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89 旧日本軍が行なった重慶爆撃は無差別爆撃なのですか?そしてこれが無差別爆撃の先鞭をつけたとは本当ですか?

  1. 市民を巻き込む被害を出した空襲ではありますが無差別ではありません。WWTから行われていた都市爆撃の一例に過ぎないと思います。戦略爆撃はミッチェル等が唱えた当時の理論を正直に実行すると重慶への全面毒ガス攻撃になってしまう程徹底した皆殺し理論なのです。陸軍の爆撃機はその為の装備を研究していましたが、九六式では実力的にも無差別爆撃には無理があります。BUN


  2. うーん、やっぱりほんまもんの無差別爆撃っていうのは、英空軍ボマーコマンドが世界初でしょうなあ。ゲルニカとか、ロンドンブリッツとかでも、照準が無差別(それだけの精度が出せない)というだけであって、目標そのものを無差別にしてるわけじゃない、狙いきれないから結果として無差別・・・この線引きは非常に微妙ですけども。感情的反戦主義なヒトには一緒に見えるでしょうねえ。日本海軍の場合においてもそうです。そもそも中攻は洋上はるかに敵艦隊に攻撃をかけるべき(しかも雷撃を以って)機種であって、都市爆撃に向いた機体ではない。照準器も旧式なゲルツ式。狙ってやった無差別ではなくて、無差別にせざるを得ないわけですから、思想としては全くWWTの都市爆撃から脱却していません。(まなかじ)


  3. この重慶無差別爆撃説というのは朝日ジャーナル連載でその後単行本化された「戦略爆撃の思想」あたりが源なんでしょうかね。BUN


  4. ちょっと補足。都市爆撃と無差別爆撃の違いは、都市爆撃は仕方なしにしぶしぶやっているということ、無差別爆撃は始めからそれを目的に狙ってやっていること、に差があります。都市爆撃は、本来ならば戦略目標を爆撃で撃砕したいのに、それができない(爆撃機の不足、機材性能の不足その他もろもろ)ので、せめて爆弾でもばら撒いて、市民を恐怖せしめ、厭戦気分を盛りたてようという、半ば心理戦のようなものです。共産主義国が得意としたPoー2での夜間嫌がらせ襲撃と、規模こそ違いますが思いつきは一緒です。対して無差別爆撃というのは、住民もろとも敵国首都〔主要都市〕を焼き払おうとするもので、WWU前に世界の空軍軍人を魅了したドゥーエ学派の理想とする戦争形式でした。ドゥーエやその信奉者たちは、これを開戦劈頭に実行して一挙に勝敗を決するべきだと論じていましたが、これを実行し得るだけの爆撃機戦力を戦前に整備できた国はなく、結局初め受身であった英国、あとから入ってきた米国のみがそれだけの空軍力を整備し、その戦略的条件から、まず日独の戦力を減殺するという方向で、戦略爆撃のスタートとなり、無差別爆撃もまず工業都市に向けられていった


  5. 私の他に理論の側から戦略爆撃を見てくれる人が出てきてくれたなあ、心強いです。BUN


  6. デタラメっていうか、無差別爆撃という言葉の使い方が(Q.89で皆さんが説明に使っている使い方と)全然違うって事でしょう。Q.89で説明されている様な爆撃は「都市爆撃」と「無差別爆撃」ではなく「都市爆撃」と「戦略爆撃」と言った方がわかりやすいと思う。(N)


  7. おっと↑は Q.90 に付けるつもりが間違えました。(N)


  8.  一九三九年の重慶爆撃は無差別爆撃ではありませんが、一九四〇年の重慶爆撃は無差別爆撃です。

     海軍航空隊の指揮官として、重慶爆撃に参加した巌谷二三男氏の証言
    「 [一九四〇年]六月上旬頃までの爆撃は、もっぱら飛行場と軍事施設に向けられていたが、重慶市街にも相当数の対空砲台があり、そのため味方の被害も増大する状況となったので、作戦指導部は遂に市街地域の徹底した爆撃を決意した。すなわち市街東端から順次A、B、C、D、E地区に区分して、地区別に絨毯爆撃をかけることになった。」
    「 建物が石材や土などでできている中国の街は、一般に火災は起こしにくかったのであったが、重慶の場合はよく火災の起こるのが機上から見えた。これは市街中央部の高いところは、水利の便が悪かったのであろう。また使用爆弾も、戦艦主砲弾(四〇センチ砲弾)を爆弾に改造した八〇〇キロ爆弾から、二五〇キロ、六〇キロの陸用爆弾、焼夷弾などをこのごも使用した。」
    「六月中旬以降の陸攻隊は連日、稼働全兵力をあげて重慶に攻撃を集中した。その都度偵察写真が描き出す重慶市街の様子は、次第に変わり、悲惨な廃墟と化していくように見えた。何しろ殆ど毎日、五十数トンから百余トンの爆弾が、家屋の密集した地域を潰していったのだから、市街はおそらく瓦れきと砂塵の堆積となっていったことだろう。」
    「 ことに[八月]二十日の空襲は陸攻九〇機、陸軍九七重爆十八機、合わせて百八機という大編隊の同時攻撃で、これまた一連空が漢口からする最後の重慶攻撃となった。
     この日、爆撃後の重慶市街は各所から火災が起こり、黒煙はもうもうと天に沖し、数十海里の遠方からもこの火煙が認められた。」
    (巌谷二三男 「海軍陸上攻撃機」朝日ソノラマ)

     陸軍航空隊独立第一八中隊(司令部偵察飛行隊)の一員として重慶爆撃に参加した、河内山譲氏の証言
    「五月末迄2連空は夜間爆撃を主としていたが、途中で1連空と共に昼間に切換え、目標も重慶の軍事施設だけを選別していたのを改め、市街地をA・B・C・D・E地区に区分した徹底的な絨毯爆撃に変更した。」
    (河内山 譲 「司令部偵察飛行隊 空から見た日中戦史」叢文社 P一六五)

    「[一九四〇年]七月下旬漢口に進出した零戦隊の飛行隊長横山大尉は十月頃のある日(期日は明らかでないが十月中と思われる)命により重慶爆撃の効果確認のため、単機重慶の低空偵察を結構したがその時の重慶市街は文字通り廃墟と化し、惨憺たる光景を呈していた。」
    (「日本海軍航空史 4戦史篇」日本海軍航空史編纂委員会編 時事通信社 P五六九)

     絨毯爆撃=無差別爆撃ととる限り、一九四〇年の重慶爆撃は無差別爆撃であったと言わざるを得ません。
     しかしながら、重慶への無差別爆撃は、ドイツ、イギリスの無差別爆撃と殆ど同時期なので、無差別爆撃の先鞭を付けたとはいえないと思われます。

     
    +α


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