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506 幕末の鳥羽伏見の戦いにおいて薩摩藩は兵力及び火力において幕府軍に劣っていたのにもかかわらず幕府最強と目される幕府伝習隊に勝利しました。
なぜ幕府軍は最新装備及び西洋式訓練を受けた部隊を有していたにもかかわらず(小銃を含む火器を有していない市中見回り組は除く)装備に劣る薩摩藩は勝利し、幕府軍は敗退したのでしょうか?
伊号

  1. いろいろ有りましょうが、私は芸妓の帯?か何かでこしらえた『菊の御紋=錦の御旗』が、一番大きい原因と思っています。すなわち幕府軍は賊軍とされた事になったからです(事実は別として)。 西郷さんは、幕末最高の策略家とおもいます。
    roht

  2.  この戦いの詳しい経緯は知らないんですが、例え一部の部隊が強力な戦力を誇っていたとしても、他の脆弱な部隊から戦線が崩壊してしまっては負けてしまうと思います。敗走する味方につられてしまう例も多いですし、賊軍などと言われて士気が低下してしまっていてはなおさらだと思います。
    tomo

  3.  鳥羽伏見の戦い(1868年1月3日〜6日)における旧幕府軍兵力は15,000、対する新政府軍(西軍)は5,000ほど。「旧幕府軍は小火器等の装備の質で新政府軍に敗れた」とよく言われますが、個人装備(小火器)を比較すると、旧幕府軍と新政府軍にそれほど差はなかったようです。旧幕府軍のうち旧会津藩兵や新撰組等は刀槍を中心とした旧態の兵力でしたが、フランスの軍事援助を受けた旧幕府陸軍は、新政府軍の主力武装であるミニエー銃やエンフィールド銃(共に前装単発)等を上回る性能を持つシャスポー銃(後装ボルト・アクション単発)を装備していました。
     装備にほとんど差がないにも関わらず、旧幕府軍が新政府軍に敗れたのは、以下のような要因があるようです。

    1/指揮官の質の差
     伊地知正治や板垣退助ら戦上手の参謀が揃った新政府軍に対し、旧幕府軍は会津藩や新撰組等を除いては凡庸だった。
    2/士気の差
     兵力が少ないが故に士気の高い新政府軍。一方、大軍をもってすれば薩長など戦わずして逃げ出すだろうとタカをくくっていたために士気が緩んでいた旧幕府軍。そこへ、新政府側が計略で『錦旗』を立てて新政府軍を『官軍』としたことで(1月5日)、『賊軍』となった旧幕府軍の士気は一層低下した。さらに、譜代であった淀藩や津藩の離反(1月5〜6日)、とどめは幕府軍の総大将たる将軍徳川慶喜の突然の大坂→江戸帰還(1月6日夜)が、士気低下に追い打ちをかけた。
    ブラック・タロン

  4. 皆様ご回答有難うございます。
    ブラックタロン様ご回答の士気の差、指揮官の指揮能力の差を指摘して頂いた内容に近いのですが質問の内容が抽象的だったようです。
    正確な質問は鳥羽街道上で薩摩藩と旧幕府軍が相対した時の事もので、戦術的なものです。
    街道のT字路上に薩摩藩の一隊が密集隊形を形成し、別の隊をT字路の交差点を見渡せる地点に配し、十字砲火を狙った所に幕府軍が縦隊隊形で街道の突破を図ったとの事ですがシャスポー銃を装備し、西洋式訓練を受けた幕府歩兵隊が次々と新手を繰り出し、薩摩藩陣地に一斉射撃による濃密な火網をかけ、中央突破を図りますが失敗し、敗退しています。
    質問の核心はミエニー銃を装備した薩摩藩兵は前装銃であるのに対し、旧幕府陸軍はシャスポー銃を装備しております。
    装備を過信しておるわけではないのですがミエニー銃等の前装銃は伏射時のリロードが難しく、発射速度も遅いハンデを負い、かつ西洋式訓練の受けた旧幕府陸軍歩兵隊を相手にして彼等の肉薄を退けとうとう射撃戦に粘り勝ち、中央突破を阻止したその原因もしくは原動力等の訓練や装備ではない他の勝因があったのかを伺いたかったのです。(薩摩藩隊も一斉射撃を実施しており、その中を肉薄した旧幕府軍歩兵隊もそこそこの士気があると思うのですが)
    伊号

  5. 4>という事は、鳥羽伏見の戦いというよりも、1月5日に行われた 淀付近の戦いという事ですね。私の持っている文献では(すこしニュアンスが違うのですが)「徳川方の銃隊が石川ら振武隊(長州藩)の者を相次いで狙撃した為、勇猛を誇る振武隊士も浮足立ち壊滅寸前となった。・・・」 と有ります。従って徳川方の銃隊はそれなりの戦果を、あげていたと言えるのではないでしょうか? またこの文献では、「薩州伊集院直右衛門の指揮する小銃隊が猛然と『突進』してきたので・・・」とあり、『4> ミエニー銃等の前装銃は伏射時のリロードが難しく、発射速度も遅いハンデを負い』の想定は必ずしも成り立たないかも知れません。

    何れにせよ、4日には、『錦旗』が薩長軍に揚がるまで、幕軍は一時期、薩長軍を圧倒していましたから、勝機は有り得たと思います。『錦旗』のおかげ?で、幕軍の『士気』は全く低下し、土佐、広島、紀州(親藩)、5日には、淀(藩主は、この時老中で江戸滞在)藤堂(津)などの各藩が寝返り趨勢は決まりました(寝返る口実を与えた)。『錦旗』が、揚がらなければこれらの藩の寝返りは極めて難しかったと思います。

    参考文献 
    『歴史読本 日本炎上 維新の戦火列島を走る』新人物往来社 昭和49年


    roht

  6.  何処での戦闘か判別出来ないので、全般的な事となりますが。鳥羽伏見の戦いは、洋式装備を備えた軍隊が初めて戦火を交えたという事も考慮する必要があると思います。
     即ち、敵の火点を不充分な制圧射撃しか行わず、突撃→白兵戦に持ち込もうとし、撃退された例が両軍共に目立っています。つまり、未だに槍等による白兵での敵撃滅が戦術の根幹をなしていた、ということです。
    従って、指摘された戦闘においても実際には制圧射撃が不充分だった、という可能性もあります。
     また、洋式訓練と一口に言っても、それを実際に把握していたのはどちらかといえば官軍側だったと思います。というのも、因州藩部隊が洋式兵術に不慣れ、と看破するや兵力が不足しているのにも関わらず第一線には投入していません。
     
     幕軍側の指揮官の士気・指揮能力の低さ、混成軍故の指揮系統の脆弱さ、は皆さんが指摘している通りでしょう。

     確かに、後装銃が有利なのは間違いないのですが・・・・
    tackow

  7.  超余談になってしまうので適当に読み流してください(;^_^A(笑)

     新政府軍が主力銃をスナイドル銃(エンフィールド・スナイダー・ライフル)に切り替えたのは上野戦争(彰義隊討伐戦)前後からだそうです。もっとも、上野戦争でスナイドル銃を使用した長州軍は、慣れない後装銃の操作に戸惑って後方に退いたという話ですが・・・
     スナイドル銃はエンフィールド銃を後装式に改造したもので、撃針等を組み込んだ跳ね上げ式のブリーチを銃身後端に取り付け、皮製薬莢の弾薬を使用します。ボルト・アクションのドライゼ銃やシャスポー銃に比べると見劣りする感がありますが、装填スピードはボルト・アクションよりは速いと思われ、また既存のミニエー銃やエンフィールド銃を改造できる点も有利と言えるかも。

     フランス皇帝から徳川幕府へ2,000挺が贈られたシャスポー銃(M1866?)は、当時としては最新鋭のボルト・アクション・ライフルでした。ボルト前面にガス漏れ防止用のゴム・パッキンが付いている辺りはボルト・アクションの黎明期らしいといったところでしょうか。しかし、弾薬が紙製薬莢のため湿気に弱く、また弾薬も輸入に頼っていたため補給面で不安があったようです。
    ブラック・タロン

  8.  なんでも、弾薬が欠乏した場合に、洋式銃に、火縄銃の火薬、あるいは弾丸をも用いたという記録があるそうです。

     しかも、後装銃でもそれをやったらしいのですが・・・
    tackow

  9. >8
     当時の銃砲の発射薬は黒色火薬ですから、火縄銃のものを洋式銃に利用することは可能だと思います。
     弾丸の場合、火縄銃やゲベール銃は球弾ですが、口径さえ適合すればライフルでも球弾は撃てます。ただ、球弾であるため、尖頭弾(椎の実型弾)に比べて命中精度等が落ちるのはやむを得ないでしょう。また、スナイドル銃のような後装ライフルなら問題はありませんが、ミニエー銃やエンフィールド銃等の前装ライフルだと装填に多少手間取るでしょう。

     前装ライフルの欠点は、弾頭を銃口から込める際にライフリングに食い込ませなければならないことでした。銃身内径とほぼ同じ径の球弾をライフリングに食い込ませるのは、パッチ等を使っても容易ではありません。ライフルが軍隊になかなか普及しなかったのもこのためです。
     尖頭弾のはしりであるミニエー弾は、前装ライフルの装填を容易にするために考案されたものです。弾頭底部の窪みに鉄栓を入れ、発射時のガス圧でこの鉄栓が押し込まれて弾頭後部をスカート状に広げ、ライフリングに食い込ませるという構造です(エンフィールド銃の弾はこれを改良したもので、発射ガス圧だけで弾頭後部が広がるようになっている)。この弾の登場で、前装ライフルでも装填が容易となり、軍用銃がマスケットからライフルへ移行するきっかけとなりました。
    ブラック・タロン

  10.  そうですねえ、それと、前装銃の場合には銃口の向きによっては弾丸が「落ちて」しまうらしく、装填後に短冊状の紙?
    を詰めていたらしいですね。
     その様な欠点が生じない様に、装薬と弾丸とを薄紙で一体にした奴もあったのですが。なんせ、舶来の貴重品で一人アタマ2〜3発しか支給されず「非常用」として用いていた様です。

     ところで、前装銃の場合、無理矢理弾丸をライフルに食い込ませて発射する訳ですが。この場合、命数はどの位なんでしょう?リロードが難しい前装銃とはいえ、記録からは一日あたり100〜200発位は射撃している様ですが・・・
    tackow


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