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101 重巡「那智」艦長の鹿岡円平大佐の経歴について興味があります。
海兵49期のエリートで、東條内閣発足の頃に首相秘書官となり、
その瓦解によって艦隊に出されて、当時最年少の「那智」艦長に転じ、
あわれマニラ湾の藻屑と消えた人物です。
首相秘書官からの転出は左遷と見るべきなのでしょうか。
その辺の事情をご存知の方がいらっしゃったらご教示ください。
むらじ

  1. 「最年少」の艦長だから、栄転な気もしますが。
    あこがれの第一線だろうし。とはいえ、これが左遷か栄転かは、本人にしかわかりませんね。
    経歴は例の「一撃」な本がありますね。
    僕はもってないんで、どなたか転載お願いします。
    勝井

  2. 確かに履歴だけなら「一撃本」(と呼ぶことになったのかしら)でおしまいです
    が、質問は、左遷かどうか、あるいは那智艦長への転出の経緯ですから、履歴だ
    けを写しても、それで質問者の意図を満たすかどうかちょっと自信がありません。

    少なくとも、同規模の軍艦の艦長補職年月日や海兵期などを並べてみて、その上
    で推測をしないと、少なくともいけないように思います。

    # 当時の巡洋艦の艦長は全員わかりますが、考察する時間がないもので。


    今泉 淳

  3. 重巡艦長にかぎっていえば、レイテ沖海戦当時のメンバーは以下のとおりかと思います。
    45期では「愛宕」の荒木傳、「足柄」の三浦速雄。
    46期では「鳥海」の田中穣、「妙高」の石原聿、「羽黒」の杉浦嘉十、「鈴谷」の寺岡正雄、「筑摩」の則満宰治
    47期では「摩耶」の大江覧治、「熊野」の人見錚一郎、「利根」の黛治夫、「最上」の藤間良。
    48期では「高雄」の小野田捨次郎。
    余談ですが、このうち「愛宕」の荒木傳は10月15日をもって少将に進級していたようです。
    上記から見て、鹿岡大佐の「那智」艦長就任は世代的にはそうとう若い人事といえるかとおもうのですが、
    確かにいただいたコメントのとおりこれだけでは栄転か左遷かをいちがいに論ずることはムツカシイかと思います。
    問題は東條首相との個人的関係を含めた首相秘書官としてのこの人物の業績のように思うのですが・・・
    なお以上の人名は、「陸海軍将官人事総覧」によりました。
    まえに小滝大佐の略歴をお伺いしたのは、この本に載っていなかったためです。
    むらじ

  4. まず、鹿岡円平個人についてですが、海兵49期(大正10年7月16日海兵卒)、海
    兵入学席次が72番、卒業時が5番、水雷学校高等科(26期、昭和2年11月29日卒)
    を首席卒、海軍大学校(甲種学生32期、昭和9年7月19日卒)を首席卒とあり、海
    兵は恩賜組ではないですが、174名中5番ですので優秀な部類であることは間違
    いなく、高等科や甲種学生が首席であることからも、将来を嘱望されていたで
    あろうと想像されます。

    # ちなみに、恩賜組は松浦義、三井再男の2名ですが、「陸海軍将官人事総覧」
    # を見る限り、この人達の戦争末期における席次は、鹿岡円平の他、藤井茂、
    # 山岡三子夫、長沢浩などよりも下位であるように想像されます。

    また、海大卒業後の主な配置を列挙しますと、軍令部出仕(一部二課)、嵯峨艦
    長、軍令部出仕(一部一課)、軍令部部員(一部二課)、大本営海軍参謀、第二根
    拠地隊参謀、軍務局局員、企画院事務官・内閣情報部情報官、興亜院調査官兼
    内閣総理大臣秘書官軍務局御用掛、那智艦長であり、水雷屋でありながら海大
    卒業後は嵯峨艦長以外ほどんど海上に出たことがないという特徴が認められま
    す。

    さて、この頃の巡洋艦艦長の人事について既に書き込まれておりますので、逆
    にこちらは海兵49期の艦長(軍艦)を列挙しておきます(ただし一等巡洋艦と最
    上、三隈、鈴谷、熊野、利根、筑摩は省略します。と言っても、49期は鹿岡大
    佐以外艦長はおらず、若い期でも50期の石坂竹雄が昭和20年3月22日に高雄艦
    長に補職されているのみですが)。

    五十鈴 松田 源吾 19. 6.20
    木曾 今村了之介 19. 2. 7
    長良 近藤 新一 19. 4. 7
    夕張 奈良 孝雄 19. 2.20
    酒匂 大原 利通 19.11.10
    矢矧 原 為一 19.12.20
    大淀 松浦 義 20. 2.25
    田中 正一 20. 5.15
    鹿島 高馬 正義 19. 5.15
    高橋長十郎 20. 4.28
    鳳翔 松浦 義 18.12.18
    国府田 清 19. 3. 1
    雲鷹 佐々木行蔵 19. 7. 1
    海鷹 国府田 清 20. 3.15
    龍鳳 高橋長十郎 20. 1.20

    これらから分かるように、昭和19年の時点では二等巡洋艦や小型空母の艦長へ
    の補職が始まっている時期であり、一等巡洋艦艦長への補職はどちらかと言え
    ば同期の士官に比べて早いほうであると考えて良いと思われます。それは、席
    次が上位である分だけ、大型な艦の艦長に補せられたと見倣すこともできなく
    はないと思います。したがって、その意味で本人事が左遷であるとは、私には
    感じられません(同クラスの巡洋艦艦長の中でも、最後任であるという事実も
    併せて考えれば)。

    なお、恐らく質問者としては、東條の側近であったため、中央から遠ざけられ
    たのではないか、という意図もこめられているのではないかと想像いたしてお
    ります。それはある一面分からなくも無いですが、一般論として、それぞれの
    配置において職務に励むというのが海軍士官あるいは海軍一般の考え方であり、
    それが仮に東條の秘書官であっても、それのみが理由で左遷されることは無い
    と考えます。むしろ配置の問題よりも、その配置でどのようなことをしたか、
    例えば政治的な活動をしたとか、そういうことのほうが問題なのではないかと
    小生は考えます。

    もし鹿岡大佐が秘書官在職中にその手の活動があり、海軍当局として問題視し
    ていたとしたら、同じ海上でも特務艦艦長とか左遷配置はいくらでもあると思
    います。もっとも、人が足りなくなっていた当時ですので、そんな悠長なこと
    をやっていられたかという問題はありますし、形の上での栄転その実態は左遷、
    ということも否定しきれるものではありません。

    全体的に見て、二年目の大佐として一等巡洋艦艦長職は、艦長職そのものが海
    軍士官(兵科将校)の目標の一つであり、左遷であることを示唆する傍証でもな
    い限りは、一応の栄転と見倣すのがとりあえず妥当な気がします。

    なお、吉松安弘「東條英機暗殺の夏」には、鹿岡自ら巡洋艦艦長への転出を希
    望した旨の記述がありますが、これが何に基づくものなのか確認できませんの
    で、ここでは事実を記すのみに留めておくことにします。

    まあ、要するに「その辺の事情」が分からないと、これ以上のことは言えない
    ってことですかねぇ。
    今泉 淳

  5. 補足です。

    > 最後任であるという事実も併せて考えれば

    これは、「海兵期が若い」という意味です。本当に最後任であるかどうか
    はちゃんと調べないと分かりませんので。
    今泉 淳

  6. 非常な卓見、恐れ入りました。
    同様のことは小生も、頭の中で漠然とは思っていたのですが、
    こうも明確に分析をいただいて、頭の中の整理が大分ついてきました。
    自宅で深夜パソコンに向い、なんども肯いてしまいました。
    大変感謝しております。
    改めて質問致しますが、「陸海軍将官人事総覧」をざっと見たかんじでは、
    ほかに「首相秘書官」の経歴を有する海軍軍人が見当たりません。
    単なる見落としなのか、実際にいなかったのか、
    鹿岡大佐の前に前例はなかったのか、後任は発令されなかったのか、
    ご存知でしたらご教示いただきたいのですが。
    もっとも、ご教示の通り、
    後任がいなかったからといって
    左遷・栄転の結論を即断することはできないと思っておりますが。

    また、陸軍出身の首相秘書官にはどんな人物がいたのでしょうか?

    むらじ

  7. あんまり時間が{ない、この先もとれそうもない}ので、簡単に思うところを
    記します。

    >鹿岡大佐の前に前例はなかったのか、後任は発令されなかったのか、
    >ご存知でしたらご教示いただきたいのですが。

    少なくとも、私が知る限り、海軍の現役将校で首相秘書官だった人は、鹿
    岡大佐以外知りません(存在することを否定するものではありません)。一
    般に「海軍大臣」の副官や秘書官(副官兼務)には、海軍大学校出身の穏健
    かつ優秀な者が充てられていたと私は見ておりまして、首相の秘書官を出
    すにしてもそれ相応の人材が充てられるはずと考えますが、私の頭の中で
    思い浮かべられる海兵各期の優秀者で「首相秘書官」なる配置に就いた者
    は皆無ですので、恐らく他に例はないのではないかと邪推します。

    当時の首相秘書官の配員に関しての法令は知るところがないので、これ以
    上に関してはなんとも言えません。

    >また、陸軍出身の首相秘書官にはどんな人物がいたのでしょうか?

    東条のときの秘書官なら、赤松貞雄です。

    今泉 淳

  8. 不躾な質問に対して懇切なるご教示を頂き、有難うございます。
    陸軍のことは(海軍についても同様ながら)うといので、赤松貞雄についてはよく存じませんが、19年夏に軍務局軍務課長に転じている人物ですね。
    ご多忙のご様子ですが、また何かありましたらご指導ください。
    お礼まで。


    むらじ

  9. 思うところがあって調べてみましたが、鵜池六蔵、庵原貢の2人は少なくとも
    海軍兵科将校です。

    鵜池六蔵 海軍少将 海兵38
    (昭和14年12月21日 予備役)
    任 昭和15年 1月17日 免 昭和15年 7月23日

    庵原 貢 海軍大佐 海兵52
    任 昭和20年 4月24日 免 昭和20年10月11日

    両者とも、「陸海軍将官人事総覧」から拾うことは、鵜池六蔵は付表にあって
    履歴掲載無し、庵原貢は履歴が全部記述されていないという理由から、不可能
    です。この辺りが「陸海軍将官人事総覧」の限界です。

    さて、鵜池六蔵は予備役に編入されてからなので、ちょっと事情は異なるかも
    知れません。が、庵原貢は現役なのでこれは該当しますね。ちなみに、庵原貢
    は、海兵入学時66番、卒業時39番、高砲15番ですので、特別優秀なわけではな
    さそうです。もっとも、大佐進級が昭和19年10月15日で、高松宮を除く52期の
    最早進級組ではあります。

    また、首相の秘書官は、3乃至4名程度が充てられており、首相の交替時と期を
    同じくして任免が行われているケースが多いようです。

    私は陸軍は全然無知ですが、明治18年以来の全首相秘書官の名簿を見る限り、
    陸軍将校と思われるのは、杉田一次です。

    杉田一次 陸軍大佐 陸士37
    任 昭和20年 9月 1日 免 昭和20年10月12日

    なお、これ以外にも陸海軍現役将校から任命はあったかもしれませんが、私の
    もっているリストには陸海軍将校などの記載はないので、これ以上に関しては
    なんとも言えません。

    今泉 淳

  10. 明治以来の首相秘書官?
    ここらで自分の不勉強を恥じるべきところなのですが、
    いかなる資料をみれば載っているのでしょうか?

    むらじ

  11. ↑「戦前期日本官僚制の制度・組織・人事」(東大出版会)を見れば、
    戦前の役人の名前がわかります。
    今泉 淳

  12. 色々ご教示頂き、有難うございました。
    種々の資料を自分なりに見直してみたのですが、これといった新事実を発掘することができませんでした。
    戦争直前までの海軍首脳部については色々な本に詳しいですが、
    戦時中のそれについては盲点だらけです。
    (資料がない、というよりも小生の不勉強ですね)。
    この件について新たに何かわかりましたら、またお教えください。

    むらじ

  13. 鹿岡円平の孫です。
    伝聞に基づくものですが下記情報を。
    円平の長男宏(故人)から聞いた話として、鹿岡は常々前線を希望したそうです。
    また長女良子が戦後巣鴨プリズンに三戸氏(海軍の人事、総務関連の部署にいらした方。詳細を母は語らず)を見舞ったときにも氏から鹿岡は自ら前線を希望したとの話を聞いております。

    ご参考までに



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