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34 第二次大戦中、私はまだ中学生でしたが、近所(群馬県大泉町)の中島飛行機専用飛行場に、出来たばかりの(場合によると秘密の…)軍用機を見に行くのが慣わしでした。もちろん、防諜のため、停まってみることは禁止されていましたが、飛行場の周りを自転車でゆっくり回りながら、次々に登場する新鋭機群に胸を躍らせていたものです。
連山(4発の重爆撃機)や月光(双発の夜間戦闘機)に混じって、ゼロ戦を一回り大きくした兄貴分の戦闘機が目を引きました。単座、低翼ですが、プロペラは4枚です。これが試験飛行の度に、大きくしたエンジンの重量を支えきれず、着陸のさい、しばしば足を折って飛行場の片隅に哀れな姿をさらしていました。これの名前を思い出せません。紫電改か、鐘馗か、はたまた別の名前であったか。
55年も経つと恐ろしいものですね? あんなによく覚えていたのに、今は若い人の知識におすがりするのみです。宜しく。

藤縄

  1. すいません。質問の内容とは全く関係ないのですが、ワタシの父も同じ事を
    同じ場所でしていたようです。

    もしかして、倉庫の中に忍び込みませんでしたか??
    tackow

  2.  キ-84(四式戦闘機「疾風」)ではないでしょうか?
    試作機は中島・太田工場で造られています。
    高出力エンジンを搭載し、プロペラは4翅。
    ちょうど一式戦「隼」をひとまわり大きくしたようなデザインは
    日本の戦闘機でもっとも美しいといわれる零戦に劣らないスタイルです。
    「隼」と違って完全な脚カバーを持っており、このへんの感じが
    零戦と似ています。
    また、脚強度に問題があったとも伝えられています。

    どんべ

  3. どんべさん、凄いですね。僅か数時間でドンピシャリの回答が出るなんて…。ありがとう。ところで4式戦というのは、陸軍ですか、海軍ですか? もっとも戦争末期、陸軍と海軍とがお互いに戦闘機の設計を統一したとの報道もあるにはありましたが…。
    藤縄・質問者

  4. 四式戦闘機は陸軍の戦闘機です。
    垂直尾翼の形が特徴的だと思います。
    横に長いというか、楕円形というか……うまく言えないのですけれども。
    個人的には、見分ける際の助けにしています。

    HD

  5. 中島が独自に設計したおもな機種は、
    陸軍機が 一式戦闘機「隼」 ニ式単座戦闘機「鍾馗」 四式戦闘機「疾風」 100式重爆「呑龍」
    海軍機が 97式艦上攻撃機 夜間戦闘機「月光」 艦上攻撃機「天山」 陸上攻撃機「連山」
    …といったところです。

    このサイトにはデータベースのページもあります。
    参照願います。
    http://www.platon.co.jp/~vought/data/index.html

    また、「陸海軍の統一云々」という件は、
    BUN師匠のページで触れられています。
    http://www.epsnet.co.jp/~f4u/truth/

    ところで、
    藤縄さんのように同じ時代を生きた方々の証言は貴重な資料となります。
    当時の想い出話を文章として残して頂くことを希望いたします。

    どんべ

  6. 『陸軍機が 一式戦闘機「隼」 ニ式単座戦闘機「鍾馗」 四式戦闘機「疾風」 100式重爆「呑龍」
    海軍機が 97式艦上攻撃機 夜間戦闘機「月光」 艦上攻撃機「天山」 陸上攻撃機「連山」』
    という「どんべ」さんのご返事なつかしく読みました。あやふやながら、(その上、戦時中はすべて丸秘なので、戦後に知ったことも多かったのですが、)上記のほとんどの機種は知っています。たぶん見たこともあるでしょう。
    体験記を書け、などといわれると調子に乗って長しゃべりになることが多く、その故に戦前・戦中派は若い人から嫌われ、社会から顰蹙を買うことも多いのですが、まあ、死ぬ前に書けるチャンスが与えられたらなあ、などと夢見ないこともありません。特に昭和20年2月4日(記憶があやふやになりました?)の太田空襲の実際の姿は、どんな映画監督にもとうてい描き出せないものでしょう。
    当時私は中学生で、まだ空襲警報が解除にならない内に自転車で家を飛び出し、工場地帯を見て回りました。すでに暗くなっていました。家に帰ってから2,3時間ほどたってから、当時中島飛行機の設計技師をしていた義兄がわが家に顔を出し、無事を報告、姉のお腹の中の子の運命を気遣っていた父母をホッとさせました。この義兄も戦時中のことは多くを語らぬまま、先年、亡くなりました。
    またも長くなるから止めます。何か機会があったら与えてください。
    藤縄・質問者

  7. それで思い出しました。戦時中のこと、正確かつ綿密なな年表を作った人はいませんか? HPなんかあればありがたいのですが。
    藤縄・質問者

  8. >7
    年表ですが
    色んなジャンルが有るので一概には言えませんが
    検索エンジンのgooで漁って見たところ

    http://home.interlink.or.jp/~ydaisuke/

    「太平洋戦争年表ホームページ」なる物が出てきました

    SUDO

  9. >8
    SODO様。ご丁寧にありがとう。ですが、この年表でも、肝心の昭和20年2月4日(だと思うんですが…)の太田空襲のことについて一言半句も載せてないんですよ。戦時中の朝日新聞縮刷版にもなし。この世界戦争を支えた大工場が壊滅した日のことが年表に載ってないないなんて、私は悲しいです。義憤を感じます。
    質問者・藤縄
    藤縄

  10. ご記憶の空襲は昭和20年2月10日の空襲と思われます。

    米国側の記録によれば、出撃機数は120機(B29)。目標の中島飛行機
    太田工場に到達したのは84機。
    損失は合計12機とされています。

    ちなみに、その後2月25日を皮切りに、艦載機等(小型機)の空襲があっ
    た様なのですがご記憶でしょうか?
    私の父はそちらの方が記憶に鮮明な様です。

    また、年表ですが、戦史叢書の第102巻「陸海軍年表」が纏まっていると
    思います。
    残念ながら絶版ですが、古書店で探せば入手出来るかもしれません。
    tackow

  11. >7 こちらのHPの日本史年表は如何でしょうか。軍事のみならずかなり詳しく出ています。残念ながら太田工場空襲は載っていませんでしたが…。
    http://www.netlaputa.ne.jp/~house/



    AJOR

  12. >11 tackow様、ありがとう。ところで太田空襲の日付を2月10日とした根拠は何でしょうか? お教えいただければありがたい。
    2月25日以降の艦載機来襲のことはよーく知っていますよ。B29爆撃機の場合は堂々としていて、したがって、今の台風予想よろしく「敵の数目標、南方洋上を北上中なり」なんて、時々刻々にラジオによる警報が伝えられるわけですが、艦載機の場合は突然やってきます。まず頭の上を物凄い勢いで編隊が通り過ぎ、次に高射砲がポンポンと鳴って空に煙を撒き散らし、その後でようやく空襲警報が鳴るってわけです。時間帯も朝飯のとき、昼飯の時という具合で一定の決まりなし。お陰で飯を食い損ない、いまだに恨みに思っています。のんびり飯を食っている子供や孫たちに「それ、艦載機がやってくるぞ」なんて脅かしても、連中には実感なし。平和な世の中になりました。
    藤縄

  13. 本土空襲について総括的にまとまった資料は、やはり戦史叢書の19巻「本土
    防空作戦」が適当かと思います。とはいえ、古い資料なので物足りない部分も
    多いんですが。また、残念ながら絶版です。

    米軍側の資料として纏まったものですが「米軍資料 日本空襲の全容」(東方
    出版 ISBN 4-88591-434-5)があります。
    これは、「全容」といいつつマリアナからの空襲(B29)に限定されますが、
    未だ購入可能だと思います。

    その他、色々とあるのですが纏まった資料としては、上記の2つが良いと思い
    ます。

    あと、太田工場については「銀翼遥か」という当時太田工場に勤務されていた
    方の文集もあります。太田市で発行したのですが、現在でも入手可能かは不明
    です。

    最後になりましたが、空襲の日時は上記の資料から特定しました。
    といいますか、この2月10日の空襲は米軍の損害を見ても判るとおり、結構
    有名?な空襲ではあるのですが。

    艦載機の空襲はやはり大変だったのですね、父も中島工場内への機銃掃射で友
    人を亡くしたと言ってました。
    tackow


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