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358 きわめて大雑把な質問なんですが、太平洋戦争中の日本海軍の三度の食事は、どんなモノを食べていたんでしょう。もちろん、艦種や部署によって違いがあるのは分るんですが・・・。白米の他に、パン中心の食事等もあったのでしょうか?
Ms-09R

  1. 白米は潜水艦だけと聞きましたが。水上艦は麦が3割ほど入ってると聞いたような。

    taka

  2.  「食事の雰囲気」がわかる本といえば高橋孟『海軍めしたき物語』、『海軍めしたき総決算』が面白かったです。
    バトゥ

  3. ↑ はい。実はこの質問も、そこからの流れなんですが・・(笑)
    どの戦記にも(たぶん、当たり前の日常すぎて)あまり、そうゆう描写がないもんで・・・(^^;
    Ms-09R

  4. 時期や所轄、また下士官兵か准士官以上か、これらを特定しないことには
    こうだとは言えません。食事に関しては、下士官兵が調理した食事を給与(
    品給)、准士官以上が食費による給与(金給)ですし、また部隊と官衙、学
    校、工作庁、作業庁とでも扱いが違います。そこで、上記の質問を(雰囲気
    から勝手に察して)「昭和期の艦船部隊の兵食」と仮定します。

    艦船部隊における食事は「基本食」と呼ばれる通常の勤務に服する者に給す
    るものが朝、昼、夕の三食に相当すると考えます。さらに、各種増加食(新
    兵、生徒、練習生、潜航時、航空時)などがある他、夜間の勤務に従事する
    者に対して必要に応じて「夜食」を供与することになっています。

    こんなことを書いても質問者の欲する情報にはならないので、昭和12年度
    練習艦隊が印度洋を航海中の際の兵食の献立の一部を示します。

    第1日
    朝 米麥飯、里芋味噌汁、茄子辛子漬
    昼 米麥飯、鯛煮魚、茄子油煮、胡瓜漬
    夕 米麥飯、牛野菜シチュー、大根漬
    夜 素麺
    (中略)
    第6日
    朝 米麥飯、若布味噌汁、福神漬
    昼 米麥飯、柳川もどき(豚肉)、澤庵漬
    夕 米麥飯、鰮缶詰、煮込うどん、梅干
    夜 おじや

    などとなっています。もっともこの時は生糧品の供給が意のままにならなかっ
    たそうですが。

    これは献立の一部でありますが、海軍経理学校に研究部にて研究した士官食、
    兵食の献立例であるところの「海軍研究献立表」に、色々な調理名がありま
    して、これらから兵食を独断と偏見で拾ってみると、「南瓜のスープ」「野菜
    スープ」「太刀魚の炒煮」「魚のカレー焼」「鰯のトマト煮」「鯖の芥子焼」「豚
    と馬鈴薯のカレー煮」「豚のカツレツ」「ロールキヤベジ」「牛肉味噌シチユー」
    「チキンカレー」「鶏の骨付揚」「鉄火味噌」「けんちん揚」「揚げ豆腐の卸かけ」
    「胡瓜サラド」「果物のサラド」「五目焼飯」「浅蜊のカレーライス」「トマト飯」
    「牡蠣ライス」「油揚丼」「マカロニナポリンタン」「支那蕎麦」「五目蕎麦」
    「小豆汁粉」「蒸かすていら」「二色羊羹」「バナナの砂糖煮」などなど、書き
    きれないほど非常に多数のメニューがあります。

    無論、これら献立が艦船部隊で給食されたかどうかは別問題ですし、これは昭
    和4年時点のものなので、これ以降新規メニューが開発(?)された可能性もあ
    りますが、概ね兵食の程度というものを察するには十分かと思います。

    なお、潜水艦における献立の実例ですが、昭和17年度の伊二一潜の元旦の献立と
    して、

    朝 雑煮(缶詰餅 かまぼこ 筍 ふき ほうれん草)、向付(数の子、切するめ)、紅しょうが
    昼 白飯)、鶏肉大和煮、里芋白煮、吸物(缶魚(かに)、松たけ、ほうれん草)、奈良漬
    夕 白飯、いわし油煮、酢の物(万才煮)、吸物(キャベツ 人じん 筍 椎たけ) 大根みそ漬

    などとありますが、元旦以降10日ほどの献立を見ていますと、缶詰がやや目立
    ちます。

    なお「パン中心」云々ですが、日清戦争頃まではパンを多く食べていましたが、
    明治31年以降米麦食が増え、大正7年さらにパンを減らし、昭和6年には軍
    港内で週三回、それ以外は支給しなくても良いとされ、軍港以外では米麦食で
    もかまわなくなったとされます。ただ、糧食品の規定には米麦とあるものの、
    規定品が手に入らない場合もあり、実際にはパンを食べた例もあるものと思わ
    れますが、さきの練習艦隊と潜水艦における献立にはパンは認められません。

    もうちょっと制度面と実態に関して分かったら補足をするかもしれませんが、と
    りあえず。

    今泉 淳

  5. そうか、「太平洋戦争中の」と質問にはあるのですね。でも、練習艦隊の
    ほうは太平洋戦争時のものとそれほど大きな違いはないのではないかと思
    います。
    今泉 淳

  6. 蛇足:
    日清戦争以降に御飯に麦を混ぜるようになったのは、脚気予防のためですね。陸軍は、脚気細菌説をとっていたので依然として「銀シャリ」を食べ続け、日露戦争で多くの脚気病者をだしました。
    海軍兵学校の朝食は、パン(寫眞でみると半斤以上ありそう)に味噌汁だったそうですが、試しにバター・トーストと味噌汁を一緒に食べてみましたら、おいしかったです。
    お隣に海軍の主計特務士官で、料理専門だった人がいて、時々、台所であっという間にフルコースを作っては奥さんに食べさせていました。長官級になると、洋食で軍楽隊の奏樂がついたので優雅だったそうです。外国船や寄港先の来客を艦内の食事に招待することがあって、メニウも水準以上でなければ勤まらなかったということです。
    あるめ

  7.  今泉さんが詳細に書かれていますが、ちょっとだけ補足します。

     明治17年から同30年頃までは週に15食がパンでした。その後、明治31年
    からは週に7食になり、大正7年以降は軍港内では週に4食、軍港外では2食に減
    ります。
     その後、昭和6年には軍港内3食、軍港外ではパンを支給する必要なし。となり
    ます。

     制度面でみると、明治23年に勅令第4号海軍糧食条令および細則の達第131
    号糧食品経理規定の発布により、一日あたりの糧食の細目が明文化されました。
     そして明治31年に改正が行われ、その時に従来の糧食品日当表に代わり20表
    と呼ばれる糧食の細目を規定した表が出来、以降はそれを小改正して支給品を決め
    ていました。


    tackow

  8.  あぅ、、「太平洋戦争中」でしたね、、
     細かい資料はあるんです、、が、しばしお待ちを・・・
    tackow


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