直す前に発動すれば成功していた
    だろうと言われますが、なぜ牟田口中将は完全にタイミングを逸した
    時期に発動したのでしょう。しかも強引に。戦後も「私の言う通りに
    やれば勝てた」と半ば開き直ったような発言をしていたといいます。
    将官だからといって優秀とは限らないと言うことでしょうか。連隊長
    として前線に立った事もある人なのに。
    Ko

  5. 勝海軍卿曰くの「アメリカの政府は我が国と違って上に行くほど頭が良くなります」というのは
    一部の例外を除いて日本の安定化した組織に当てはまる大変良いお言葉です(爆)。
    それはともかくとしてインパール作戦が計画されたのは昭和一八年の中期ですが、この時に実施していれば
    当時の英軍の配備状況から作戦目的は達しえたとする研究があります(最近の軍研の連載記事)。
    更に作戦実施時には第15師団を南方軍の横槍で兵力を減らされた状況でしか使用することが出来ませんでした。
    多分牟田口閣下は「昭和18年にやっていれば」「第15師団を定数配備できれば」と言いたいのでしょう。
    大塚好古

  6. あぅ。ごめんなさい、私の文章感情的で支離滅裂ですね m(_ _;)m
    インパール作戦については牟田口司令官のゴリ押しもさることながら、
    軍部や政府が彼の暴走を黙認(むしろ積極的支援?)た背景には、この
    作戦の成功によって沈滞した戦況を一気に好転させたい、という
    ただならぬ期待があったようです。こういった期待は恐らく有形無形に
    牟田口司令官にプレッシャーを与え、あのような惨劇を招いてしまった
    のではないでしょうか。戦後になって牟田口司令官一人が悪かったように
    言われていますが、彼一人に責任を転嫁して知らん顔を決め込んでいる
    インパール作戦推進者も多かったのでしょうね。

    ささき


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