QQCCMMVVGGTT
354 30年以上前に書かれた戦史なんて今じゃ価値が無いんでしょうか。

モーニング息子

  1. 自己フォロー、補足。

    近年、戦史訳本「第二次世界大戦上・下」(リデル・ハート 中央公論社)
    が出たけれども、この本のはしがきによれば原著者リデル・ハートは
    アジア情勢に疎くて特に真珠湾攻撃の記述はカナリ不正確だそうです。

    また、「ノモンハン」(五味川純平 文春文庫)についても、
    日本の戦車はソ連戦車を撃ち抜けなかったなどという彼の説はソ連側の史料公開
    により今日では誤りであったことがはっきりしていると聞いたことがあります。
    司馬遼太郎の書いた日露戦争やノモンハン事変も彼個人の独断が多いそうで。

    モーニング息子

  2. リデル・ハートと一般の戦記を一緒にしてはいけません。リデル・ハートはその人自身が戦史の一部みたいなものですよ。
    更に文学作品と戦史を一緒にしてもいけません。文学作品は事実関係が正しくなくともそれ自体で評価され得るものですが、戦史は不正確であれば価値がありません。
    有名な軍事思想家が書き残した著作と、味わって読めば良い文学作品と、正確さが問われる戦史の区別をつける所から始めましょう。

    そして「30年も前の戦記本を当てにするな」とは当たり前の事で、それからの30年間何ひとつ新事実が明らかにならなかった、と言うような事は無いのですから30年前に書かれたものが不正確さと認識の誤りを含んでいるのは当然のことでしょう。
    BUN

  3. 戦後10年目に執筆された故伊東正徳氏の「連合艦隊の最後」は大好きなんですが、これは大和級の建造計画が間違っていたりして当てにならいといったら失礼ですが少々信憑性に欠けるのは否めませんね。
    銃後郎

  4.  「戦記文学」であれば、史実の確かさと文学的評価は別問題(無関係と言っているわけではない)なので、
    書かれた後で史実の間違いが分かったとしても、文学的価値はその理由だけでなくなりません。
    それを言ったら、最初から史実とは違うことを描いている時代小説なんか、価値がないことになりかねません。
     また、当事者が残した一次資料でしたら、例えそれを覆すような他の一次資料や推論が後から書かれたとしても、
    一次資料としての価値は残ります。
    極端な話、ウソで固められた回想でも、なぜ嘘を書き残したかという分析の種子になります。
    歴史研究においては、資料の古い新しいは、価値の大小とは別の問題です。
     一次資料を元に書かれた戦史となると、確かのその後の資料発掘や研究の進展で、大幅に価値が低下してしまうものもあるのはさけられないでしょう。
     と言うことで、30年前の戦史が価値があるかどうかは、あくまでも内容によって決まるもので、年数で決まるものではありません。

    便利少尉

  5. 自分が語った言葉が一人歩きをして恐縮ですが、古い分析はその分、注意して検討しなければリスクが大きいということなんです。建前はどうであれ、誤解の元になるのは事実なのですから迷惑な話です。しかしパウル・カレルの一連の著書は30代以上の歴戦のファンの懐旧アイテム(本当は出版が嬉しかったりしますが)と思っていましたが、意外に若い方が読んでいるんですね。
    BUN

  6. 戦史だけでなく政治外交史等も含め、著者が書いた当時どのような一次資料を入手できたのか、ということを考えるのが必要だと思います。例えば、聞き取りを行った兵士たちの証言に彼等の立場、考え方に基づくバイアスがどの程度含まれているか、その証言と食い違う一次資料が入手できたのかなど。
    外交資料等の公文書だって半世紀前のものがようやく解禁される状態で、しかも全部公開されているという保障は全くない。30年前となれば、ソ連側の内部資料や兵士の生々しい証言なんて入手するのは相当困難だったでしょう。まだ生存者がいるような最近の歴史を大量のデータを用いて詳細に書く作業は、データの入手・相互比較検討自体が大変な労力を必要とする。また、細かいデータに気を取られ、木を見て森を見ないことが無いようにしなくてはならない。
    その著者がどのような視点、考え方でから書いているのか、政府出版物としての戦史も含め比較しながら読むのは興味深いことだと思うんですけどね。
    アリエフ


Back