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363 連打失敬

バルバロッサ作戦は大変な規模で実施されたわけですが、あれだけの作戦・動員に対し
ソヴィエトがまるっきり無策だとは考えられません。当時ソヴィエトはドイツに対して
どのような軍事ドクトリンを有していたのでしょう? ソ連側からの先制攻撃などは不可能
だったのでしょうか?
まるき

  1. スターリンは独ソ不可侵条約を信じて、ドイツのソ連侵攻をはなっから無いと決めつけていたといいます。ドイツのソ連侵攻を示唆する情報もあったのですが、ほとんど握りつぶされてしまったとか。有名なスパイのゾルゲさんの報告も屑篭行きだったそうですね。
    まさかヒトラーがこんな壮大な(無謀な)二正面作戦を行うとは思わなかったということでしょうか。また大戦直前に陸軍の主力将官を大々的に粛正しちゃっているので、作戦立案能力なんかも最低になったタイミングでドイツに攻め込まれてしまったわけです。
    ドイツの指導者がヒトラーでなければ独ソ戦は起きなかったかもしれませんが、同時にソ連の指導者がスターリンでなければ緒戦であれほどのボロ負けはしなかったかも知れませんね。

    zarya

  2. ロシアは昔からあちこちで内戦が絶えない国で、特にあの時代は共産党政権に
    不満を持つ人間があまりにも多くていつ反乱が起こってもおかしく無かった。
    赤軍大粛清なんてやったのはもう国をあげての猜疑心としか思えないが、
    地方の有力な人材は殺してしまい、代わりにモスクワの言いなりになるだけの
    無能な者を据え置くってのは、ソ連が東欧などで傀儡政権を作るにあたって
    よくやってきたこと。要するに外からの侵略者よりも内乱鎮圧が優先だったのだ。




    毛沢豚

  3. ソ連側の先制攻撃に関して、最近、学研から、本当はスターリンがドイツに対するかなり大規模な侵攻作戦を考えていたのではないかという本が出ている(題名失念)。ソ連崩壊後に出てきた内部文書などを基にして、当時のスターリン政権内部の状況を中心に書いているようだが、私もちらっと見ただけであり、一読されてみては如何。
    確かに、スターリンはドイツが全面侵攻してくることは無いと信じ込んでおり、そのため対応が後手に回ると共に、彼が前線部隊に退却を許さず各個撃破されてしまったこと、それにトハチェフスキーなど有能な将校の粛清が、独ソ戦当初の敗北の原因だろう。しかし、独ソ戦開始以前、ソ連がドイツの拡大を防ぐための限定的な予防戦争のプランを考えていたことは、十分可能性があり、そのために数量的にはドイツを上回る位の大軍をこの方面に配備していたのだろう。
    アリエフ

  4. ↑学研の本とは「欧州戦史シリーズvol.4バルバロッサ作戦」ではないでしょうか。この本の中で説としてスターリンは41年7月6日にドイツを侵攻予定していたとあります。
    クニッケバイン

  5. 開戦当時ソ連が欧州方面に置いていたあの大軍は、対独戦よりは内乱鎮圧だろう。
    毛沢豚

  6. 「独ソ開戦 盟約から破約へ」
     ヴェルナー・マーザー著、守屋純訳、定価3500円。

    と言う本が出ているようです。買ってはいないので感想は申し上げられませんが。
    同じく学研から出ている

    「赤軍大粛清 20世紀最大の謀略」
     ルドルフ・シュトレビンガー著、守屋純訳、2136円。

    と言う本もご参考になるかもしれません。

    便利少尉

  7. 東西に配置されていた大兵力は世界革命を目指した30年代の残骸のようなものです。1935年コミンテルンは第7回世界大会でファシズム・帝国主義に対抗する統一人民戦線の結成を宣言しその活動目標をドイツ・日本などとし、ミハイル・トハチェフスキー元帥は東西国境で兵力の大増員を行います。37年には国境兵力の編成から日本の参謀本部もソ連に侵攻の意志ありと判断しています。しかし大粛正による混乱で赤軍の機能が停止したため36、7年の状態で部隊も機材も放置されています。このあたりの実状はソ連公刊戦史に記載されており、また珍しく反省しています。おかげで装備はノモンハン事件時よりも悪化しています。

    ソ連の軍事ドクトリンは世界革命の実現のためにジェミニ学派の攻勢主義と国土防衛にためにロイド学派の地形主義の2つを基幹としました。ト元帥が指導する赤軍は20年代からラパロ条約や第1次、第2次国防5カ年計画で国境線の防衛体制の確立と軍の近代化を行い、30年代中頃には攻勢主義的な組織が編成され攻防一体の縦深突破戦略が確立されますがト元帥らは粛正され、一部では改善の動きもありましたが全体としては大粛正によって発生した軍事ドクトリンの空白状態は埋められず独ソ開戦となります。
    ふじい

  8. スターリンは対独先制攻撃を考えていたのだと言う話を聞いた事が有ります。
    スターリンはドイツの対英戦の経過やヒトラーからの直接会談の申し入れから1942年まで攻撃は無いと考えていたようです(と、言うよりあって欲しくなかった)。ソ連進行は春で無いと不可能ですがドイツ進行は季節を選びません、だからスターリンはユーゴに工作員を送ったりして41年春の開戦を避けようとしています、前線には「敵の挑発(偵察行動等)に答えるな」とか「敵が攻撃して来たらあらゆる手段を用いて和平の申し込みを行うように」などという命令が送られていたようです。41年の開戦を嫌った理由としては上で皆様が書いておられる通り粛正による指揮官不足が原因だと思います。

    これは僕の想像ですがあしか作戦発動時か42年始め(ソ連攻撃が可能になる前)にドイツを先制奇襲攻撃するつもりだったのだと思います。

    スターリンは我が闘争の内容やヒトラーの共産主義嫌いからして独ソ開戦は避けられないものと考えており、当時の赤軍は先制攻撃を想定した攻撃用の軍隊だった(世界革命の為の軍隊ですからね)ことや、電撃戦を防ぐには先制攻撃しかないと思われた事から41年始めから、対独国境に大規模な兵力集中を行っています(あくまで集中であり戦争準備は行われておらず、この事が損害を大きくした)
    また国境のすぐそば(敵から見える位!?)に飛行場を建設していたと言うのも先制攻撃を想定してのことだと思います。

    早い話がスターリンは自分の計画通りに事が運ぶようにのみ努力を注いでいました、準備不足と言うより認識不足ですね。
    ごまめ


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