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386 明治政府が強引に徴兵制の軍隊を創ったのはなぜでしょう?戊辰戦争を勝ち抜いたタフガイを中心に志願制の軍隊創る方が楽だったんじゃないでしょうか?

  1. こんなこと聞くのは奇兵隊の末路を知ったからです。


  2. 中学教科書から 1873年に徴兵令を定め国民に兵役を義務づけた。
    男子は20歳になると徴兵検査を受け、3年間軍隊に入れられることとなった。
    民衆にとって徴兵は新しい重荷(地租とかが他にもあった)となり、また、働き盛りの青年を軍隊にとられてしまうので困った。そこで民衆は様々な方法を考えて
    何とか徴兵を逃れようとした1876年には全国で徴兵を逃れた逃れた青年が8割もいたこのため政府は何度も徴兵令を改正し1889年国民皆兵となった
    紅葉饅頭

  3. 個々人によっていろんな解釈があるでしょうから、あくまでそのひとつとして。

    明治政府は、君主独裁ではなく、立憲君主制で、つまり限定的ながら民主主義が含まれています。議会、内閣、選挙、公職の世襲が例外的であることなど。
    徳川政府を独裁制というと語弊がありますが、徳川家の「私」が政府としての「公」に重なっていた面はあります。が、明治政府では、天皇家の「私」と「公」はより明確に区別されるようになりました。
    ある家が国を「所有している」ような場合、その家がお金を払って軍事力を維持して国を守ります。
    (こうした制度は現代的な志願制とは分けて考えるほうがいいように思います)。
    が、国民が国を(限定的にせよ)所有している場合、そうはいっていられません。自分たちで少しずつ力を出し合って国を守ることになります。税にしても同様で、庶民感覚は別として、理屈の上では、「お上にとられる」ではなく、「みんなのためにすこしずつ負担する」に変わっているわけですね。
    徴兵制度がイコール民主主義を担保するものではありませんが、その逆はいえて、民主主義は選挙・徴兵・義務教育を原則として必要とします。新政府がモデルにした欧米「先進国」の制度・思想もおおむねこんなところでしょう。

    当然ながら、往時の国際情勢の中、兵隊の数や質についての必要な量と志願で確保できる量の兼ね合い、といった実際的な要求もあったでしょうが、その方面の数字には自信がありませんので、差し控えます。
    なお、関連した過去ログもあったと記憶していますので、ご検索をお勧めします。



    はたの

  4. 徴兵制と言えば、大村益二郎、山県有朋のラインですね。
    おそらくは近代化のため最初は仏蘭西次は独逸の徴兵制を参考にしたのでしょう。
    なぜ志願制にしなかったかは難しいですが財政的に徴兵の方が安上がりだったからでしょう。
    あと民主主義云々についてはあまり関係ないと考えます。大日本帝国憲法より前に全国徴兵の詔は出てますし。
    いおーじま

  5. 上の回答とも重複するが、当時は現在に比べて、軍事力において兵力の規模がより重要な意味を持っていたし、ヨーロッパの列強諸国も徴兵制による大規模な軍隊を持っており、徴兵制などを基盤とする列強の国家システムを模倣したということでしょう。
    この問題について、幕府や藩を通じての士族階級による軍隊を新政府が継承することなく、新たに西欧式の徴兵制による軍隊を造ったのか考える必要がある。全国的な中央集権による徴税、義務教育、徴兵制により統一の取れた軍隊を造る必要があり、旧幕府・藩の分立した指揮命令系統やしがらみを引きずっていたのでは話にならないからだろう。
    ところで西南戦争のとき、明治政府の徴兵制による軍隊は薩摩の士族の軍隊を打ち破っているが、これも圧倒的な兵力と物資の差によるもの。薩摩軍は平民連中の軍隊はど素人の集団だと甘く見ていたようだが、彼らの予想は完全に裏切られている。
    アリエフ

  6. (補足)兵役の義務を課す一方、平民でも志願して試験に合格すれば将校にもなれるようにし、軍の幹部への道を旧士族階級だけ、あるいは戊辰戦争の官軍関係者に制限しなかったことは、能力主義的な考え方があったということだろう(実際は藩閥があったりして完全には徹底されないとしても)。そして、旧幕府出身だろうと、有能ならば軍隊の中である程度立身出世することができた。こうした身分、出身の壁をある程度除去したことにより、国民軍としての方向を志向したということではないでしょうか。
    アリエフ

  7.  絶対兵力数確保以外の目的としては、「武力を独占し、それによって政治的支配力をもつ特権階級」を崩壊させることがあったようです(実際、「武士階級からのみなる軍隊」の構想もあった模様)。もちろんこれには「武士を国費で直接食わせてやる余裕はない」という財政的事情も含みます。
     ただし、明確に「武士階級潰し」を打ち出した形跡はなく、秩禄処分の際の武士向け宣伝(家禄放棄の呼びかけ)に「徴兵制もできて特別な義務を負うこともなくなった人間がただ飯食って恥ずかしくないのか」的な文句が出てくる程度ではあります。
    Schump

  8. 楽か否かという問題ではなく、地球規模の大規模国民軍の時代に
    兵力量の調達のためにも他の選択はあまり現実的ではなかったということがあります。

    また、質問者の疑問の一翼についての回答として熟達者の必要にも理解があり、
    この為に教導団が編成されていて下士官団の中核を担いました。
    (時期は多少前後しますが)
    ということで別に明治新軍が素人の寄せ集めの徴募軍ではないのは自明です。
    軍隊では兵の員数が一番多いですが、これが中核と同一ではありません。

    あと「徴兵と志願兵制」というのは入り口の理論で、兵質は余り差異が出ません。
    それは採用されるのは単に一定年限に達した者であって、
    入隊後一定の教育期間を経て「兵士」となるのであって
    (“未”訓練兵とは通常戦場へは出ない)
    別に生まれながらの戦士・武人という訳ではありませんから。

    その様な点では職業階級制とは対局にありつつも、
    徴兵制/志願兵制とは対等の概念と言うこともできます。

    一般義務兵役制の採用とは、封建制度を克服した「近代国家」の採るべき道ということで
    明治政府は幾度の遣欧視察の後に国民皆兵の考えが共和政体のみならず
    立憲君主制国家一般に広く普及していること、
    王権は封土や階級によって維持されていない現実に触れたことも大きな要因でしょう。

    維新以前は「日本とは自らが藩王とその私兵を囲っていた」即ち“地域”とされてしまって
    列強の“文明化”、再教育の対象とされていてはたまったもんではありません。
    この私兵という概念が形成されて来たのも19世紀中葉ですし

    公戦を闘う正に戦力、中核としての「国民軍」というものの整備は
    新たに欧州公法体制下に自らを置こうとしていた明治国家にとっては
    差ほど難しくない自明であったかも知れません。

    その上で常備兵制を如何にしておくか、ということが実際の争点であったということです。
    一時期、英国式の国制の導入を模索していた際に
    少数の中央常備軍と民兵制について導入のいわば実験が行われていましたが、
    これが日本の軍制にはなりませんでした。

    色々言われていますが、これは日本の置かれていた戦略環境が侵寇来敵が前提の時代に
    兵力量の調達のためにも他の選択はあまり現実的ではなかったと言うことが実際でしょう。

    徴兵制導入の経緯についてはプロイセンのそれと事情が酷似していて
    非常に興味深い比較研究が可能です。
    軍制こそがプロイセンドイツ様式に範を採りましたが、
    しかし底辺を流れている思想にはフランスの影響が実はとても強いです。

    導入当初こそ民主主義云々についての連関は薄いでしょうが、
    間接的に大きな影響があったと私は考えています。

    あと、兵制((常備軍か否か。この場合徴募軍))とか
    軍制、((徴兵制と民兵制が対となる、(大規模)常備軍と民兵軍))、
    兵役義務制等の混同が見られます・・・。
    かっぱ


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