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217  戊辰戦争で東北諸藩が敗れた理由の一つに、よく火器が劣悪だったことが挙げられています。
 しかし、史料を検討すると、ミニエー銃クラスの装備が普通であって、新政府軍とそれほど大きな差はなかったように思います(あえて、火器の差があったとすれば大砲のような大型火器だったと言えます)。
 私は、火器の差よりも戦術の差が勝敗に繋がったと思います。東北には新政府軍に比べて戦術に長じた人物が少なかったことが、戦闘面での主な敗因だったのではないでしょうか。皆様のご見解を賜りたく存じます。
高橋

  1. 戦術面よりも、戦争自体の推移を見て行けば、最初から勝てる戦争ではないことが納得できることも多いのではありませんか。
    BUN

  2. すいません、本当に未熟な意見なのですが西洋戦術の経験というものもあったのではないでしょうか。少なくとも薩摩藩や長州藩は外国との戦争を通じて西洋戦術を身をもって経験しているわけです。それに比べて東北諸藩は西洋戦術の研究はしても体験はしたことがない.(あっても長州征伐や鳥羽,伏見の時でそれを活かす時間がない)実体験と机上論,この差は大きいと思うのですがいかがなものでしょう。

    畝傍

  3. 洋式兵術の経験と言う点では有意な差は無かったと見てもいいのではないでしょうか。西欧式の戦術理論についてはこの時点では、まばらながらも、ほぼ全国的に20年以上の蓄積があり、海軍軍備に対して、安価で容易な陸戦の演習は好まれる傾向にありましたので、諸藩連合の官軍に対して戦術面で致命的な程に大きく劣るというようなことは、やはり無いのではと考えます。それよりも戊辰戦争が全面戦争、あるいは総力戦、国民戦争としての性格を持っていないことと、戦争そのものの推移に問題を見つけるべきでしょう。
    BUN

  4. え〜、我が秋田藩は奥羽越列藩同盟を裏切って戦争してるんですが、その相手は
    庄内藩(今の山形県酒田市・鶴岡市周辺)なんかです。で、様子を資料で見るに、
    庄内藩は洋式の装備、戦法(笛での進退主体)、軍装ですが。秋田藩は刀、槍、火
    縄銃主体の装備で、戦法も陣鐘、陣貝、陣太鼓を用いる旧来の(関ヶ原と同様な)
    戦法を用いており、洋式銃と笛を用いる戦法を使ったのはごく僅かな部隊に過ぎな
    いようです(これとて、薩長や肥後の援軍の指導?)。
    従って、奥羽東北諸藩だからといって洋式の装備・戦法を用いていない。と言うわ
    けではないのです。

    また、洋式対和式(^^)の評価ですが、戦意なども影響するので一概には言えない
    と思います。
    ただ、秋田藩での戦いにおいては我が秋田軍は負けまくっているのは否定出来ませ
    ん。西南諸藩の援軍がなければボロ負けだったでしょう・・
    tackow

  5. 戦術については「庄内藩は上方で洋式戦術〜」とか書いてるんで、戦術につい
    ては一応フィードバックがあったと思われます。

    大型の火砲ですが、確かに佐賀から秋田藩に持ち込んだ大砲が威力を発揮した、
    という記録もありますけれども。個々の戦闘はともかくとして、それだけが戦争の帰趨を決した訳ではないでしょう。

    やはり、全体の流れ。でしょうか。
    tackow

  6. 当時の記録を見てみますと、特に列藩側は諸藩の連繋が上手く機能していません。多くの戦闘で列藩軍が勝利を収めそうな局面がありましたが、後続や擁護がなく結果的に敗退しています(一部の藩や部隊のみ積極的に参加し突出してしまっていた)。
    西洋式の戦術を理解していたことと実践できるかどうかは、やはり別物だったのでしょう。列藩側には、武装面でもかなり充実していた藩や部隊も存在していましたし、ロシアや旧幕府から購入した大砲なども実戦に投入していたようです。それでも敗れているのですからね・・。
    高橋

  7. 列藩側は会津・米沢・仙台など主力が旧式装備だったのに対し、
    新政府側は薩摩・長州・土佐・佐賀の主力4藩が最新装備だった。

    庄内や長岡がミニエー銃でもねえ・・・
    くらま

  8. ああ、tackowさん、地元ですものね・・・。
    基本的にあの戦争は、装備の差や、戦術云々はあまり重要な要因ではなく、戦争全体として、負ける戦争を戦ったから負けた、というのが常識的な見方ではないでしょうか。詳細は関連図書に当たれば理解できると思います。
    BUN

  9. すっごい細かい事なんですけれども、資料によれば洋式軍装の戦術上での優位
    点は、鎧兜に比べて沼沢地での移動が迅速に行える事があった様です。

    >8 
    そうなんですよ。以前は結構嵌ってたんで、戦場跡や史跡、西南諸藩士の墓な
    んかを巡ったりしたものでした・・他の県の事はさっぱりですけどネ。

    以下、余談
    「国民戦争」の側面を持っていないのは事実なんですが、数年前に戊辰戦争の
    シンポジュームが角館つう町でありまして。萩市長と会津若松市長が来訪され
    たのですが「仲の悪さ」が印象的でした。なんでも10年ほど前に「会津若松
    市と友好関係を結ぼう」とか言った方が相当に批判されて市長選で落っこちた
    とか・・

    その割に我が県は領地の2/3が戦乱に巻き込まれた割にはのんびりしてるっ
    ていうか・・県民性なんかな?
    tackow


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