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495 ナポレオン戦争の史料を読んでると、フランス軍の分厚く幅狭い陣形をイギリス軍の薄く幅広い陣形が打ち破る場面が繰り返し出てきます。
しかしフランス軍は欧州各地でにたような薄っぺらい陣を散々撃破してきたのでは?イギリス人はどんな魔法をつかったのでしょう?
本村

  1. 戦術というのは、いわば長短槍試合です。どんな布陣にも利点と欠点があり、それを生かしたほうが(基本的には)勝てるわけです。分厚く幅が狭い陣形だから打ち破れない、ということはありません。後ろに回りこまれたり、包囲されやすく、潰走した最前線がすぐ後ろの部隊に突入して大混乱に陥ることだってあるわけですから。
    かすた

  2. 英軍は一斉射撃の錬度が高く、長い横隊は射撃効果を高めるために採用されており、前列・後列が間断なく交代で発射する弾幕は接近してくる敵に恐ろしい打撃を与え士気を阻喪させたというはなしです。平時から丘を越えての横隊の演習が猛烈に繰返され、赤い軍服が細長い隊形をとるさまは、”Thin Red Line”と称され歩兵隊の精華と謳われていました。
    對する仏軍は、錬度不足で、人数ばかし多いので、(なにしろ新兵は入隊してから出征する行軍途上で歩きながら小銃の扱方と射撃を古参兵から教えてもらうほどで)、奥行きのある縦隊を組んで、おみこしのように衆を頼んで、しゃにむに銃剣突撃をしました。横隊に較べて縦隊は射撃正面が狭く、一斉射撃の効果があがらず、敵彈を浴びても損害は僅少な前列が倒れるくらいで、かえって損害が少なくなる利点があります。後からあとから革命精神を充満させ押せ押せで前進してくる何十列もの銃剣縦隊の先端が敵陣に到達すれば、敵は混乱して壊走を始めてしまうので、押し切り勝ちとなったようです。
    しかし英軍は似たような横隊戦術をとる欧州の軍隊にくらべて、射撃と団結力、日頃の訓練の厳しさの点で優れていたようです。のちのクリミア戦争の時代になっても、沈着冷静な英軍歩兵隊の弾幕射撃がロシアの追撃騎兵隊の襲撃を阻止しています。
    あるめ

  3. 常識はずれにタフなある将校と彼の”グリーンジャケット”が英軍に勝利をもたらしたのですよ。(笑)
    MACの求

  4. 回答じゃないのですが、上を見てちょっと思ったこと。
    『囚人部隊誕生!』の竜騎兵部隊はシャープと闘ったりするんですかね(笑)。
    どっちが勝つかなぁ。
    赤星屋

  5. ↑ああいう部隊、ほんとにあったんですかね?英陸軍が刑務所で志願者を募ったというのは聞いたことありますが。
    ネブラスカ

  6. NAPOLEONというページで読んだんですが、ナポレオンの部下にはとんでもない経歴を誇る人が多いですね。元帥クラスでこれだから、下級将校ならそれこそ・・・。
    ネブラスカ

  7. 集横隊射撃で火力を集中できるイギリス軍といえども手痛い敗北を喫したでしょう。また、1805年のオーストリア軍、1806年のプロシア軍などは密集横隊で散兵戦術に対抗していたのに対して、1815年のイギリス軍はある程度の軽歩兵部隊を有していたことも勝敗の差に影響してきます。加えて、1813年以降のフランス軍は人的資源枯渇状態にあったのに対し、プロシア軍やオーストリア軍はランドヴェーア(後備兵)の導入によって数的な差を縮めることに成功していました。
    アクスブリッジ

  8.  すいません、一部切れてしまいました。

     ウェリントンの戦術を分析するならば、主力を稜線の背後に配置して欧州随一のフランス砲兵の射撃を避けていた点も見逃せません。完全な開豁地で戦った場合、いかに2列密集横隊射撃で火力を集中できるイギリス軍といえども手痛い敗北を喫したでしょう。また、1805年のオーストリア軍、1806年のプロシア軍などは密集横隊で散兵戦術に対抗していたのに対して、1815年のイギリス軍はある程度の軽歩兵部隊を有していたことも勝敗の差に影響してきます。加えて、1813年以降のフランス軍は人的資源枯渇状態にあったのに対し、プロシア軍やオーストリア軍はランドヴェーア(後備兵)の導入によって数的な差を縮めることに成功していました。
    アクスブリッジ

  9.  ナポレオンがなぜ勝利し、なぜ敗北したかは、一言でかたづけられるものではなく、勝利も敗北も数々の無数のさまざまな要因の総合的な結果です。
     その中で、縦陣(column)と横陣(line)の戦術そのもの違いは、ナポレオンの勝敗にまったく影響はないとはいえないかもしれませんが、それほど決定的に重要な要因ではなかったかもしれません。

     ナポレオンが勝てた数ある要因の中で多くの史家たちは市民革命を第一にあげており、これはしばしばナポレオン個人の軍事的才能よりもさらに重視されています。
     ナポレオン自身が完全に意識していたかは疑問ですが、他の革命軍の指揮者と違ってナポレオンは市民革命の軍隊の性質というものを、うまく利用する能力がありました。
     ヨーロッパの他国のアンシャン=レジームの軍隊はもちろん市民革命の利点は利用できないわけですから、ナポレオンに対してはどうしても後手をとることになります。
     この点において、イギリスの市民革命がいつおきたのかを考えれば、イギリス軍がなぜ強かったのかの考察の一助にはなるかもしれません。


     また戦術面に言及すると、英軍との半島戦争の印象のため、一部の史家は一般のフランス軍の攻撃は分厚い縦陣であったと言っています。しかし、現実にはフランス軍は行進には縦陣をつかい、通常戦闘時には横陣をつかっていたようです。いくらかの誤解のもとは縦陣という言葉そのものにあります。縦陣には二種類あって、行軍のための縦陣は正面の狭い長々とした隊形ですが、戦闘時の縦陣はその縦の列よりも横の列の方がずっと長い長方形の形をしていました。ただし、地形が隊形の展開を許さない場合(山岳地、道路上の戦闘、包囲戦など)には行軍の縦陣がそのまま攻撃につかわれました。
     しかし、フランスが使用していた横陣も訓練度の低下のせいで、1807年以後は縦陣を普通に使うようになったようです。


     隊列が一端動き出すと、その隊列がすばやく敵に肉薄できるかどうかの成否は味方の砲兵や散兵の適切な準備射撃ににかかっており、隊列が一度動き出すと、それ自身は火力を発揮することはほとんどないかまったくなかったようです。
     縦陣はもともとそれ単独として機能するのではなく、複雑な戦術組織がいろいろと合わさったなかの一部であり、十分に機能させるためには常に散兵や砲兵などとの協調が必要でした。
     しかし、1807年から後ではフランスの散兵や砲兵はその仕事を十分に果たせるだけの力を持たなくなっていました。 

     また、多くの史家たちは、ワーテルローのフランス軍の隊形は攻撃のための隊形ではなく、もっと小さな縦陣か、もしくは横陣に変更しようとしたのをイギリスの火力が妨げたとみなしているそうです。


    参考文献
     Gunter E.Rothenberg,The Art of Warfare in the Age of Napoleon,Indiana University Press,1978
    celetaro

  10. 縦陣は、横隊となった小隊が梯子状に積層した中隊縦隊が、さらに縦に積層して大隊縦隊を組み、縦長の長方形の方陣を形成するので、基本的には分列行進用ないし戦場における隊形変換機動用の隊形ですが、これを革命当時の士気旺盛なれど訓練未熟の歩兵隊が敵前での複雑な隊形変換運動を避けて(高度な訓練を必要とするので、下手にやると陣形が崩れて敵につけいられ壊走の惧れがある)、縦隊そのままで突撃に応用したと考えております。(例:ツ−ロン攻略戦における歩兵突撃)
    celetaroさまご指摘のとおり、ナポレオン大陸軍(グランダルメ)の強さは、むしろ砲兵の機動集中砲火や師團制度導入による分進合撃などの新戦術によるものと大きく考えた方が納得できるようです。
    あるめ

  11. >9その”散兵”というのがよくわかりません。詳しく教えていただけませんか?
    赤頭

  12.  散兵(Skirmsher)
     ナポレオンの時代を扱った一部の書籍では斥候と訳されているものも見受けられますが、この文脈でのSkirmisherは、散兵と訳すのが適切だとおもいます。

     ここでの散兵とは密集した隊列を組まず、ひろく散開して戦う軽歩兵のことです。

     革命戦役においてフランス軍の志願兵や徴集兵は訓練を欠いており、それまでのマニュアル通りに戦うことができませんでした。そのため彼らは散兵戦術を採用します。
    散兵は隊列を組んだ味方歩兵の前方に散開し、覆い隠すように味方の隊列を敵から遮蔽します。散兵は、敵に戦術における適切なタイミングを判断することを難しくし、また敵の部隊の展開を妨げました。


     散兵はたとえば次のように使用されました。
     まず、兵士達は、攻撃縦陣とは区別される行軍縦陣によって射程にはいるまで前進し、そして広く散開して、生垣や溝などを遮蔽物にしながら敵を攻撃します。
     散兵の火力が敵を混乱させたあと、それまで火力の射程範囲外に控置され密集した隊列を組んでいた多数の兵士たちがすばやく敵に向かって突撃します。
     この準備射撃と革命軍の前進のすばやい速度は、旧式の軍隊を大いに悩ませました。

     散兵もまた他の兵種との協調が必要であり、騎兵や砲兵の援護がなければ敵の反撃に対して脆弱であったようです。


     整然と密集した隊列を組み、厳格な命令のもとに戦う従属的な兵たちと違って、散兵には兵卒の自主性とやる気が大切になります。市民革命によって、フランスの兵卒は国家の主体である国民によって構成されるようになり、散兵は有力な兵種となりました。
     アンシャン=レジームの兵卒にはそのような気質は少なく、散兵はフランス軍ほど効果的には機能しませんでした。

     オーストリア軍やプロシア軍は密集隊形による正確な動きとすばやい射撃速度に重点を置いており、散兵は主に補助的なものとみなされていました。それゆえに、これらの戦術はフランス軍よりも柔軟性で劣っていたようです。
    celetaro

  13. 輕歩兵隊の行進は速くて、戦列歩兵隊と歩度が違うので、入城する時など出迎えの観衆にはわりかし人気があったようです。
    あるめ


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