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10 日本国内における旧陸海軍の飛行場について、その所在地を詳しく示しているような資料はないでしょうか。特に戦争末期の急造飛行場(茨城の鉾田飛行場など)について、現在の地図上に滑走路等の施設の位置を示してあるようなものがあればわかりやすいのですが(ついでに滑走路跡等の遺構の状況が示されていたらなおありがたい)。丸「戦史と旅」2000年5月号で旧海軍の飛行場一覧が掲載されてますが、これでは少しわかりにくいものもあるので。
アリエフ

  1. 某パソ通の某フォーラムに、そのことについて色々調べておられる方の書き込みがあるのですが、その様子からすると、まとまった良い資料というのはないようです。
    (N)

  2. ああ、あの記事ですね。私も第二横須賀とか、果たして何処にあったのか知りたく思います。多分、自衛隊武山駐屯地内だと思いますが。
    BUN

  3. 私も鉾田飛行場について、図書館で鉾田町史を調べたりしたのですが載ってませんでした。でも、地道に郷土史関係資料や戦史叢書をつき合わせながら調べていくしかないのか。誰か徹底的に調べて「消えた飛行場」なんていう本を出せば売れるかも?
    アリエフ

  4. 私も随分前に地元近くの飛行場痕を訪ねた事があります。
    この時は、確か教育委員会に訪ねたらそれなりに教えて貰えました。
    2万5千位の地図を持参されると良いと思います。
    takukou

  5. ヒマ見つけてやってみましょうか?神奈川も茨城も名も知れぬ飛行場、多そうだし。
    BUN

  6. 回答ではなく恐縮です。
    練馬区光が丘団地は嘗ての「陸軍成増飛行場」でした。鍾馗、疾風の精鋭部隊、「飛行47戦隊」が基地として使用していたこの地に、嘗ての面影は一切ありません。
    成増飛行場は戦後米軍キャンプ、「グランド・ハイツ」となり、現在に至っています。周辺地域でも20年程前位迄は「不発弾騒ぎ」がよくありました。
    帝都防空の要衝、海軍の厚木、横須賀、陸軍の調布、成増の内、この成増飛行場だけがその存在を忘れ去られつつあります。
    地元の人間でも嘗てのその存在を知る者は年輩の方のみ。時の流れですね・・・

    大匿 名太

  7. 関西国際空港は大阪府泉佐野市にあるのですが、同市には戦時中、陸軍の飛行場
    がありました。地形、気象条件など諸条件が飛行場に向いている場所なのかも知れません。 参考: www.hineno.org

    インターネットを利用してこうした情報をまとめていことには意義があると思います。
    はしもっちゃん

  8.  日曜日にたまたま藤沢飛行場(神奈川・海軍)について調べていたんですが、「市史」そのものより「市史研究」(定期刊行本・だいたいの自治体にはあるかと思います)の方が、当たりが多そうです。市史は難解だし。
     ただし、自治体毎の戦争関連の取扱の温度差は、かなり激しい模様です。

     で、その市史研究の中に米軍調査団の資料があったのですが、米軍による空中写真は「現在の」ではないですが、位置・構成特定には大いに役立つのでは無いでしょうか。
    # 飛行場全てを網羅しているとも思えませんが。
     これがまとめてある資料があるかどうかはわからないのですが・・・

     あと便乗質問ですが、とりあえず、丸「戦史と旅」2000/5月号は購入したのですが、同様の「旧陸軍の飛行場」は既刊なのでしょうか。あるなら欲しいところです。

    tow

  9. 素晴らしい。それで藤沢飛行場は、何処にあったのですか?いすずの藤沢工場あたりなのでしょうか?
    厚木飛行場が藤沢のすぐ北の大和市にあるのでどういう位置関係なのか時々疑問に思っていました。
    BUN

  10.  んでは調子に乗って藤沢空港と藤沢航空隊について簡単に。

     まずここをご覧下さい。これを元に説明します。
    http://www.mapion.co.jp/cgi/m?no=3091962500192500000
    # ローカルネタで恐縮ですが、東海道本線が入ってるのでまあ大丈夫でしょう。

     小田急江ノ島線の藤沢本町と善行の西側に本藤沢という地名がありますが、これの「本」の字あたりが滑走路中心になります。
    向きは「本藤沢」がかかっている道路とほぼ同方向で、延長は地図のマス目2マス強の長さですね。
     この滑走路は藤沢航空隊敷地の南西にあたり、小田急、R1、引地川(川筋)、引地川(文字)、善行(文字)辺りまでと、さらに善行(地名)辺りから小田急を超え(小田急トンネルです)、小田急、境川(川筋)を境として南は東俣野町(地名)、北は西俣野(地名)に及ぶ範囲を基地としていました。
     便宜上西地区と東地区に分けて、大まかに西地区は飛行場、東地区は無線整備教練施設、宿舎等となります。
     「戦史と旅」では滑走路は3本ですが、米軍調査団の空撮ではメイン1本の西側に誘導路(兼駐機場)しか見あたらず、あぜ道程度の物なのではないかと思います。
     なお、空港完成はS19.12頃。

     藤沢航空隊はここで主に機上無線の整備訓練を行っていたようです。機材は白菊2機と地上訓練用のジャンクが数機と資料にはありました。

     余談ですが一昔前(1970年代)の地図には滑走路の残骸がそのまま道路に使われていた形跡が見て取れ、近傍に「海軍航空隊」というバス停があります。

     また、いすず藤沢工場付近には電探実験部隊が置かれていたようです。

     職場から記憶モードで書いているので、間違いがあったら後で修正します。
    # ぜんぜん簡潔じゃないやぁ(泣)
    tow

  11. 訂正・補足
     東地区は先の書き込みの半分位でした。(R467と西俣野(地名)西側道路が境界となります。)
     また、東西地区の境目には民間交通可能な道路が存在し、東地区は厳密には藤沢飛行場ではありません。
    # 任務的には同一組織ですが。
     資料によると養成学校としての同組織は、予科練、水兵等最大1万人・・・て、当時最大級じゃないですかこれ?
     藤沢航空隊の発足は1944/6/1。半年間は滑走路を持たない航空隊であったわけです。

     いすゞ工場にあったのは電測学校。
     資料は・・・・あう、コピーしてないや。名前の通りレーダー要員養成学校だったと思います。

     「米軍調査団」は「戦略爆撃調査団」の事です。
     とりあえずこのくらいかな。訂正。
    tow

  12. ありがとうございます。今度近くを走ったら寄ってみようと思います。
    BUN


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