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414  終戦の日の1945年8月15日午前、千葉県九十九里浜に近い房総半島の内陸部でイギリス軍の艦載機シーファイアーと迎撃に向かった日本軍戦闘機が空中戦を行い、イギリス軍機1機と日本軍機1機が墜落しました。
 イギリス軍機の搭乗員については名前や階級が判明しているのですが、日本軍機についてははっきりとしません。地元の人は茂原から飛んできた零戦で、搭乗員の名前は「田村」であったと証言しているのですが、その辺の事情について何か情報がありましたらご教示をお願い致します。
 とくに、茂原に飛行場があったのか、また、そこには零戦が配備されていたのか、配備されていた場合の部隊名などご教示をお願いいたします。
TAMAR

  1. 岩本徹三著「零戦撃墜王」の中に茂原の飛行場の話が出てきます。
    今、手元に(我が家に)本が無いので、後は他の方にまかせます。
    ベルゼバブ

  2.  終戦の日、茂原基地にいた252空の零戦隊が敵艦載機の迎撃に出撃しています。最近文庫本になった秦郁彦『8月15日の空』に、252空の空戦についての記述があるはずです。
    ヨリ1328990

  3. ↑件の本を見る限りは、十三期飛行予備学生出身の本間忠彦中尉機が撃墜された
    ことは確実に思われます(本人は生還していますが)。ただし、正確を期すなら
    ば、一次資料を当るべきではあるのかもしれません(秦先生の著作なので、ある
    程度は信用できると思いますが)。搭乗機は、零戦52型丙の可能性が高そうです
    が。

    ちなみに、件の本の文庫化は1995年7月10日です。
    今泉 淳

  4.  色々とありがとうございます。
     地元の人の証言では零戦のパイロットは被弾して即死であったとのこと。茂原の基地の兵士が棺桶をもってきて遺体を収容したとのことで、信憑性がありそうなのですが・・・。ちなみに、一次資料とはどのようなものを当たればよいのでしょうか?
    TAMAR

  5. この方でしょうか。

    杉山 光平 乙飛15期 20年8月15日、千葉上空


  6. 8/15の252空の戦死者、もうお一方。

    岡村 薫 乙飛16期 20年8月15日 千葉

    「田村」に近いのはこちらの方でしょうか。


  7. ↑、↑↑は『海軍戦闘機隊史』(零戦登場員会編)からですが、柳田邦男『零戦燃ゆ』には、茂原二五二空の8月15日の戦死者は、田村薫上飛曹、杉山光平上飛曹、小林清太郎一飛曹の三名とあります。



  8. ありがとうございます。
     ちなみに「海軍戦闘機隊史」とは一般書店で購入可能な本なのでしょうか?
     ご教示お願い致します。
    TAMAR

  9. 『海軍戦闘機隊史』の方にも「小林清太郎」の名ありました。見落としていました。特乙1期の方です。


  10. 『海軍戦闘機隊史』(原書房)は在庫なしです。面白い本なんですが。
    川崎学

  11.  たびたび、ありがとうございます。
     ところで、田村 薫と岡村 薫とは別人なのでしょうか?
     それとも同一人物なのでしょうか?
     後者の場合、どちらが正しいと考えればよいのでしょうか?
     また、「乙飛」と「特乙」はどういう意味なのでしょうか?
     初歩的な質問で恐縮ですが、ご教示のほどを。
    TAMAR

  12.  もうひとつ、「252空」は略さずに表現する場合、「海軍252航空隊」でよいのでしょうか?
    TAMAR

  13. 昭和十七年十一月以降の番号冠称航空隊はそれまでの「第三航空隊」といった呼称から「第二五二海軍航空隊」と番号の後に「海軍」が挟まります。読みは「第ふたごうふた海軍航空隊」が一般的で、また「二五二」を「二百五十二」と書くことはありません。
    BUN

  14. 『海軍戦闘機隊史』(原書房)には、岡村薫と田村薫というお名前が乗って
    いますが、乙16の名簿に”岡村薫”がありませんので後者が正しいと思い
    ます。乙とか特乙とかは予科練の出身期を表しています。乙16期や特乙1期
    であれば、実戦部隊に配属されてから約1年はたっていると思われます。
    川崎学

  15. ありがとうございます。
     8月15日に亡くなられた零戦のパイロットの年齢はいくつぐらいなのでしょうか?
     正確にわかればありがたいのですが・・・。
    TAMAR

  16. 年齢は正確には知りません。推定するならば乙15〜16は20歳前後、
    特乙1だと少し若いかもしれません。同期生でも年齢には差があるので
    正確に調べるのは難しいのでは、と思います。
    川崎学

  17.  茂原の海軍航空基地について。
     茂原基地は現在の茂原駅北方、三井東庄化学の工場を中心とする一帯にありました。この三井東庄化学の東側の直線道路と、この道路の北端でT字型に交差する道路が当時の舗装滑走路(北側の滑走路は当時の舗装面残存)で、田村一飛曹(上飛曹は戦死による昇進と思われます)が8月15日朝に飛び立ったのは恐らく三井東庄化学東側の直線道路からだと思われます。
     滑走路以外にも、基地北方にはコンクリート製掩体壕が10数基残り、そのうちの1基のそばには茂原市によって説明板が立てられています。また、基地北西の丘陵には基地の付属施設としてのトンネルが掘られています。
     機会があったらご案内しますが。
    ヨリ1328990

  18.  ありがとうございます。
     先日、墜落現場へは地元の方々の情報によって行って参りました。零戦の残骸はしばらくは近くにある長南西小学校に置いてあったそうです。
     その後は防空壕にいれられ、埋められてしまったとか。近くまで行きながら不勉強で惜しいことをしました。なお、当方の職場の近くにも大正飛行場の掩体壕が1基だけ残っていますが、風前のともしびです。ちなみに発掘調査でも1基が確認されています。
    TAMAR

  19.  田村1飛曹機が墜落したのは長南だったんですか・・・。私は木更津の出身で茂原基地についても「ご当地」の感覚が強く、また長南についても木更津〜茂原間に位置していて職場の後輩の出身地であることもあって一応の土地鑑があります。近々私も田村1飛曹最後の地を訪れてみようと思います。
    ヨリ1328990

  20.  地番までは分かりませんが、長南の佐坪、字永沼です。西小の近くの道をゴルフ場の方へとはいって行きました。小学生を含んで地元の人はほとんどの方がご存じでした。
    TAMAR


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