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589 最近読んだ『戦争に強くなる本』という本に「太平洋戦争で戦死者よりも病死者の方が多かったのは、日本軍が補給や医療についてろくに考えていなかったため」と書いてありました。
しかし、史学専攻の友人に聞いたところ「欧米でも第一次大戦までは戦死者よりも病死者の方が多かった。ペニシリンなどの抗生物質のない日本軍で戦死者より病死者の方が多かったのは別に異常ではない」と言われました。
どちらが正しいのでしょうか?
モーグリ

  1. 例えば、独ソ戦のドイツ軍でも、戦闘で即死ないしは重傷を負って死亡といった戦死者に該当するケース以外に、凍傷や肺炎にかかり前線で十分な手当てを受けることができずに死んでいった者が相当数いるんですけどね。負傷兵を後方に送り療養させるにも彼らを運ぶ輸送手段が不足、やむを得ず病状が重い者は泣く泣く見捨てたことも結構あるわけで。
    ただ、ナイチンゲールが活躍したクリミア戦争や第一次大戦の頃は、医療技術の進歩やリハビリの導入によって、後遺障害を防止、軽減する努力が本格的に行われ始めた時期であります。当時の日本の軍隊も、欧米先進国の医療や集団衛生管理の技術を相当導入しているんですけどね。

    アリエフ

  2. しかし、太平洋戦争で戦死者より病死者が多かったことを理由に、日本軍は衛生や補給を軽視したという意見をよく見かけます。

    三野正洋『日本軍小失敗の研究』では、日清戦争で日本軍の戦死者より病死者が多かったことを取り上げ、衛生・補給を軽視したからだと主張してます。
    しかもネットを検索してみたところ、この意見を信じている人が相当数いたので衝撃を受けました。

    どうも最近の人は昔の医療水準がどの程度か知らないようです。
    モーグリ

  3.  私の手持ちの雑誌記事によると、スペイン風邪の大流行もあり、第一次世界大戦
    時、米国では、戦死者の3倍の戦病死者を出したそうです。海軍に至っては、戦死
    者の9倍の戦病死者を出したとか。このことから考えると、抗生物質がない日本が、
    太平洋戦争において、病死者の方が、戦死者の方が多くても、別に異常ではないよ
    うにも思われます。しかし、その一方で、日本軍が、医療はともかく、補給を充分
    に考えていなかったのも、否定しきれない事実ですので、私の見る限り、どちらも
    それなりに正しいことを言っていると思います。
    山家

  4. 検索して調べたら、ペニシリンは1929年にドイツのフレミングによって発見されたが、チェインとフローリーによって実用化されたのは1940年、そしてフローリーはアメリカに渡ってしまったというわけで、当時のドイツ軍でも十分な量のペニシリンを保有していたのだろうか?なお、日本は1944年に独自に実用化に成功しているとか。
    アリエフ

  5. 例えば陸続きの戦場ならば、病気に罹っても後方の病院に送り返せるが、
    南洋の島々ではそれもままならない。そういった条件の違いも考慮しなければならないでしょう。
    もちろん島々では補給もままならないわけですが。

    便利少尉

  6. In Pacific it is obvious that Japanese casualty was higher than it was of U.S. forces. U.S. army and marines both had medical personals who rescued the injured under fire. They also had most advanced medical equipment to treat the sick and wounded. Since Japan lacked both, this fact should not come as surprised. In addition bug spray (sattchuu sprey) was invented during WWII to kill mararia carring dugs.
    Vinegar-Joe

  7. J・F・ダニガン「第二次世界大戦あんな話こんな話」によれば、イギリス軍は1943年にビルマ戦線で戦闘による負傷者を1人後方に移送するごとに140人の戦闘以外の移送者(ほとんどは熱帯性の病気による)を出したそうです。これが新薬の導入と、防御策の徹底によって1944年には60人、1945年には40人に減ったとのこと。
    アメリカ軍の方も全体では戦闘による戦闘不能者は18%に過ぎなかったそうです。
    バツ

  8. 病死の方が戦死より多いのは、普通に想定されており、実際に日清戦争以来、たいてい「戦死<戦傷<傷病(病気と戦闘によらざる負傷)」の順で多くなりました。これは昔からそうでして、ナポレオン戦争やクリミア戦争の時も同じような按配でした。フランスを出発した聯隊がモスクワに着いたら半分以下になっていたのはザラだったようです。それは「異常」ではなく、どの陸軍でも必ず予め想定していた常識だったと思います。
    「補給や医療を「ろく」に考えていなかった」のではなく、「常識」どおり考えていたのですが、戦場の状況と作戰の推移が、「予想外」に展開したので、兵站能力(医療を含む)が破綻したのでしょう。
    従って「戦死者<病死者」を兵站軽視の根拠とするのは、あまり説得力がないと存じます。「ろくに考えていなかった」が通説になっていくのには大きな抵抗感があって釈然としません。
    兵站基地から前線まで兵站線路が続いているかどうか、という問題を作戰状況が否応なしに通り越してしまった時点で「既に負けとなっていた」(碁で言えばどうあがいても目が無く大人しく投了すべき状況)ので、その後の戦場の状況は兵站軽視もくそもなくなった絶望的抵抗精神の世界だったと思います。悲壮なのは、そのように正常な軍隊としての兵站機能が崩壊した後にあっても、戦闘を続行したという事実です。これは欧米式軍隊の常識では考えられないことです。もしあれば、士気が異常に高いとして称賛されるのですが、我が旧陸軍では戦陣訓にもあるように、それが当り前とされていたので、その是非はおくとして、なんとも感想の述べようの無い状況ではあります。
    米軍は侵攻側なので、その点ずいぶん周到な準備をしていたようですね。
    あるめ

  9. >6
    素人便乗質問でもうしわけありませんが、日本軍では衛生兵(medical personnell)が戦闘に参加しなかったということでしょうか?それとも衛生兵という兵種自体存在しなかったのでしょうか?
    k。

  10. ↑ 失礼、personnelでした。
    k。

  11. 検索してみれば、日本軍の前線部隊にも衛生兵がいたことがすぐわかりますよ。独立の兵科ではなかったと思うが。それから、太平洋地域でかなり多くの軍医が犠牲になっています。
    そりゃ、米軍の医療設備、資材に比べると貧弱で彼らの基準ではmedical personelと呼べないようなものだったでしょう。それでも持てる状況下で最善の努力は行ってます。例えば、沖縄県富見城町の海軍壕の近くの公園内に当時の地下野戦病院跡が保存されていますが、米軍の激しい攻撃の中で施設・設備は粗末ながらも懸命な医療活動を行っています。
    アリエフ

  12. 衛生兵に就いて補足
    最前線の衛生兵に限って云えば、兵科の通常に武装した兵隊のうち一定の人数が担架術の修業をしており、その「担架教程」(明治42年陸普3695号以来終戦まで改訂なし、昭和18年より改訂研究開始)には担架の操法以外に、簡単な人体生理・解剖学大意・救急法・三角巾繃帯法・傷者の捜索及び運搬法などが入っていました。平時の歩兵大隊では、戰時の補助担架兵要員として、軍曹(ないし伍長)1、上等兵1、中隊ごとに兵卒4が毎年、担架術教育を受けました。
    戦場では、隊附軍醫が必要に応じ補助担架兵を各中隊の隊伍より抽出して集合せしめ、その指揮下におき、傷者の収容・隊繃帯所の開設にあたらせました。軍醫と各中隊には、看護卒・看護長と昔は云っていた本チャンの衛生兵が付いており戦闘には参加せず、もっぱら初療・収容活動と軍醫の補助をしておりました。
    この他に師團衛生隊担架中隊の一部が軍醫と共に前線に挺身し、傷者の捜索・収容に任じました。衛生隊は自前の規模の大きい繃帯所(後に野戰病院のひとつとなる)を開設し、初期治療を施し、さらに初療を普及・完成するべく後方の野戰病院に患者を後送します。
    支那事變の戦訓により、昭和13年には作戰要務令に戦闘救護班が規定され、衛生隊の前線収容要員は火線救護の強化勢力として第一線部隊に配属ないし協力することになりました。
    昭和13年作戰要務令制定時点で、陸軍の前線患者収容態勢は合理化され、
    従来の師團野戰病院(6〜8個)を統括するのが衛生隊、新たに戦闘救護班を新設、従来の担架・車輛の両中隊が患者収容隊にと改編されたのですが、実際には従来の戰時衛生勤務令による旧式編制による運用が昭和19年の師團大増設まで続きました。この旧式編制の衛生隊は大戰前の獨軍方式を輸入したものですが、当時としては他陸軍に比べても遜色の無い患者収容・初療機関であったはずです。
    後方には、兵站衛生隊(従来の野戰豫備病院、兵站病院を指揮下に置く)があり、その本部には移動治療班(移動野戰外科病院の機能)が附属していて、優秀な外科医とX線装置を伴う自動車編制を持っておりました。さらに患者輸送隊、野戰貨物廠(従来の野戰衛生材料廠が他の野戰諸廠と共に統合されたもの)衛生材料部、病院列車、衛生飛行機、病院船と、器材補給・患者後送手段が編成されており、内地の兵站基地にある陸軍病院まで兵站線路上を傷病兵は送還される手筈でした。
    この一連の患者収容・治療・後送・器材補給の系統のどこかが崩れると、傷病兵はとても悲惨な状態となりました。
    軍醫部(日露戦争後、衛生部と改称)員が戦闘もするのかと云えば、從軍手記によれば、しました。それは我が後方に回り込んでくる敵遊撃隊の襲撃を受ければ患者と衛生器材を守るため自衛戦闘として躊躇無く銃撃戦をし、状況逼迫すれば白兵突撃も辞さなかったそうです。衛生隊でも、隊長は必ず兵科佐官で、車輛中隊は輜重兵なので、ホンチャンの衛生兵を除いて兵科の武装をしており、立派に自衛戦闘力がありました。
    あるめ

  13. 翻訳ページ頼りで正しいかどうか自信はありませんが
    救急キット等で戦闘中でも治療できたという事ではないでしょうか?
    どの程度の治療が出来たかは判りませんが。

    ルージュ

  14. >4
     日本では欧米からの少ない情報を元に、独自にペニシリン(碧素と呼ばれていた)の開発に成功したと聞いています。最初に臨床投与されたのは呉市の破傷風の少年だったとか。

     ところで、望月三起也の初期マンガで「日本軍の衛生兵は何でもヨードチンキを付けるのでヨーチンとあだ名されていた」という話があったのですが、これってガセ?
    ブラック・タロン

  15. 衛生兵を指す兵隊スラングが「ヨーチン」であるのは確かです。
    あるめ

  16. アメリカの歴史番組で第二次大戦中捕虜だった米兵の聞いたのですが、その兵によれば、「捕虜のほうが幸運だった面もある。我々は同じく捕虜になっている連合軍の軍医将校の診察を受けられたが、収容所の日本兵には1人の伍長だけで、軍医将校が来るのは1年に1度か2度。」だったそうです。
    Vinegar-Joe

  17. ↑ すると、その捕虜収容所の兵力は中隊規模以下ですね(収容所警備の分遣隊に衛生下士官が配属されたという状況で)。大隊本部には、軍醫(尉官)がすくなくとも1名はいたのですから。
    あるめ

  18.  「コンバット!」なんかで見ると、アメリカ兵が負傷すると何はともあれ「サルファ剤」(ペニシリンなどの抗生物質出現前のもっとも有力な抗菌剤)ですが、日本軍ではサルファ剤は使っていたのでしょうか?
    大名死亡

  19. >18
    昭和12年に第一製薬が国産サルファ剤を発売を発売していますし、
    検索してみると当時の軍医の方のペニシリンとサルファ剤の効果の比較の発言や
    チャンドラ・ボース氏の治療内容にサルファ剤の名前が見つかりましたので
    一般的な物であったのでしょう。
    ルージュ


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