ちょっと気になると夜も眠れない。

艦船関係
Ans.Q

どうでも良いことなのに…、誰か助けて!


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872 日本軍の駆逐艦や軽巡に搭載された砲弾なんですが、50口径12.7cm砲の通常弾は榴弾、軽巡の14cm砲以上に搭載に搭載された被帽通常弾は半徹甲弾という認識でよろしいのでしょうか?
また、12.7cm砲弾は弾量の割に炸薬量が低い(でも105mm榴弾砲に匹敵する炸薬はある)と思うのですが、これは単純に弾殻を厚くすることで貫通力や破片効果の増加を狙ったと考えてよろしいのでしょうか?
海軍大好き

誰か答えて下さい。

871 コアリツィアSVの連装砲が艦載化される計画があったようです。
ここで質問ですが。
1)今まで(18/02/12)において艦載用の垂直式連装砲は存在もしくは計画研究されていたか。
2)日帝時代に1つの砲架に垂直連装を2つ並べたような4門の砲を載せる砲塔を研究していたとのことですがその後どうなったのか。(コイツの下の方↓
http://kancolle-news.com/wp-content/uploads/images/livedoor.blogimg.jp/lovelive2015-kantai/imgs/a/d/ad471cd2.jpg)
にわかミリオタでくだららないことを聞いているかもしれませんが、回答またはそれに関する文献、過去の質問ナンバーを教えて頂けるとありがたいです。
長文失礼しました。
モッテリン

  1. URL間違ってましたすいません、正しくは
    http://kancolle-news.com/wp-content/uploads/images/livedoor.blogimg.jp/lovelive2015-kantai/imgs/a/d/ad471cd2.jpg
    ですお手数お掛けします。
    モッテリン


  2. アメリカのキアサージ級、ヴァージニア級戦艦が主砲の上に副砲をつけてますよ。

    デスコン


  3. それと、架空機の館に「VON DER TANN haha (;´Д`)」という架空艦が掲載されてて、連装砲を垂直に並べたデザインだったのですが、そこに四連装のコラ画像があった事を記憶しています。もしかしてその写真の可能性もあります。
    残念ながら架空機の館は閉鎖されてその写真は見つかりませんでした。
    デスコン


  4. 回答ありがとうございます。

    >アメリカの……
    確かに二階式砲塔は連装砲を二つ重ねた四連装砲塔と言えますね。
    もっとも、この艦級の二階式は使用弾薬が違い上部が副砲扱いであるため厳密には少し違うかもしれませんが。

    >それと、架空機の館に……
    懐かしいですね架空機の館、閉鎖されたとは気づきませんでした。
    その架空艦の記事は見たことがないので残念です。確かに、画像の四連装砲はコラで間違い無いと思うのですが隣の設計図の一部?は可能性があったので聞いてみました。


    モッテリン


  5. 確かに、架空艦のほうには図があったかは記憶していませんので、計画の図はあったのかも知れませんね。
    デスコン



870 今、武器関連で質問している魚雷に関連しての質問なのですが、
ソ連の大戦から冷戦の間あたりで、艦の塗装の変更の命令や報告などはあったでしょうか?
昔の潜水艦では、緑の艦底が有りましたが、今では見ないように感じます。
その切り替わった年が分かれば、魚雷の色が変わった年も分かるのではと思った次第です。
デスコン

  1. 回答になっていないのですが気になったので1つ。

    >昔の潜水艦では…
    潜水艦ならば配属された基地や作戦ごとに海の色に大きな違いがあれば、色を変える事も考えられます。(Uボートは作戦海域ごとに塗装し直していた、とどこかで読んだ気がします)
    よってその潜水艦は作戦上、緑に塗装していただけだったとも考えられます。

    防錆などの塗装に使う塗料は決まった色があるわけではありません、青にもピンクにもできます。(汚れは目立つかもしれませんが)
    あまり色に悩む必要はないのでは?

    塗装については詳しく知らないので間違いがあるかもしれません。長文失礼しました。

    モッテリン


  2. 上で書き忘れてましたが
    何か特殊な効果を持つ(ステルス機などにつけるやつなど)塗料は別です
    制約がある可能性はあります。

    モッテリン


  3. 回答有り難うございます。
    確かに現地で変えていたとすれば命令文はなさそうですね。
    デスコン



869  蒸気機関が登場する前の船舶というと船底に溜まった水を人力で掻き出す必要がありました。

 日本の安宅船の場合、トップヘビーになってしまうため船底にバラストとして砂利を敷き詰めていたそうですが、排水作業はどのようにやっていたのですか?
おうる

  1. シカとは存じませぬが佐渡金山の水上輪みたいなのでやってたのではないでしょうか
    駄レス国務長官


  2. >>1
     回答ありがとうございます。

     当時、日本にアルキメディアン・スクリュってあったんですか?
     佐渡に伝わったのは江戸時代に入ってからだとは知っていますが、それ以前の日本での使用例は存じませんので・・・
    おうる


  3. ポンプの歴史 ↓ によれば西洋では古くより船底の排水に用いられてたとのコト
    http://www.marut.co.jp/gyumu_pdf/pump-info01.pdf#search=%27%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%97%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%27

    種子島に漂着したフネにも付いてたとすれば鉄砲と同時に伝来した可能性はあり得ると思います
    駄レス国務長官


  4. >>3
     興味深い資料をありがとうございます。

     てっきり手桶で汲み出していたんだろうと思っていましたがポンプを使っていたとすると、一区画だけ砂利は入ってこないけど水は入ってくるような場所を常設して、そこにポンプを突っ込んで排水するようにしていたのかもしれませんね。断定はできませんが・・・
    おうる


  5. 安宅船ではありませんが、江戸期の和船の実際の漂流事故を題材とした小説では、船底にたまった水(さんずいに金で淦、読みはアカ)をくみ出すのにすっぽんという手押しポンプを使っていました。
    それをもとにネットを検索した結果、こちらのブログに博物館に展示されている実物の写真がありました。https://blogs.yahoo.co.jp/kmy22jp/40090934.html
    れん太


  6. >>5
     ありがとうございます。
     ただ、龍吐水もいつ頃登場したものなのかよくわからないのですよね。消防用としては江戸時代中期に登場しているようですが・・・
    おうる



868 アイオワ級戦艦の前檣楼内部の各甲板には何があるのですか?
大和は第一艦橋や作戦室がありますが、アイオワ級は司令塔や航海艦橋、方位盤等以外良く分からなかったので。

それと戦闘時に艦長は何処に居るのですか?
現在のイージス艦の様にCICにいるのでしょうか?
それとも航海艦橋などの別の場所に居るのでしょうか?
Mk.63 GFCS


  1.  前半については、ちょっと検索をかけてみたのですが、らしいものは見当たりませんでした。ただ、アイオワ・クラスは記念艦として残っているので、艦内ツアーが実施されています。そこで、参加者のヴィデオを探してみたのですが、前檣楼のどのあたりを写しているのか分からないので、あまり参考にならないと思います。

     後半については、もともとCICが艦長にヴィヴィッドに情報を伝えるためのものだったことも分かるように、そちらにいるようです。
     
    hush


  2. http://www.researcheratlarge.com/Ships/BB61/BOGP/RG19_BB61_578106_4_Levelled.jpg
    参考になるかはわかりませんが。
    POIUYT


  3. hushさん
    POIUYTさん
    お二方とも貴重な情報をありがとうございます。
    大戦当時の艦橋内に何があったかは根気よく探してみます。

    Mk.63 GFCS


  4.  https://maritime.org/doc/plans/
     こちらに1950年のミズーリの概略図が載っていますね。
     多分、2で紹介されている最終状態の図よりもお求めのものに近いのではないかと思います。
     なお、2の図の目次は下記のURLにありますが、平面図もあるので、より分かりやすいと思います。
     http://www.researcheratlarge.com/Ships/BB61/BOGP/
     
    hush


  5. 更に詳しい情報、ありがとうございます。
    50年の姿は大戦時にかなり近いのでよく参考になりました。
    Mk.63 GFCS



867 あたご型護衛艦で、艦橋上部の中央についている板状の装置は何でしょうか?

Yahoo知恵袋で質問させていただいたのですが、回答がつきませんでしたので、こちらで質問させてください。

あたご型護衛艦では、艦橋トップに、
パラボラアンテナ状のSPG-62射撃指揮装置とMk46OSS光学照準装置がついていると思いますが、
その土台部分の前方(艦首)側に、横に6個、縦に5個の長方形の板が、1枚板状に並んでいますが、これは何なのでしょうか?
拡大写真を見ると、その板の上に、ペンキ塗装禁止と書かれているみたいですので、何かの装置だと思うのですが、
あたご型護衛艦を紹介している本やWEB等を見て回りましたが、この部分だけ説明が見つけられません。
(こんごう型護衛艦にはありませんよね?
その場所にFCS2がついているから付ける場所はないと思いますが)

一体この装置は何なのか、ご存知の方は是非お教え願えないでしょうか?
Myu

  1. 聞いた話ですが、電波吸収材のパネルが貼ってあるだけみたいです。
    艦橋上の電子戦装置の電波が乱反射するのを防ぐためだとか。
    YK


  2. ご回答ありがとうございます

    なんと!!電波吸収材でしたか!
    装置ですらなかったんですね
    いくら調べても何も記載が出てこないはずです
    知ってる人なら唯の電波吸収材なので記事にすらしないでしょうから

    お陰様で疑問が解決しました
    誠にありがとうございました
    Myu



866 戦艦オッシュの魚雷発射管は五基あるそうですが、
「オッシュの進水」から舷に二基の魚雷発射管があり、両舷の計四基は分かったのですが、残りに一基はどこにあるのですか?
デスコン

  1.  多分、艦尾部でしょう。
     舷側に4基ということは、残り1基は中心線上、それも艦首部か艦尾部にあるというのが自然な流れです。しかし、艦首部にはラムがありますので、衝突時の誘爆の危険性を考えると艦尾の可能性が高いからです。
     https://www.super-hobby.fr/zdjecia/9/6/9/6571_1_mod14_11_3.jpg
     実際、上記のmodelikという、多分、ポーランドの模型会社の出しているオシュの艦型図(部品指示図)には、艦尾部に25aと数字の振られた棒状のものがあります。そして、舷側部の魚雷発射管の開口部にも25とありますので、これが発射管ではないかと思っておりますが、写真等で確認したわけではありません。
     なお、同艦は後に発射管を5から3に減じているそうですが、舷側のどちら側を撤去したかは分かりません。
     
    hush


  2. 回答有り難うございます。
    確かに、発射管らしき筒を見ることが出来ました。
    デスコン


  3. もう一つ質問させて欲しいのですが、
    すこし、話が変わってしまうのですが、Gun LengthとBore Lengthはどう違うのでしょうか?
    オッシュのホチキス47mm回転式砲の長さを調べていたところ出てきました。
    Gun Length oa 80.6in
    Bore Length 74.1in
    デスコン


  4.  御質問の記述は http://www.zhanliejian.com/navweaps/index_weapons.htm に掲載されたものだと思われます。
     だとすれば、そちらのページのGuns and MountingsのBarrel Length / Bore Lengthの項目に On my webpages, ”Gun Length oa” refers to the overall barrel length. ”Bore length” is per each nation's specification except where notedと、記されています。
     つまり、砲身長は国によって基準が異なるわけですが、Barrel Lengthはこのページにおいて共通の基準で出したものであり、Bore Lengthは各国の公称値であるとなるようです。
     なお、各国ごとの基準は同項目に記載されておりますので、そちらを御覧下さい。
     
    hush


  5. 有り難うございます。
    デスコン


  6. 後に調べる人の為に調査の報告。
    wikiには回転式と有りますが、ホチキス47mm回転式砲は1890年代には、ホチキス47mm速射砲への転換が行われ、以降は少数の運用のみ。よって速射砲だと思われる。
    ただ、露wikiをみると、37mm回転式砲も搭載されているとの記述。
    47mm速射砲は10基搭載とのこと。

    デスコン


  7. それぞれ搭載位置が不明だったので、色々な写真を見た感じだと、
    初期?の武装の位置は47mmがマストに二基づつ、四基。と27cm砲の上の台に三基づつ、六基で計10。
    37mmが、前部後部の艦橋に三基づつ、六基。と前部艦橋の階段付近にシールド付が一基づつ、二基。27cmと47mmの上に一基づつ、二基で計10。
    デスコン



865 戦艦大和の艦型案は海軍高等技術会議で審議されたと聞いていますが、一つの案に対し、この時点で何枚の図面が作成されていたのですか?
A-140の断面図は本に載せられていた物があるのであることは分かっているのですが他には何があったのでしょうか?
Mk.63 GFCS

  1. 御田重宝著「戦艦大和の建造」によると、艦本技術会議にかけられたA140の基本計画案は、一致をみるまでに23通りの計画図が描かれたとされています。
    ここで承認された計画案が海軍高等技術会議にかけられ合格、最終結論となったようです。

    源五郎


  2. 質問者様の意図は「候補となる20数案の一つ一つに何枚の(艦型図とか断面図とか)図面が作成されたのか?」と解釈しましたが違いましたか?
    もしそうであれば非常に回答困難かと思いますけど
    駄レス国務長官


  3. 駄レス国務長官様の解釈であってます。
    そうですか、困難ですか……
    Mk.63 GFCS


  4. 類推でよければ「平賀アーカイブ」の長門など日本戦艦の計画時資料が参考となるかと思いますけど
    駄レス国務長官


  5. なるほど、わかりました。
    Mk.63 GFCS



864 ドイツ戦艦ビスマルクに関して疑問があります。
同艦最後の戦いにおいて「1、2番主砲の間に命中した砲弾により両主砲が作動不能に陥った」という話があります。
しかしビスマルク擁護派(こういう言い方はあまり好きじゃないのですが)の人達はこれに対し「主砲射撃指揮装置が直後に破壊されたから砲撃出来なくなっただけで主砲は損害を受けていない」と主張されます。
個人的には射撃指揮装置(あるいはその関連設備)が破壊されたのであれば、特に近距離砲戦であれば2番主砲は主砲測距儀を用いて砲側照準で戦闘を継続出来たと思います。

このビスマルクの1、2番主砲の沈黙について、砲塔の破損と測距儀の破損、どちらがより重大な影響を与えたのか教えて頂けますと幸いです。
薩摩

  1. まず0859の最初の命中弾(ロドニーの16in)はご指摘のAB砲塔中間で両砲塔が沈黙します
    同時同分ノフォークの8in砲弾により前部照準塔(司令塔上)が壊滅します
    0902ロドニーの16in砲弾がA砲塔砲室後部に命中して損傷を与えB砲塔からも破片が飛散します
    0927KGVの14in砲弾がA砲塔前部甲板に命中し同砲塔は水圧を喪失し左右両砲は俯角一杯に沈降します
    (以上“Battleships, Axis and Neutral Battleships in World War II”に拠る)
    最初の命中弾で両砲塔が沈黙した原因は不詳ですが仮に砲塔構造物自体が物理的に損傷しなくとも電路が切断されたりすれば不動となるワケですから戦闘の帰趨に影響は無いんじゃないでしょうか
    駄レス国務長官


  2. 回答ありがとうございます。
    戦闘の帰趨についての影響がほぼ皆無であろうことは判っているのですが、
    ・砲塔間に命中した砲弾による被害で砲塔機構に破損がなかったのであれば直後の射撃指揮所が破壊されても砲塔個別での戦闘継続は可能だったのではないか?
    という点が疑問なのです。
    主砲射撃指揮所の破損=主砲射撃不能ではありませんし、我が「比叡」のように電路の切断で一斉射撃が不可能になっても砲塔毎の砲側照準で戦闘を継続した事例もありますので……。
    薩摩


  3. >2.
    これ ↓ 見ると後部指揮所ないし砲側照準による射撃がしばし継続されてるようですね
    http://www.kbismarck.com/bismarck-last-battle.html
    駄レス国務長官



863 戦前のノルウェーにあった豪華客船ステラポラリス号(M/S Stella Polaris)について質問です。
1940年にドイツ軍に接収され、以降はノルウェーのナルヴィク港にてUボートのホテルシップとして使用されたと聞きます。
この船の戦中の様子について記された本や映像などの資料を探しています。洋書・和書・ビデオ等をご存知の方がおられましたら、そのタイトルをお教えくださいませんでしょうか?
よろしくお願い申し上げます。
hozumin

  1. Google でキーワード 'Stella Polaris U-boat photo'で見てみつけた写真がひとつ。 近年でも北欧海軍で使用の明細スキームが興味深いです。Uボートはナルビクから援ソ船団攻撃に出港していたの? インド洋のペナンみたいな存在で、ペナンではイタリアの客船をホテルシップにしていたのかしら??と思いました。
    cruiselinehistory.com/wp-content/uploads/2008/12/stellapolaris2.jpg
    元の記事
    cruiselinehistory.com/the-ms-stella-polaris-the-most-famous-cruise-ship-of-all-time/
    この船、遠望したことだけあって、今は内装(北欧の木材)見ておけばよかったとずっと思ってます。

    IWA


  2. (追伸)ナルヴィクから出撃したU-ボートの記録に出てきそうで、ノルウェーを根拠地としたU-ボートの方をあたってはと思いました。ドイツ語でもGoogle翻訳使えます。トラック島の平安丸、ミッドウェーやグアム、オーストラリア、横須賀でのホランド(AS-3)、フルトン(AS-11)、プロテウス(AS-19)といった潜水母船の基地風景の中での描写を見ます。同じようなものがありそうに思います。
    IWA


  3. (続き)Google でキーワード 'narvik Stella Polaris'で以下写真みつけました。
    digitaltmuseum.no/search/?aq=topic:%22skip%22%20place:%22narvik%22
    digitaltmuseum.no/011015080165/m-s-stella-polaris-i-bakgrunnen-to-mindre-fartoyer-og-en-ubat-ligger-ved
    digitaltmuseum.no/011015080162/stella-polaris-til-hoyre-med-ubat-og-to-andre-fartoyer-liggende-ved-side
    digitaltmuseum.no/011015080182/stella-polaris-til-venstre-med-ubat-og-mindre-fartoyer-liggende-ved-side

    ---
    www.fremover.no/lokale-nyheter/fra-hitlers-yacht-til-ubatsenter-i-narvik/s/1-55-7637222
    ナルビク港風景
    g.acdn.no/obscura/API/dynamic/r1/escenic/tr_1080_670_l_f/0000/archive/05703/3891255777_5703205a.jpg?chk=0117FD
    g.acdn.no/obscura/API/dynamic/r1/escenic/tr_1080_697_l_f/0000/archive/05703/4141790450_5703204a.jpg?chk=04659E

    ---
    www.ubaatkrig.no/web/skjomen.html
    www.ubaatkrig.no/bilder_web/skjomen/stellapolarisIV.jpg
    www.ubaatkrig.no/bilder_web/skjomen/stellapolarisX.jpg

    IWA


  4. 本は以下のものにStella Polarisが出てくるようです。Google翻訳でノルウェー語も訳せます。
    Svein Aage Knudsen. Ubåtkrig. Tyske ubåtmannskaper i norske farvann 1940-1945.
    288 sider. ISBN 97882-91117-68-3. (Tysk utgave: ISBN 3-8132-0841-9)

    Swastikas in the Arctic: U-boat Alley Through the Frozen Hell
    著者: Jak P. Mallmann Showell

    German U-Boat Losses During World War II: Details of Destruction
    著者: Alex Niestle

    Teddy Suhren, Ace of Aces: Memoirs of a U-Boat Rebel
    著者: Teddy Shuren

    リサーチ頑張ってください。
    HTH
    IWA


  5. (続報)スウェーデンの人(*)に聞きました。テキストの訳はGoogle翻訳で。

    archive.is/s8FEI
    ・・・ U-711のサイトで、Stella Polaris の写真が3つあります。

    www.fotosamlinga.no/galleriet/displayimage.php?album=61&pid=4170#top_display_media
    ・・・ 大戦初期のUボート母船時代の写真とのこと。平時塗装で、ボートも客船時代のまま。

    sextanten.eu/kryssning/s/ms-stella-polaris-1927
    ・・・ スェーデン語の経歴紹介のサイトです。Uボート母船時代の写真はなし。
    1940 30 Oct rekvirerad av Deutsche Kriegsmarine.
    1941 10 May återlämnad till rederiet.
    1941 21 Aug rekvirerad av Deutsche Kriegsmarine.
    1942 26 Feb återlämnad till rederiet.
    1942 18 Mar rekvirerad av Deutsche Kriegsmarine.
    1943 låg hon bland annat i Skjomen, Narvik som ubåtsmoderfartyg.
    1945 08 May ankom hon Trondheim, efter varit i tyska marinens tjänst tills nu.
    1945 Jun övertagen av Ministry of War Transport, England. Insatt för att frakta krigsfångar från Mo i Rana

    (*)Lars Ahlbergさん。大鳳本の著者で、戦後世代。全然知らない船だったので美しさに驚いたとのこと。庶民にはマイナーな船だったようです。

    HTH
    IWA


  6. (追伸)U-711のサイトに4つめの写真があって、Uボート乗組員がStella Polaris の救命浮輪で記念写真とっています。この船母港はベルゲンですね。日本では沼津だったのかしら?
    IWA



862 いつもご教授頂きまして有り難うございます。

第三十二号哨戒艇(旧:駆逐艦「葵」)第三十三号哨戒艇(旧:駆逐艦「萩」)は'41.12/23にウェーク島に擱座・放棄されていますが、現在も残骸は残っているのでしょうか?

宜しくお願いいたします。
Ranchan

  1. googleマップの衛星写真にはそれらしいものは写っていません。もうすぐ80年ですから、撤去されていなくても水上部分は波浪で破壊されて、消失しているでしょう。
    桜ヶ丘


  2. 1944年にはまだ第三十三号は存在しているようですが、どうもかなりの部分はなくなっていて、一部だけしか残っていないようにも見えますね。

    https://www.pacificwrecks.com/airfields/usa/wake/1944/sbd-wake-44.html


  3. 皆様ご回答有り難うございます。

    >片様
    ご紹介頂いたリンクを踏むと表示される「ウェーク島上空を飛行中のドーントレス(1944)」の写真で、「Locations」の「L」の字の真下にある海岸線上の黒点が「第三十三号哨戒艇」のなれのはてなのでしょうか?
    Ranchan


  4. >3
    よく見たら、2つ黒いものが見えるような気もしますね。



861 島風の沈没原因は本当に機関部のオーバーヒートによる爆発でしょうか。
よく定説として語られていますが、なにか根拠のある話でしょうか。
爆発は爆雷や弾薬の誘爆が原因である可能性もあると思うのですが・・・
しんず

  1. Wiki記事に「しかし、多数の至近弾と機銃掃射により船体に多数の小破孔が発生して浸水、機関からも蒸気が噴出して回転数が急速に低下、航行不能となる」とあります
    この通りであれば蒸気圧が相当低下してるわけですから機関部由来の爆発とはならないと考えられます
    「過負荷運転によるオーバーヒート」とは機関部に相当暗い方が言ってるんじゃないでしょうか
    駄レス国務長官


  2. ポール・アレン氏が島風を発見されましたので、その画像を見れば原因の推定が可能かもしれません。
    個人的には、船体後部で爆発して沈没とのことですので、後部主砲弾薬庫あたりが誘爆したか、あるいは退艦出来なかった生存者が自沈させたかだと思います。
    きっど



860 世界の艦船の2017年9月号増刊米戦艦「アイオワ」級で米海軍最後の戦艦であるアイオワ級は20%過負荷出力で設計されたという記述を見ました。
なら、米海軍最後の重巡であるデ・モイン級はどれぐらいの過負荷出力で設計されていたのでしょうか?
Mk.63 GFCS

  1. デモイン級は速力でなく火力で日本巡洋艦を圧倒する性格のフネでして機関は基本的にボルチモア級とおんなじで公試運転でも定格12万軸馬力に対して11%増しの13万3千軸馬力しか出してないところより見て計画上は10%過負荷ってトコロじゃないでしょうか
    駄レス国務長官


  2. そうなのですか。
    教えて頂きありがとうございます。
    Mk.63 GFCS


  3. 挙げられている雑誌は読んでいませんが、参考のために「過負荷出力」と「過負荷出力せ設計」の意味を教えて下さい。通常、「過負荷出力」とは、設計あるいは計画の最大を超えた出力のことを指しますが。例えば、「戦艦大和は最大出力15万馬力で最大速度27ノットとして計画され、設計されている。但し、海上運転では、過負荷出力の16万(16.5万?)馬力で27.4ノットを出している。」のような使われ方がなされます。現実には、商船であれ、軍艦であれ、極めて非常時を除いて過負荷運転はまずなされません。過負荷出力で設計等、小生は始めて目にしました。
    UK


  4. >3.
    日本海軍では「機関計画内規0300」(昭和6.5.1制定、昭和16.7.15改正)に「1.2.1タービン主機械力量及び蒸気消費率」として規定があります
    それによると過負荷全力(計画全力に対する%)は戦艦110、その他艦種105となってますので、大和型の機関部は計画全力150,000軸馬力に対して10%増の過負荷全力165,000軸馬力を許容すべく設計されたわけです
    なお上記の「註1.」として「主タービン力量は従来計画全力の約1.1倍を発生し得ることとし来ったが、これを艦船造修規則に合致する様に改正した(昭和16.7.15)とありますので、それ以前は艦種に関わらず過負荷全力は計画全力の110%程度で設計されていたことになります
    これは日本海軍に限らず他国海軍でも概ね同様と考えられますが、米海軍アイオワ級は例外的に20%増の過負荷全力で設計されたため文献に特記されたものと思われます
    駄レス国務長官


  5. 横から失礼します。

    >4.
     それは言い方を変えると「安全率」になると解釈していいんでしょうか?
     それとも機関各部の安全率とは別物なのですか?
    おうる


  6. >5.
    安全率とは別物です
    駄レス国務長官


  7.  第二次大戦時、戦闘時に必要があれば、過荷出力での運転実施は実施されます。特に米艦では実例が多く、大戦末期に機動部隊に随伴した中速戦艦ではその頻度が高いため、「これを通常運転として認めて欲しい(過負荷出力は更に上に設定)」、という要望が出されたという話もあります。

     蛇足ながら、アイオワ級は出力125%(254000馬力)による速力公試を実施した記録があります。
    大塚好古


  8. >7.
    あの〜、254,000軸馬力は計画全力212,000軸馬力の約20%増ですけど・・・

    > 速力公試を実施した記録があります。
    それは何時のハナシでしょうか?
    駄レス国務長官


  9. >8

    ああ、しまった記憶違いでした。深くお詫び申し上げますと共に、故にそこは忘れてください。
    大塚好古


  10. 3の「27.4」は、実際には「27,7」でした。訂正させて頂きます。
    21.2万の20パーセント増しは、ほぼ25,4万になります。松本氏(だったかな)の著書では、公試だったかなにかで最大35ノットをだしたという記載がありました。何か、わけが判らん設計、計画です。
    UK


  11. >10.
    あやふやな内容と個人的感想の書き込みはお控え願いたいものであります
    駄レス国務長官


  12. GE社ウォーレン氏の、おそらく戦中か戦後間もないころの論文の抄訳によると、
    マハン級駆逐艦でタービンノズル部を定格に対し蒸気流量で15%、馬力で10%の超過を
    見込み設計したとあり、少し時代が離れていますがGE社製タービンは
    このあたりを標準として設計されていたかと推測します。
    安全率に関しては具体的な数字を挙げていないものの、やや過大(保守的)であったという印象を記していますね。
    kimurada



859  WW2を生き延びたUボート艦長の自伝に、大戦末期信用できる艦長仲間と乗組員数人だけ集めてUボートで南米に亡命を計画したことが書いてあります。
敵から身を隠し大西洋を横断するだけなら数人で可能だったようです。

 また現代の巨大タンカーなどは10人前後で地球を半周します。
WW2当時の戦艦や空母は現代のタンカーのように移動するだけなら何人くらい必要なのでしょうか
トロッター

  1.  長門、酒匂のビキニ回航時のアメリカ人乗員は前者が180名、後者が165名となっております。これに日本人乗員が加わっていたかどうかは前者については不明ですが、後者については2名の日本人乗員の添乗が求められたが、断られたためにアメリカ人のみで回航されたそうです。
     もっとも、長門は、損傷のために10ノット程度しか速度が出ない状態であり、修理のためにエニウェトックに寄港せざるを得なかったとあります。したがって、多少の余剰乗員を乗せていたとは思いますので、これが最低限必要な人数とは思えませんが、参考までに提示させて戴きます。
     なお、御存知かとは思いますが、現在の船舶は自動化が進んでおりますのでそのような少人数の運航も可能になっておりますが、当時の艦船は保守管理も含めて多数の乗員を要したはずです。
     
    hush


  2.  あと「盗まれた空母」というアメリカの小説があり、空母イントレピッドを盗み出す話が載っています。そして、私の記憶が正しければ、その中に空母を動かすのに最小限必要な人数が記されていたと思います。ただ、何十年も前に読んだ小説で、手許にもありませんので、それがどのていどの人数だったかは定かではありません。また、イントレピッドは太平洋戦争時の空母ではありますが、ヴェトナム戦争まで使用されておりますので、ある程度のメインテナンス・フリー化が行われていた可能性も否定はできません。
     海外建造の艦艇の回航には武器関係の乗員も乗っておりますし(八雲、吾妻、千歳や笠置はどうだったか知りませんが)、解体の場合は曳航が普通かと思いますので、そのようにミニマムの乗員でというケースはほとんどないかと思います。したがいまして、ちょっと隔靴掻痒の感はありますが、このような回答ぐらいしか思いつきませんでした。
     
    hush


  3.  なお、Uボートの場合は、上記と異なって内燃機関ですので、乗員数が随分と少なくなります。たとえば、一番多く建造されたVII型の場合、乗員数は44名です。これを3直で回すのですから、1直あたり14名いればよい計算になります。これは、長距離行動が可能な\型でもほぼ同一です。
     その上、潜水艦ですから、航行しないのなら水中で待機すればよいわけです。したがって、時間がかかってよいのなら、乗員が1直分であっても南米までの航行は可能ということになります。また、魚雷や砲、さらには水測員まで必要としないのなら、Uボートを十人以下の乗員で運行するというのも、不可能ではないと思われます。
     しかし、蒸気タービンを使用する大戦期の戦艦、空母については、多数の機関部員が必要です。これでも、重油を燃料に使用するようになって随分と改善されたわけですが、水上艦艇の場合は潜航して待機することも不可能ですので、当然、最低2直、できれば3直の人員が必要となります。もちろん、ボイラーを1個だけ使うというようなミニマムな使い方で、乗員が疲れたら、洋上に漂泊するというような極端な使い方をするのなら、たとえ戦艦大和であってもかなりの人数を削減できるかとは思います。しかし、それでも十人以下というのはありえないと思いますし、「盗まれた空母」のような例以外では、そのような使い方をする理由が見つかりません。
     回答に対して、何ら書きこまれていないので、もしかすると、御納得されていないのではないかと思い、屋上屋を重ねてしまいましたが、これにて、回答を終了致します。
     
    hush


  4.  ご返事遅れてすみません。
    色々とありがとうございます。
    Uボート艦長の自伝以外にも大和とビスマルクで1000人も乗員の差があることなども以前からうっすらとした疑問でした。
     総乗員数や乗員の階級、兵器に配備される人数等は検索する様々なデータに出ているのですが、そもそも艦を動かすのに最低何人必要かという基本的な数字が意外に見つからなかったのでお尋ねしてみました。
     信濃の沈没時の航海から工員の数を引けばおおよその人数がでるかと考えたのですが工員1000人位とか大雑把な人数でよくわかりません。

     今、思ったのですが当時の貨物船やタンカーの人数が艦を動かすのにも一番近い人数かもしれないですね。また調べてみます。
    トロッター


  5.  御返事を強要して申し訳なく思っております。最近、どこまで返答させてもらってよいのか分からなくて、たまたま、そちら様のところで、書かして戴いたような次第で、他意はございません。御寛恕戴ければ幸甚に存じます。
     ところで、信濃に目をつけられたのは御慧眼かと思っております。なるほど、その例がありましたかと思ったような次第でありますが、信濃の場合、砲術長が着任しており、沈没時に亡くなられております。当然、砲術長しか乗っていないということは考えにくいですし、戦時下の回航に、対空防御を護衛の駆逐艦のみに任すこともなさそうなので、その部分の乗員は乗っていたと考えるべきであろうと思っております。
     では、当時の商船の乗員数から敷衍して考えるというのはどうかと申しますと、これは、あまり参考にならないのではないかと思います。というのは、当時のほとんどの商船が蒸気タービン推進ではないからです。もちろん、戦時標準船等でタービン搭載船もおりますが、これを除くと、一部の高速船で採用されているだけです。商船のほとんどはレシプロ(蒸気機関)かディーゼルでなのです。そして、レシプロの場合は缶(ボイラー)が必要ですが、ディーゼルの場合はいりませんので、これでかなりの乗員数が減ります。
     実際、これは軍艦ですが、ドイツのドイッチュラント級装甲艦の乗員は615〜951名とWikipediaにありますが、シャルンホルスト級戦艦では1668名、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦では1382〜1600名となっています。ドイッチュラント級の乗員が少ないのは、他にも理由はあるのでしょうが、ディーゼル推進だということが大きいかと思います。
     その上、商船の機関は1基1軸が基本ですが、軍艦は2基2軸以上が基本で、大和などは4基4軸です。当然、乗員数が増えます。したがって、レシプロの場合は缶が必要であっても、数も能力も異なりますので、同列には考えにくいとなります。もっとも、商船の場合は、石炭を使用するケースも多いので、これだと乗員が増えるはずです。
     では、他に方法がないのかと考えていきますと、軍艦には定数というものがあります。そして、長門の場合は、桜と錨様が海軍砲術学校 http://navgunschl.sakura.ne.jp/index.html の海軍法規類集の中で、戦艦定員表として公開されています。もっとも、これで航海科の人員が何人か分かるわけではないのですが、機関長機関中佐1というふうに、機関とつきますので、機関科の人数だけは分かります。もっとも、機関士官11、機関特務士官3、機関准士官4、機関下士官83、機関兵209合計310名と出しても、すべてが機関の運転に携わっているわけではないでしょうし、これは全機関を3直で運用するための数です。また、軍艦は死傷者が出るという前提の下に、余裕のある人員定数を定めています。したがって、概数しか出ないわけですが、これから考えると、ビキニ回航時の乗員数というのは、かなりギリギリの線ではなかったかと思っております。
     なお、大和とビスマルクで千人以上の乗員数の差がある点について疑問を呈されておられますが、Wikipediaでは新造時の大和の乗員数は2500で、最終時に3332となっております。これは対空兵装が大幅に増えたことが主因であろうと思っておりますが、ビスマルクの乗員は2092名ですので、新造時の比較では400人程度の差です。これは、大きさの差、主機の差(ビスマルクは3基3軸)、自動化の差等を考えていくと、それほど疑問のある差であるとは思えません。
     以上、長々と書かして貰いましたが、強要の段、重ねてお詫び申し上げます。
     
    hush


  6. 確証の無い記事を見つけまして、それを要約しますと、

    復員船として指定された葛城は当時乗員が47名(兵科27名、機関科12名、整備科1名、医務科1名、主計科6名)しかおらず、航行出来ない為、23名の人事発令したが、3名しか来ず。その後、交渉のもと機関科の定員の80%は確保した。

    逆に考えれば、機関12、整備1、主計6、+23の42名で航行できるのではと思いました。
    デスコン


  7. >6
     デスコン様、フォロー感謝申し上げます。
     亡父もナホトカから舞鶴まで乗っていたはずなのに、復員輸送というものがあったのを、すっかり失念していました。そこで、アジア歴史センターで特別輸送艦、定員で調べたところ、北上の定員表を見つけました。リファレンス・コードC12070534700の7ページ目ですが、そこには准士官以上13下士官、兵76と記されており、合計で89名となっています。そして、その中で缶を担当する下士官、兵が8名となっていて、その少なさに愕然としております。また、復員のためでしょうが、主計、衛生担当が結構な数乗っており、運航のみであれば、もっと少ない人数でいけたようです。したがって、葛城についての御推測は、正しいのではないかと思っております。
     もちろん、この人数で全速発揮は無理でしょうが、戦時における北上の最終乗員数が650名から考えると、随分少ない数であり、いかに軍艦というものが、乗員数において奢っていたかを思い知らされました。
     ありがとうございました。
     
    hush



858 イタリアの未成超弩級戦艦フランチェスコ・カラッチョロ級ですが、1番主砲塔と2番主砲塔、3番主砲塔と4番主砲塔の間が妙に開いているのですが、何故なのでしょうか?
3番主砲塔と4番主砲塔の間には機関が収まっているのかと思いきや、3番主砲塔の両脇に外舷機関が並列配置されているようですし、もっと間隔を詰めて配置することも出来るように思うのですが。
主砲塔の間隔を詰めて完全な背負い配置とする場合、同時期の英戦艦では爆風問題で上段主砲塔の首尾線方向への発砲が制限されていたはずですので、あえて間隔を広く取ってその問題を回避しようとしたのでしょうか?
きっど

  1. まず3番4番砲塔の離間は内軸主機が両砲塔間に収められてる所為で翼軸主機の3番砲塔両舷配置ともども独巡戦デルフリンゲル級と同様です
    1番2番砲塔の離間については不詳ですが完全な背負式とするには2番砲塔の高さが不足してます(1番砲塔が砲口よか前方なので首尾線方向の爆風の影響はむしろ大)
    思うに
    ・巡戦として計画され艦幅が広くないため復原性に配慮した結果2番砲塔が低目となった
    ・艦首幅不足のため水雷防御がらみで前部弾火薬庫が細長くなった
    ・被弾1発で2砲塔が沈黙せぬようあえて離間させた
    等の複合要因と考えられます
    駄レス国務長官


  2. 回答有難うございます。
    近代世界艦船事典さんの所の小さい画像では1番2番煙突の間に内舷主機っぽい白四角が有ったので、機関はシフト配置で内舷は長大な推進軸を持つのかと思いましたが、デアフリンガー級同様の機関と砲塔の配置でしたか。
    砲塔の高さは微妙に低そうだなとは思いましたが、やはり完全な背負い配置には不足していましたか。
    艦影図を見る度に、特に1番2番主砲塔の間が妙に広い特徴的な姿をしている割にはその事実に触れた説明なども無く、しかし明らかにバイタルパートの圧縮や防御重量に不利ではと思っていたのですが、特別何かが間に挟まっている等の決定的な理由は無さそうなのですね。
    きっど


  3. >1.は古い“Le Navi di Linea Italiane”(1969)中の伊文を英文と日文に機械翻訳したのですが、言われてみれば小職の読み違えかも知れません
    同書P290の3番砲塔中心における船体横断面図には砲塔基部左右に接して長方形の中に小丸が描かれており、これが内軸の軸路および推進軸のようですので>1.の冒頭1行は撤回します
    なお同書の防御の項では二重壁の水雷防禦縦通隔壁が船体中央左右に在るように読めますので前後部弾火薬庫(および内軸主機)がこの内側に収められてるのではないかと愚考します
    駄レス国務長官


  4. 機関はシフト配置だったのですね。
    ということは、高速力の為に極力船首船尾を細くしつつ水雷防御を施し、また復元性確保の為に砲塔の高さも抑えた結果、不完全な背負い配置となって砲塔間隔が広くなったと。

    >二重壁の水雷防禦縦通隔壁が船体中央左右に在る
    >前後部弾火薬庫(および内軸主機)がこの内側に収められてる
    外側のボイラーと外軸主機は、完全な無防備というわけでは無いのでしょうが半分水雷防御の外と言うことでしょうか。
    内側は充分な空間が有るので当時の水雷には安全でしょうが、けっこう割り切った設計のようですね。
    きっど


  5. 翼軸主機は前掲書の解説によれば水雷防禦縦通隔壁の外側とのことです
    主缶配置は詳細不明ですが半数以上が同様と考えられます
    前掲書でも「かなり斬新な計画」と評しています
    (船体横断面図によれば水雷防禦区画は船体最大幅の1/3未満ですから弾火薬庫もかなり細長いはず)
    駄レス国務長官



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