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399 私のところのホームページ書いてて疑問に思ったのですが、
第2次インドシナ戦争中〜後、カンボジア、ベトナムでの戦闘は報道されていたようですが、
ラオスの戦闘について日本では新聞・TVなどで報道されたのでしょうか?
報道されていたとしたらどのように報道されていたのでしょうか?
その当時テレビを見ていた方、ご記憶があればおしえていただきたいのですが。

P-kun

  1. 私、若いんであんまり覚えていないのですが「パテト・ラオ」等と言う単語は毎日のように飛び交っておりました、と、ええと、父は言っております。
    BUN

  2.  私も当時子供でしたが(ええい、未成年はみんな子供だ)、
    プーマ殿下とか、スファヌボン殿下とか、ラオス王族の名前がよく登場していたようです。
    どちらかが共産側に身を投じて、「赤い殿下」と呼ばれていたようだが、どっちだっけか?
     それよりも、いまの人はみな知っているけど、当時ほとんど報道されなかったのは、
    南でアメリカ軍・南ベトナム政府軍と戦っているのは、実は北ベトナムの正規軍だ、という事実でした。
    当時は、南ベトナム民族解放戦線という南独自の組織だと、日本のマスコミでは報道されていたと思います。


    便利少尉

  3. ラオスの歴史のページ
    http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/preparation/scrap/report/history.htm
    http://www.eastedge.com/laos/history.html

    戦後ラオスの歴史はベトナムと似てます。日本敗戦をきっかけに独立。フランスが再び侵攻し植民地に逆戻り。フランス傀儡政権のもとで独立。民族主義者+共産主義者が連合戦線を組んでこれと対立。フランスの代わりにアメリカが支援。民族主義+共産主義側では共産主義勢力の影響力が強まる。こんな形です。

    ラオス内戦の特徴は、王権内部の権力闘争から民族主義+共産主義側(当初はラオ・イサラ、のちにパテト・ラオ)に参加した王族がいたこと。また内戦に参加する勢力が左右の二派に集約されず、三つどもえ四どもえとなり対立と合従連衡を続けていたことがあげられます。このため政府側と反政府側の短期間の手打ちの期間が存在し、民族和解政府みたいなものが何度かできています。手打ちの時期に出した中立宣言が有効だったためインドシナ紛争の中では中立あつかいとなっておりました。

    ご指摘のように北ベトナムから南ベトナムの戦場に向かうホーチミンルートは大部分ラオス領内を通っていたのですが、ラオスの中立宣言のために攻撃が封じられた「聖域」となっておりました。1970年の大規模な北爆、1971年の南ベトナム軍を押し立ててのラオス領内への侵攻は、ともに国際的にはたいへん不評で、当時のマスコミ(日本に限らず世界中のメディア)からは中立を踏みにじる悪い奴として厳しく指弾されました。外交戦ではベトナムは終始アメリカに対して優位を保っていました。

    当時のラオス情勢の報道についてですが、西側新聞社、一般誌などはベトナム報道に手一杯であったため、ラオスに常時特派員を置いて発信する体制を取っていたメディアはなかったと思います。例外が左派系の日本電波ニュースで、ラオスからも積極的に情報を発信しておりました。当時の日本のマスメディアのラオス報道は多かれ少なかれ日本電波ニュースの情報に依拠していたと記憶して(いやいやおじいちゃんに聞いて)おります。従ってベトナム側に不利になるようなニュースはあまり報道されなかった傾向があったようです。まあこれもベトナム側の巧妙な宣伝戦略の勝利であったと言えます。



    zarya03


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