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198 旧い話で恐縮ですが、歴史群像37号記事「小澤冶三郎とマリアナ沖海戦」の文中
(p.40)第一機動艦隊の燃料補給に「精製重油」を使用せず「ボルネオ原油」
を使用した。と書かれているのですが、艦の燃料に「原油」を使用して何か問題
は無かったのでしょうか?又、何故、産油地帯でもある(当然精製施設もある筈の)蘭印に近いタウイタウイ泊地に居ながら「原油」を使わなければならなかったのでしょうか?(施設が爆撃でも受けたのでしょうか?)どなたか御存知の方
御教授お願いします。
錦大帝

  1. う〜ん、どうなんでしょう。「戦史叢書」ではパリックパパンからタウ
    イタウイに進出したタンカーの積み荷は「重油」としか書いていないの
    ですが・・

    ちなみに、南方全体で精製された重油は、昭和18、19年度共に1万
    5千バレル程度であり、特にボルネオの施設が損害を被った事は無い様
    です。
    また、内地に送還した原油および石油製品の量は、昭和19年にはかな
    り少なくなっているので。現地精油所(パリックパパン等)の石油タン
    クには精製された重油が結構あったと思うのですが。
    takukou

  2. >艦の燃料に「原油」を使用して何か問題は無かったのでしょうか?
     ボルネオ産の原油はそのまま艦船用としても使えたそうです。つまり、それだけ重質だったようです。しかし、原油は原油ですから、揮発性成分その他が含まれており、取り扱いには注意が必要だったようです。効率が悪いといわれるのも、この混ざりものが原因かと。

    >何故、産油地帯でもある(当然精製施設もある筈の)蘭印に近いタウイタウイ泊地に居ながら「原油」を使わなければならなかったのでしょうか?
     早い話、陸海軍の縄張り争いだったようです。南方石油の産出地域のうち、陸軍が全生産量の約85%を担う地域と主要な精製施設の多くを握っていて、しかも海軍への融通を断固として拒否したそうです。
     この辺の事情は光人社NF文庫の「石油技術者達の太平洋戦争」が参考になると思います。

    tomo

  3. 多分、この話(原油を使った)というのは「ニミッツの太平洋海戦史」
    あたりからの引用と思われますが。実体としては不明です。
    パリクパパンでは精油所が稼働しており、昭和19年には既に内地への
    還送が滞っており、原油や石油製品を燃やしていた(石油技術者達の太
    平洋戦争にも記述がありますね)事からも、補給には精製重油を用いた
    と思うのですが?
    ちなみに、昭和18年にはボルネオ産石油の75%がソロモン方面に用
    いられ、昭和19年には40%がマリアナに用いられたそうであります。
    また、パレンバンで精製された石油の40%は艦隊向けであったらしい
    です。
    takukou

  4. また、「重質」である。という事ですが、当然コールタールやアスファルト
    等の成分も多くなるので、(使ったとすれば)その辺が問題になったのだと
    思われます(普通の原油では約55%程度が重油分であります)。
    takukou

  5. ↑2>海軍への融通を断固として拒否したそうです。
     すいません。間違っていました。takukouさんの仰るとおりです。海軍向けの供給には船腹割り当てが決まっていて、それ以上の融通を、緊急時でも拒んだそうです。

     戦時の、特に海戦の際の燃料消費量は馬鹿にならないそうで、海軍向けの精製燃料が不足して、仕方なく精製前の原油を使ったということはないでしょうか。19年2月には空襲でタンカーがごっそりと沈められていますし、米潜水艦のせいであまり訓練ができなかったとはいえ、あれだけの艦隊が集結していたのですから。もともと、開戦後の艦隊での燃料事情は相当悪く、「開戦後1年足らずにして、すでに石油供給の大半を陸軍に嘆願するという苦しい立場」であったと前掲書にもあります。トラックで大和から駆逐艦へ給油した話は有名ですね。
     それと、油を燃していたのはパレンバンでの話ではなかったかと。
    tomo

  6. 陸軍地域と海軍地域を定めた時に海軍側は石油の事が頭になくて、軍令部側が海軍省の軍需局に何の相談もなく決めてしまった、というのが石油問題における海軍側の敗因だという話を読んだことがあります。油田そのものだけでなく、製油施設も陸軍側がパレンバン始め多くの施設を握ったのに対して海軍はバリクパパン1ヶ所のみ。
    南方原油の大きな問題の一つは、現地製油に対してタンカーの船腹不足から還送が
    ままならなかった点で、第1優先の航空ガソリン、第2優先の海軍用重油以外は還送を諦めて焼却処分されたとされる事から考えると、タウイタウイで補給された燃料がどこから送られた物かは保留として、燃料そのものは原油ではなく重油であった可能性が強いと思うのですが、よくわかりません。
    それから原因はわかりませんが、昭和19年には前年に比べて原油生産量、現地製油量が共に激減していますが、特に海軍地域での落ち込みが目立ちます。

          海軍地域原油生産量(製油量) 陸軍地域原油生産量(製油量)
    昭和18年 121.6万リットル(120.0万)  622.3万リットル(486.3万)
    昭和19年 63.6万リットル(50.0万)   433.8万リットル(400.0万)
     
    舞弥

  7. ちなみに、南方地域での原油生産量と内地への還送量は以下の通りになります。
          生産量   精製量   還送量   喪失量
    1942 25.927 13.870 10.524 1.533
    1943 49.626 28.398 14.500 6.728
    1944 39.916 26.845 4.975 8.096
    単位1.000バレル 年度は会計年度(4月〜翌年3月まで)

    また、精製した製品の量は以下の通りです。
        航空ガソリン 自動車ガソリン  灯油  軽油 潤滑油  重油
    1942   2.937    5.411     1.120  233  301  6.963
    1943   5.411    3.653     1.312  572  587  15.013
    1944   5.526    2.656     1.201  674  798  14.466
    単位1.000バレル 年度は会計年度(4月〜翌年3月まで)
    上の精製量と合いませんが、足りない分はコールタール等と思います。

    ちなみに旧海軍では「主力決戦」には50万キロリットル(約350万バレル
    )必要と考えていたようなので、陸軍が重油を殆ど使わない事からまず充分な
    量を確保していると思われ。また、上記の喪失量には現地で使った原油も含ま
    れる様ですが、数量的には僅かと考えられます。

    ただ、私も「絶対に」原油を燃料として使わなかったと主張するつもりはなく、
    あくまでも戦史叢書と状況証拠からの推定ですので、燃料史とかには書いてあ
    れば手を上げます(^^;;

    また、原油や製品を燃やしていた、あるいは地下に還元していたのは南方では
    何処でも行っていた様です。
    あと、マリアナやレイテでの「燃料事情」の悪さは油そのものよりタンカー事
    情だと思います。理由は御指摘の通りです。

    今日はちょっと体調不良なんで、この辺で勘弁してください。
    takukou

  8. 表の数値がずれてしまいました。すんません。
    takukou

  9. >6 補足
    昭和19年に生産および精製量が減っているのは、特に同年後半以降
    内地に還送する事が困難になった為です。
    takukou

  10. 再補足(^^;;
    パリックパパンは19年の7月に爆撃で結構な被害を受けてます。

    takukou

  11. おお!皆さんありがとう…特にTakuKou様、体調不良なのに申し訳ありません。
    Tomo様やはり原油は艦隊燃料として使えたのですね。
    Takukou様、舞弥様、と言う事はこの問題は太平洋戦史の「謎」なのでしょうか?
    それと、件の本は「石油技術者達の太平洋戦争」ですね?大変興味深いですね。
    今度探してみようと思います。



  12. いや、「謎」では無いと認識しています。

    実は「ニミッツ〜」の記述の事で、機関専門の方の意見を伺った事が
    あるのですが。「ニミッツを呼んでこい」と仰ってました(^^;;
    takukou

  13.  皆様、本当に大変有難うございました。
    でも、この話題を仲間に話しても、あんまり信用してくれませんでした。
    (…そんなに、「荒唐無稽」でしょうかねえ?。) 
    錦大帝


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