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29 (済みません、最後です)で、なんで「第一戦隊旗艦が大和だったか」という疑問ですが、作戦開始以前(構想段階)で艦隊旗艦のために空ける意図だったかはわかりませんが、それと無関係に、第一戦隊内の艦長の先任順序、あるいはそれらと戦隊旗艦の関係などにも留意する必要があるかも知れません(無関係かもしれませんが)。たしかに、旗艦設備は武蔵のほうが充実していましたが、2F司令部程度ならそれほど差がでると思えない気もするのですが、まだそこまで調べた事はありません。

  1. あっと、済みません。本来の質問の「回答」として書くべきだったのを、ミスってしまいました。> 管理者様


  2. 確かに戦史叢書の大本営海軍部第3段作戦作戦後期の巻に記述がありました。第2艦隊は夜戦を主体に編制されているため、戦艦に旗艦を置くことで実際の戦闘から落伍することを危惧して武蔵への旗艦変更が却下されたとのこと。理由もさることながら、旗艦の決定も現場の艦隊では難しかったのは印象的でした。どこかの雑誌で旗艦を愛宕に置いたこと栗田司令部の戦意の低さとして批判した記述がありましたが実際には事情が違ったようです。


  3. まず最初に書きますが、第1戦隊が第2艦隊に編入されたのは昭和19年2月25日付で第1艦隊が解体された為です。これは小沢中将の進言によって、従来の水上戦闘による艦隊決戦型の編成からようやく航空戦型の編成に転換された結果です。時期的にはマリアナより前、従ってレイテの直前だけの事でこの問題を考えるのも無理があるでしょう。


  4. 本来第2艦隊は巡洋艦部隊なので、行き場を失って編入された第1戦隊は外様、伝統的な艦隊編制からすれば、第4戦隊旗艦が第2艦隊旗艦を兼ねるのはむしろ自然です。その後捷1号作戦前の時点で、第2艦隊司令部が旗艦を第1戦隊におきたいという意向があったという点については、そのような記述を時折目にするのでむしろ通説でしょう。ただし理由については、真偽は不明ですが当時の関係者の証言として、「海大出ではない栗田が乗る旗艦を大和(あるいは武蔵)にしたくなかったから」という話もあります。


  5. さて分からないのは、やはり何故武蔵ではなく大和が第1戦隊の旗艦だったのか?という点です。第1戦隊が第2艦隊に編入されたのは前述の昭和19年2月25日付で、この時点では旗艦は長門です。なぜかというとこの時、大和はトラック沖での敵潜の雷撃で損傷して呉に戻って修理中、武蔵はGF司令部をパラオに降ろして宙ぶらりんな状態(その直後GF司令部はパラオからダバオへ飛行機で向かう途中遭難、武蔵もパラオ沖で雷撃を受けて呉へ)という状態だったからで不思議はありません。


  6. 第1戦隊の旗艦が大和になったのは昭和19年5月4日、この時点では大和はリンガ泊地で訓練中なのに対して、武蔵は前述の被雷修理がようやく終わって試験をかねて呉を出港した所で、いわば病み上がり。とりあえず実戦可能の大和に旗艦を移して、それが恒常化したのではないかという推測もできます。旗艦設備という点では、大和はGFの司令部を以前置いていたのですから問題はないでしょう。


  7. 第二艦隊の武蔵旗艦の希望は一九年六月二八日付の「軍令部海軍省トノ連絡事項」の中に文書として残っています。さて、問題の何で大和が第一戦隊旗艦だったのかについてですが、確かに第一艦隊解散時に発するようです。この時二月一九日付の戦時編制改訂の内報に説明として幾つかの付記があり、その中に「連合艦隊旗艦トシテハ大淀ヲ充当スルモ差当タリ武蔵ヲ使用ス(連合艦隊ト打合セ済)」との記述があり、武蔵は連合艦隊旗艦としてリザーブされていたのではないかと想像しますが、如何でしょう。BUN


  8. 当時のGF司令部参謀の回想を読むと、短期的にはともかく将来的には陸上にGF司令部を移すという事が既に古賀長官時代に決まっていたというような記述があります。いずれにせよGF司令部が実際に「大淀」に移り、その後陸に上がった時点でもなお「武蔵」がGF旗艦としてリザーブされていたのかというと、可能性は低いように思います。


  9. GFはそうなんです。でも軍令部は艦隊の編制についてGFとは常に違う見解を持っていたようです。穿った見方をすれば陸に上がったGF司令部との権限の競合を嫌ったのではないでしょうか。あと、全く話は異なりますが、宇垣纏は個人的に大和型を愛していたような記述が戦藻録の中にありますが、その思い入れが一番艦を選ばせた、とか、あくまでヨタ話ですけど。BUN


  10. 補足すると、古賀長官時代の案は一航艦主体の作戦にはグアムから、機動艦隊主体の作戦には一戦隊から行うという計画でした。その後軍務局より任務の重複するGF司令部の解散と軍令部一課との統合案が浮上し議論の末、この件はGFの権限を拡大することで決着しますが、この流れの中に実戦部隊の司令部としてGFの権限を限定したい軍令部一課とGF司令部との競合状態が読みとれる様に思えます。日吉の司令部は一九年夏のそうした葛藤の末の結論であって、古賀長官時代の戦術論からの陸上指揮案とは異なるものでしょう。BUN


  11. 結論としては大和旗艦が一九年四月の編制の名残りだとすれば、一九年夏頃まではGF司令部の意向に関わらず、独立旗艦大淀を離れて陣頭指揮を行う可能性も十分にあった、と考えられるんじゃないかということです。


  12. いたってポイントは単純だと思います。「連合艦隊旗艦トシテハ大淀ヲ充当スルモ差当タリ武蔵ヲ使用ス(連合艦隊ト打合セ済)」とあるのは、この時点ではまだ大淀をGF旗艦とする改造工事(横須賀工廠で3/6〜3/31)が行われていなかった為、それまでは暫定的に武蔵をGF旗艦として使いますよ、という意味だと思います。つまり新しい編制ではあくまでGF旗艦は大淀で、武蔵は第1戦隊に属する1戦艦に過ぎないはずですが、現実には編制変えには間に合わないのでそれを断っただけでしょう。


  13. ただし、これも古賀長官の遭難とそれに続く1ヶ月のGF司令部不在、武蔵の被雷といった予想外の事態で大混乱を招くわけですが、豊田中将が5/3に大淀に将旗を掲げた時点で、武蔵とGF司令部の縁は切れたと見るのが妥当だと思います。


  14. 最後に私の言いたい事を簡単にまとめると、大和が第1戦隊旗艦、そしてパラワン沖で第2艦隊旗艦となったのは深い意味がある訳ではなく単なる「成り行き」ではないか?という「気がする(^^;」という事です。


  15. (↑訂正)豊田「大将」でした。


  16. 確かに。偶然と成り行きかもしれない所をほじくり返してしまいました。でも何で栗田長官は武蔵へ向けて泳がなかったんだろう?


  17. ミスって、質問の欄に回答を書いた張本人です。この話、大海、GF司令部、2F司令部、1S司令部、さらには個艦の状況など、様々な要因が絡んでますので、簡単に論じられない部分もありますよね。大体、軍令部ではGF司令部廃止まで考えたなんてこともあったりして、旗艦をどうするかという問題に関して、そこまで考える必要があるわけですから。武蔵がGF司令部用に確保されていたとする話は、大淀の改造完了を持って消えたと私は見ます。ただ、単純に「成り行き」だけで栗田中将の将旗が大和に移されたかといわれたら、それは(確かこの件は)小柳参謀長の手記(だと思う。だとすれば「栗田艦隊」)にあるように「予定の行動」と私は見ます。


  18. [どこかの雑誌で旗艦を愛宕に置いたこと栗田司令部の戦意の低さとして批判した記述がありましたが実際には事情が違ったようです。


  19. (250字の制限も厳しいし、こういうのって掲示板のほうが良いと思うのですがねえ。また失敗してしまった。) んで、↑の件ですが、確か2F司令部では指揮統率上(艦隊の隊員の士気など)の観点からの考察をした上で、2F旗艦に武蔵を希望したかのような記憶を持っております。


  20. また、これまたおぼろげな記憶ですが、あ号作戦直後、多分第二艦隊がリンガに進出する直前の話だと思うのですが、宇垣第一戦隊司令官も2F旗艦を大和なり武蔵にすべき意見をもっていたような話を聞いた気がしますが、これも戦史叢書に載っている話だったかもしれません(どなたかご確認を)。


  21. と、言われてまた確認して見ると、確かに載ってるんですよね。よく記憶されてますね。参ったな。BUN


  22. (久々ですが)↑いえいえ、とんでもないです。私も、それが載っている
    戦史叢書をようやくて元に置けるようになりました(大本営海軍部・連合
    艦隊の全七冊を一挙に入手しました)。
    今泉 淳


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