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289 もし自衛隊が准将から大将の将官四階級制になったら陸上総隊司令官、自衛艦隊司令官、航空総隊司令官は大将になるでしょうか?あれだけの兵力を指揮下に収めているのに中将というのは不自然な気がします。
ライヒスターク

  1.  旧海軍においても、連合艦隊司令長官は、あれだけの兵力を指揮下に収めているのに、平時は中将です。
     
    hush


  2. 平時にGF司令長官が中将なのは知りませんでした。ただ陸軍の総軍司令官は原則として大将だったので陸上総隊や航空総隊は大将にするという話になり、それとの均衡で自衛艦隊も大将ということになりそうな気がします。少なくとも制服組はそれを求めるのではないかと
    ライヒスターク


  3.  陸のことはよくは存じませんが、総軍等は戦時中に編制されたもので、平時の軍司令官は中将が基本ではないでしょうか(連合艦隊司令長官もそうですが、大将の軍司令官もおりますが、これらは例外でしょう)。また、制服組がそれを求めたとしても、決定権はありません。
     
     
    hush



288 戦前の日本陸軍には、関東軍、台湾軍、朝鮮軍などナンバーを有しない軍司令官職がいくつかあったようですが、陸軍省内においてこれらの軍司令官とナンバーを有する軍司令官の先任序列は、一般的にどちらの方が上だったのでしょうか?
備後ピート

  1. このような質問は、何故貴方が知りたいのかを最初に記載して下さい。
    また、例えば関東軍といっても時代により違います。確か、終戦時は関東総軍です。軍の名付け方も時代によって違います。
    UK


  2. あと、陸軍省内においても、不適切だと思います。
    UK


  3. 質問をするのにその動機を明示しなければならないとは、ここ十何年この板を利用させていただきましたが初めて知りました。
    質問の趣旨は簡単。どちらの先任序列が上か下かというごく簡単なことです。
    またわざわざ最初に戦前の〜と書いているのに、終戦間際の関東総軍を持ち出すなどろくに質問文を読んでいないんじゃないんですか?
    陸軍省内とあえて書いたのは会議の席次などで、先任序列が明らかになりやすいのではないかとと思ったからです。ただ単に不適切だと思いますというのは貴方個人の感想ですか?そのほかに客観的な理由があるならそれを示してください。
    備後ピート


  4. 一般的に、守備範囲が決まった軍は、その地域の名称を付されることが多い。戦争が始まって軍の数が増えればナンバー名称の軍が増える。これらの場合、重要な軍の司令官は、名簿の序列、先任順位が上です。そうでなくとも、前途を期待される中将職以上です。しかし、軍の名称、それもナンバー名の軍地域名の軍の軍司令官の先任序列等は、誰も興味を持たない事項です。
    人に教えを乞う以上、誰も興味を持たないと思われる事項に関する質問には、何故かかる事項に興味を持つかを示すべきです。
    会議の席次で先任序列が明らかになりやすいと言う理由も具体的には不明です。
    戦前といっても長期です。軍そのものの内容も規模も違います。それらも無視して質問されても答えようがない。
    UK


  5. 日本陸軍がどのような組織になっているのかを概略で良いですから調べてみれば関東軍や台湾軍などの位置づけが自然に呑み込めると思います。
    また「省部」という言葉も覚えておくと役に立つでしょう。
    陸軍には軍政、人事を司る陸軍省と軍令、作戦、動員を司る参謀本部、教育を司る教育総監部があります。
    「陸軍省内」と言ってしまうと関東軍などは含まれないのです。
    そしてこの場での「先任序列」のように、質問に使う用語も自分で意味がよく解っているものを選んで使うと相手に伝わりやすいということです。
    BUN


  6. BUN様。「陸軍省内」と書いたのは組織を意味するものではなく、「陸軍省の建物の中」のつもりでした。わかりにくくてどうもすいません。

    やたら質問の動機を気にされる方がおられるので、今さらながら書きますが、私の中では太平洋開戦時、台湾軍→第14軍に改称変更されてフィリピン攻略に従事した(当然台湾軍司令官の本間正晴中将が第14軍司令官となる)と思い込んでいたため、先任序列云々の問題はどうしたのかと思ったからです。駐屯軍と作戦軍の違いなどよくわきまえないで質問したため、無用の混乱を招いてしまったようです。思い込みはダメですね。もっと勉強を重ねないとと思います。
    備後ピート


  7. >「陸軍省の建物の中」のつもりでした。

    そうした自分自身にしか通じない表現は誤解のもとですよ。

    BUN



287  古代ローマ軍の役職名について質問です。

 ローマ軍の役職でプラエフェクトゥス・カストロルム【praefectus castrorum】というのがあります。日本語では「陣営隊長」とか「野営隊長」とか訳され、筆頭百人隊長(プリムス・ピルス【primus pilus】)を務めた人が就任する名誉ポストで、野営地の運営を担当する事になっています。

 ローマ軍は野営するたびに一々野戦築城しているので野営地=要塞になっており、野営地も要塞もどちらもラテン語ではカストルム/カストラなのですが、後に恒久的な要塞(カストラ・スタティヴァ)が登場した場合は管理する責任者のポストが別途必要になったのではないかと思います。
 で、「要塞の司令官」をラテン語であらわすと「野営地=要塞」なので、既存のプラエフェクトゥス・カストロルムと被ってしまうように思います。

 そこで質問なのですが・・・
1)「要塞司令」は「野営隊長」とは別の役職名があったのか?
2)「要塞司令」と「野営隊長」が同じ「プラエフェクトゥス・カストロルム」なら、何か使い分け方というか呼び変えというか区別する方法があったのか?

 以上です。よろしくお願いします。
おうる

  1. 誰も御答えがないようなので。

    以下、ローマ軍団を扱った小説からの知識なので、正確さは保証できないと承知してください。

    まず回答として、「要塞司令」は「dux」、「Legatus Legionis」、「Tribunus Militum」などが努めます。

    これは「野営地」でも同じで、要するに部隊の指揮官が「司令官」です。

    「praefectus castrorum」とは、ご自身がお書きになった通り、筆頭百人隊長が引退せずに軍に残った場合に与えられる名誉職であり、元は宿営地と装備、建物の計画・保守点検及び運営に「助言」を与える資格を持つ役職です。要するに超ベテランの下士官上がりの「特務士官」です。

    したがって正規の上級士官(佐官・将官)よりは格下ですが、戦闘時では副指揮官扱いされることも珍しくありませんでした。それだけの経験を積み実績があるのが普通です。ただ必ず居るとは限らなかったようです。

    結果として権限を持つようになり、castra/castrum の運用と保守を担当する「将官」の意味になります。司令官ではありません。これは要塞でも同じです。

    これらの陣営は、あらかじめ用途毎に用意されたプランを基に技術士官(architect)の指揮で専門の工兵が施工します。その際にアドバイスをするのは普通の事だったようです。居た場合は、ですが。
    タンジェント


  2.  回答ありがとうございます。

     元々ローマ軍の要塞は軍団と共に移動するので「要塞司令=軍団長」になるのは当然ですから、軍団のトップを意味するドゥクスやレガトゥス・レギオニスが要塞司令として表現されるのは理解できます。

     伺いたかったのは軍団と一緒に移動しない永久陣地として建設された常設要塞の司令官で、要塞から駐留している軍団が居なくなった際に要塞の管理や運用を担当する責任者の役職名は何だったのか?です。

     ただ、回答の中に軍団幕僚を指すトリブヌス・ミリトゥムがあるということは、要塞の司令官の職務は軍団の担当から独立せず、軍団幕僚の一人が要塞のトリブヌスとして責任を負っていたということになるのでしょうか?
     ただ単にプラエフェクトゥス・カストルムが空位の時に軍団幕僚の一人がプラエフェクトゥス・カストルムの業務を担当するという程度のことにも見えますが・・・
    おうる


  3. ローマ軍団の役職は、同じ名前でも時代により差異があり、また非常にフレキシブルだったようです。

    御質問の「永久陣地」にしても、状況次第で規模や意味が異なる場合があることは御存知かと思います。

    常設の守備隊がいる場合と、少数の留守部隊がいる場合では、「司令官」も「運用長」も異なるでしょう。

    前者なら、特に後期のローマ帝国なら、常設のpraefectus castrorumがいる可能性が高いでしょう。その場合の要塞司令官はduxあたりで、「総督」と訳される立場になり、必ずしも軍団と行動を共にしていないでしょう。(そうでない場合も多くあるようですが)dux は、複数の軍団の指揮権を持つ役職です。

    後者なら、特に少人数なら、残されたうちの筆頭百人隊長あたりが指揮をとり、彼の部下の誰かが運用を任されたでしょう。

    私が「要塞指令」に Tribunus Militum を挙げたのは、例えば長期宿営地が立地条件から小規模のものをいくつも造営せざるを得なかったような場合に、それらの宿営地の一つの指揮官として割り当てられていたようだからです。

    一個軍団が3カ所の冬季宿営地に分かれて冬ごもりした場合に、Legatus Legionis(一個軍団の指揮権を持つ役職≒軍団長)が、その一つの指揮官になり、残り二つにTribunus Militumを指揮官にしたことがあったと記憶していますが、なんせ小説ですので。その話では若い方のTribunus Militumにpraefectus castrorumを補佐につけていたと……
    タンジェント


  4. 回頭有難うございます。
    参考になりました
    おうる



286 軍隊符号についての質問です
第一総軍に属していた東京防衛軍なんかは,警備第一旅団だとか,警備歩兵第一連隊だとかがあります。
この「警備」はどう表すんでしょうか?

 ***

それと「https://ja.wikipedia.org/wiki/軍隊符号」によると、近衛歩兵第一連隊は「1Gi」だそうですが、連隊を表す「R」はどこへ行ったんでしょう?
明石

  1. 資料を網羅している訳ではないので、誤っているかもしれない上での回答です。

    恐らくですが、「警備」を表す符号そのものが存在しないと思います。
    『作戦要務令附録其ノ一』などの旧帝国陸軍の軍隊符号に関する資料を参照しても、「警備」という項目が見つかりません。
    また、軍隊符号は兵科や兵種、編制単位、常備任務(近衛や捜索)を簡略表記する為のものなので、部隊名に冠する名前としては第二線や本土・拠点の留守番任務を表す「警備」に符号が充てられていたとは考えにくいです。
    何らかの理由で略記しなければならない場合は、警備第一旅団なら「1警B」、警備歩兵第一連隊なら「1警i」という風に漢字混じりで表記していたのではないでしょうか?
    (漢字+アルファベットの軍隊符号は他でも実際に使われています)

    連隊の「R」省略について。
    陸軍の編制は連隊が「単一兵科の最大単位」なので、辞書では「歩兵科」「歩兵隊」と訳されているinfantryも、軍隊の編制上(軍事用語)としては「歩兵連隊」を意味しています。
    よって、「1Gi」は(1st Guard infantryと解釈すると思われる為)「R」が無くても「近衛歩兵第一連隊」という意味になります。
    他にも例を挙げると、歩兵第一連隊なら「1i」、騎兵第二連隊なら「2K」という具合です。

    では、「R」が存在する意味って…?となりますけど、ご参照のウィキペディアのページ記事にもあるとおり、歩兵や騎兵などの近代以前からある伝統的な兵科連隊以外の連隊を意味する場合、例えば飛行連隊(後の飛行戦隊)を表す「FR」だとかに使用したり、他では歩兵連隊でのみ運用される歩兵砲やその運用部隊「RiA」などを表すのに使いました。
    久住


  2. >久住様

    ご回答ありがとうございます。
    明石



285  無知なご質問お許しください。
五・一五事件,二・二六事件などの現役軍人の
クデータが失敗したのにもかかわらずなぜ軍部
の政治力が落ちるどころか増しっていったのでしょうか?
じおらま

  1. 直接の回答ではありません。というより貴君の状況は、簡単に回答できるような段階では無いと考えます。

    私の思い込みである場合は御詫びしますが、2.26事件なり5.15事件について、ある程度の知識があれば、この質問は出てこないと思います。なぜなら軍部の力の増大がクーデターを引き起こしたのであって、逆ではないからです。昭和帝の意思がなければ、クーデターは少なくともあの形で終わらなかったせしょう。

    まずウィキペディアでよいから読み通すこと。次に参照文献を、または新書で「2.26事件」を謳うものを、できれば2・3冊読むことをおすすめします。


    タンジェント


  2.  テロを認めたからでしょう。たとえば、5・15事件の際、海軍は犬養首相を殺害した三上卓中尉を禁固15年に処しただけで、それすら5年で釈放していますが、この人物は戦後もテロを計画しています。陸軍も同様で、最高が禁固4年というさらに軽微なものでした。
     2・26事件の際には、さすがにそういう軽い刑で済ますわけにはいかなかったようですが、実行犯の1人は死刑を免れ、5年後には釈放されています。
     尊皇討奸とか言っておりますが、奸臣として殺された人達は、軍事力の拡張を好まず、外交によって平和裏に物事を解決しようとした人物が多いわけです。しかし、軍部は、自らの拠りどころである軍事力の増強はしたいし、外交よりも軍事力でという軍人も多かったと思います。したがって、軍部の望まない方向にいこうとする政党政治家を邪魔者と見る者も多かったわけです。
     そういう中で、軍事裁判でそのような判決が出たということは、テロにかかるような者は軍に反対する者だから、命を落とすことになっても仕方がないと恫喝しているのと同じなのです。この結果、政党政治は崩壊し、2・26事件後に組閣した外交官出身の広田弘毅は、主要閣僚を軍の反対により入れ替えざるを得なくなり、1年後に議会を解散しようとした時には陸海軍の反対により総辞職、以後は軍人か、軍の意向におもねる人物しか首班になっていません。
     2・26にしろ、5・15にしろ、背後に軍部がいることは、当時の政治家にとっては自明の理ですので、沈黙を守らざるを得なくなり、軍部の台頭を許したというわけです。
     
    hush



284 鎮守府司令長官の幕僚の定員は、(連合)艦隊司令長官の幕僚と同じでしょうか?
また、鎮守府参謀が実際に受け持っていた分掌(作戦参謀等)もご教示頂けたら幸いです。
ご存じの方いらっしゃいましたら宜しくお願い致します。
ARST

  1.  アジア歴史資料センターの検索窓で 鎮守府 定員 を調べてもらうと、いくつか出てきます。
     もし、いつの時代のことかお分かりでしたら、絞り込み検索で年数を入れてもらえればと思います。
     
    hush


  2. >hushさん
    ご回答ありがとうございます。
    ご教示頂きましたサイトにて参照したところ、鎮守府の定員は分かりました。

    一方、鎮守府参謀の分掌は見付からず不明なままなので、引き続きどなたかにご教示頂ければと思います。
    ご回答・ご誘導お願い致します。
    ARST


  3. アジ歴にある鎮守府戦時日誌の「人員ノ現状」表ではだめですか?


  4. >片さん

    ご回答ありがとうございます。
    「人員ノ現状」表で結構です。
    というか、こちらの想像以上に情報が網羅されていて、求めていた情報として完璧でした。

    ARST



283 現在のアメリカ陸軍の大隊の指揮官の階級についてです。アメリカ陸軍では旅団の指揮官に准将が稀につくことがあると聞いたことがあるのですが、その場合旅団の大隊の指揮官の階級が大佐になったりすることはあるんでしょうか?

  1.  海兵隊の場合は大佐の大隊長がいるようで、 https://en.wikipedia.org/wiki/Battalion#United_States_Marine_Corps にA United States Marine Corps battalion includes the battalion headquarters, consisting of the commanding officer (usually a lieutenant colonel, sometimes a colonel)と書かれていますが、陸軍の場合はよく分かりません。
     ただ、旅団長が准将になった「場合旅団の大隊の指揮官の階級が大佐」に自動的になるとは思えません。もともと、Brigadierという言葉は旅団長と准将という2つの意味を持っており、旅団の指揮官である将官が原義ですので、旅団長=准将だったわけです。ところが、アメリカ陸軍の場合は大佐が任命されており、その中で功績等により旅団長のまま准将に昇進するものがいたとしても、それは、その個人に対するものですから、配下の大隊長が大佐に進級するということはありえないのです。
     
    hush


  2. ありがとうございます



282 師団や旅団に関連する質問です。
「戦車第一師団」と「第一飛行師団」で、構成する部隊の名前(戦車、飛行)の位置が異なります
そこで疑問に思ったのですが、「第◯」の後に構成部隊名が付くのは「飛行師団」だけですか?
また、「第◯」の後と前とで何か差はあるのでしょうか?
明石

  1.  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E4%B8%80%E8%A6%A7
     を見ますと、飛行師団以外にも航空師団が、番号を先にしているようです。飛行か航空かというのは、実戦部隊か、教導部隊かという違いですので、航空関係だけが他の兵種と異なる表記ということになります。
     また、第1飛行師団の編成を見ますと、第1飛行場大隊、第150独立整備隊、第6野戦航空修理廠、第10航空通信連隊、第20航空情報隊、第11対空無線隊、第20航空測量隊というふうに番号が先になっています。しかし、戦隊に関しましては、飛行第1戦隊というように番号が後で、整合性に欠ける部分があります。
     もっとも、団に関しましては、第1戦車団、第1歩兵団というように番号が先に来ておりますが、これは、戦車第1団、歩兵第1団というのが言いにくいからと考えられます。
     したがって、連隊を戦隊と言い換えることも含めて、これだけ航空兵科のみが部隊表記が異なるというのは、偶然ではないと考えるべきでしょう。しかし、その理由についてはなかなか難しい部分があります。
     ただ、大正時代においては、飛行第1大隊、飛行第1連隊というように、他兵種と同じように番号が後に来ています。番号が先にくるようになるのがいつかは、まだ調べきれておりませんが、1925年の航空兵科の独立以降ではないかと思っております。
     ところで、この1920年代だというのは、空軍独立論、航空主兵論が高まっていた時代です。21年にイタリアのドゥーエが打ち出したこの理論は、航空は陸海軍と同等の空軍になるべきであるというだけでなく、主戦力であるというもので、同じ年にアメリカのミッチェルが、実艦標的ではあったものの、航空機が戦艦を沈めることが可能であると立証したこともあって、世界中に広がります。もちろん、これには反対意見も多かったのですが、そのような中で航空部隊の名称を陸軍の他兵種と異なるものにしたという考えも成り立つのではないかと思っています。
     もちろん、これは私の勝手な思い付きであって、具体的な証拠があるわけではありませんので、その点、お含みいただければと思っております。
     
    hush



281 独立混成第9連隊について調べていたら、第71歩兵団司令部を根幹に歩兵二個連隊と砲兵大隊、工兵中隊を指揮下に加えた第五派遣隊を改編したものだと知りました。
もしや二個連隊以上の諸兵科連合部隊を「連隊」にしてしまったが唯一の例ですか。それとも、単にニコイチの要領で3個歩兵大隊を作って普通の混成連隊になっただけでしょうか。独立混成第9連隊の詳細な編成を知りたいです。戦力消耗で再編成されただけとは判断しきれませんでした。
げしゅたぽ

  1.  独立混成第9連隊の編制については戦史叢書第13巻中部太平洋陸軍作戦(2)のp603-7に載っております。
     http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=013#
     の315-7コマを御覧下さい。
     
    hush


  2. なるほど第五派遣隊がそもそも二個連隊基幹というのが間違いで、最初から各連隊から抽出した大隊をもって結成された連隊規模の集団だったのが正式な連隊になっただけなのですね。hushさんありがとうございました。
    げしゅたぽ



280 シンプルな質問をさせていただきます。

グルカ兵はなぜ強いのでしょうか?
PIAT

  1.  質問を補足します。
     雑誌『GQ』のWeb版に多くのグルカ兵のインタビューが掲載されており、彼らの故郷の貧しさと自然環境の過酷さが、彼らの特徴である勇敢・頑健・敏捷を生んだことがよくわかります。
     ただ、インパール戦でグルカ兵と戦って捕虜となった会田雄次の『アーロン収容所』には彼らの別の面が書かれています。
     グルカ兵は軍規厳正で、どんなに暑くても(インド兵と違って)軍服のボタン一つ外すことはなく、また時間に正確で、倉庫の警備兵は決められた時間どおりに巡回するので、かえって盗みをしやすかったとのことです。
     「規則を守る」「時間を守る」というのは、近代社会の初等教育で身に着ける習慣であり、ヒマラヤの山村で体得するのは難しいと思います。
     

     
    PIAT


  2.  グルカ兵がなぜ精強かというと、彼等が選ばれた者だからです。もっとも、選ばれた者というのは、選民思想でも何でもなく、文字通りの意味です。
     https://world-note.com/gurkhas/
     上記によると、現在、イギリスのグルカ兵部隊は年間200名ほどの新規募集があるそうですが、希望者は万を超えるそうです。つまり、500倍の倍率を超えられる選ばれた者の集団なのです。その上、常に高地トレーニングをし続けてきたような人達の中から選ばれた者であり、体力だけでなく、数学や英語の力まで選考基準に入っているのです。
     ところで、なぜ、ヒマラヤの山村で体得するのは難しいと思われるのかのほうが、私には疑問なのですが。
     私自身が信号機もない山村に生まれ育ったので過剰に反応しているだけなのかもしれませんが、何人かネパールの人を知っているので、余計に思うのです。
     実際、山村で生活していると、山の上は日が照っているのに麓は早く暮れますので、時刻を守らないと下山できなくなります。また、田舎のほうが、いろいろとうるさい部分はあるので、規則の質が異なるかもしれませんが、守らないと生活できなくなります。そういうのは学校で教えるものではなく、家庭、もしくは土地の集団の中で身につけるものだと思っています。
     こういうのをあげつらうのも心苦しいのですが、そちら様のよう方でもそのようなことを書かれるのかと驚いて、思わず書かしてもらったような次第です。
     
    hush


  3.  50倍ですね。
     
    hush


  4. えー、別の切口から
    中国などでも勇猛で知られる少数部族がいたりします
    そういった部族から徴兵・募兵してさらに鍛え上げ精鋭にしようというのはごく自然な発想だと思われます。
    その部族が昔から傭兵として戦場に出てたりするなら尚、でしょう。
    その成功例の最たるものがグルカ兵なのでしょう

    より良い人材を求めて・裏切られない様、グルカ兵の待遇は給与も含め大変に良いものだそうです。要求される能力も知力を含め相当なものですが。(上の方もかいてますね)

    あと規律云々ですけど新兵訓練をブートキャンプと言ったりしますね
    これ、どっちかというと規範意識を叩き込む意味合いで初期化合宿というらしいです
    初等教育を受けてすら規範意識の薄い新兵に規律を叩き込めるのですから、いわんや選抜をくぐり抜けた猛者ならば。
    むしろ、現代教育を受けた権利意識だけが高い都市部の方が大変らしいですよ。(というか、徴兵制から志願制に変えた米の場合ですが。訓練教官のボヤキより)
    がちょう



279  hush様 お久しぶりです。かわうそでございます。
 迅速な回答ありがとうございました。
 藤井非三四氏の『知られざる兵団 帝国陸軍独立混成旅団史』を読んだんですが
 よくわからなかったので質問させていただきました。
 やはり、独混15連隊は、やはり近衛が基幹ということで戦争末期にも
 かかわらず連隊旗が授与されたんでしょうかね?
 とにかく長年の疑問が解消されました。
 重ねて御礼申し上げます。
 
 
 

かわうそ

  1.  すみません。ボーとしていて新規質問のほうに投稿してしまいました。
    管理人様、お手数ですが削除のほどよろしくお願いいたします。
    かわうそ



278  沖縄で戦った独立混成第44旅団の編成について質問です。
独立混成第44旅団は、「第一歩兵隊」及び「第二歩兵隊」その他で構成されていますが、この「歩兵隊」とはどんな編成なのでしょうか。調べてみると、歩兵3個大隊からなっているようですが、これは歩兵連隊と同等の兵力でしょうか。また、それなら歩兵連隊とせずに「歩兵隊」と呼称したのでしょうか。
どなたかわかる方がいたらご教授ください。
よろしくお願いいたします。
かわうそ

  1.  もともと独立混成旅団は中国での治安維持用に後備兵からなる4-5ヶ独立歩兵大隊と通信隊、砲兵隊、工兵隊等で編制されたものですが、独混44の場合は唯一6ヶ歩兵大隊からなっています。このため、旅団長が直接指揮するには大隊数が多すぎたと判断されたのと、元の部隊が鹿児島第45連隊と都城第23連隊と異なることから、第1、第2歩兵隊に2分割されたと思っております。
     しかし、両隊は沖縄進出中の1944年6月29日に乗船中の富山丸が被雷沈没し約3700名が死亡という全滅に近い被害を出します。このため、第1歩兵隊は復帰解散となり、救助された約400名を基幹として第2歩兵隊のみが再建され、第1歩兵隊の代わりに新編されたばかりの独立混成第15連隊を編入しています。
     したがって、沖縄戦時の独混44は独混15連隊と第2歩兵隊、重砲兵第7連隊、旅団工兵隊、砲兵隊で編制されているのですが、15連隊と第2歩兵隊の編制は、前者に歩兵砲隊、工兵中隊が付属している以外はほとんど同一で、指揮官もともに大佐です。
     では、どこが違うかというと、第15連隊には連隊旗があるのに、第2歩兵隊にはないという点です。それがどうしたとなりそうですが、連隊旗は天皇より親授されるものとなっており、天皇そのものと考えられていました。このため、その有無というのは、今日的視点から考えると馬鹿げた話ですが、非常に重要であったわけです。
     また、独立混成旅団の場合は基本が後備兵ですので、根こそぎ動員されたこの時代にどれほどの差があるのか疑問ですが、この点が異なります。
     
    hush


  2. hush様 お久しぶりです。かわうそでございます。
     迅速な回答ありがとうございました。
     藤井非三四氏の『知られざる兵団 帝国陸軍独立混成旅団史』を読んだんですが
     よくわからなかったので質問させていただきました。
     やはり、独混15連隊は、やはり近衛が基幹ということで戦争末期にも
     かかわらず連隊旗が授与されたんでしょうかね?
     とにかく長年の疑問が解消されました。
     重ねて御礼申し上げます。
    かわうそ


  3. >2
    >「戦争末期にもかかわらず連隊旗が授与されたんでしょうかね?」
     それもそうだなと思って調べなおしましたら、連隊旗(正確には軍旗)は歩兵連隊と騎兵連隊にしか授与されていないということが分かりました。したがって、きわめて鄭重な御礼をいただいた直後で非常に心苦しいのですが、独立混成連隊には軍旗がなかった可能性が高いです。御免なさい。
     実は、「知られざる兵団:帝国陸軍独立混成旅団史」を私も読んでいます。というのは、亡父のいた部隊が独立混成第15旅団で、どういう部隊だったか興味があったからです。そして、その結果として、専門外であったにも関わらず、つい回答させてもらったわけですが、馬脚を現してしまったというような次第で、申し訳なく思っております。
     同書をお読みになっているのなら、独立混成旅団には連隊がなく、直接、大隊が置かれているというのは理解されていると思いますが、このため、6ヶ大隊を配備された際に、これは多すぎる、連隊を編制してもと考えられたが、建前として連隊は置けないので、かつてあった歩兵隊という名称を引っ張り出してきたのだと思っています。しかしながら、部隊の海没という事態の出来によって、富山丸沈没の3日前に編制を完結したばかりの独立混成第15連隊が編入されたため、旅団の中の同じ3ヶ大隊を持つ部隊なのに、片や歩兵隊、片や独立混成連隊という不統一が生じたと考えるのが、筋の通ったところではないかと思っております。
     なお、同書には第15連隊の編制定数が2150人と書かれていますが、歩兵隊の定数は書かれていませんが、海没により3700名が死亡、400名を救助とありますので、だいたい2000人規模のものだったと思っております。再建後の兵員数がどれだけになったのか分かりませんが、定数としては似たようなものであったのだろうと思っております。
     
    hush


  4.  hush様
     ご丁寧な回答痛み入ります。
     やはり、旅団司令部が指揮できる独立歩兵大隊は4〜5個が限界ということで
     6個大隊になると途中に歩兵団という結節を置いたいうことですね。
     また、お父様は、独立混成第15旅団にいたとういうことですが
     筆舌に尽くしがたいご苦労をされたのですね。
     うまい言葉が見つかりませんが、お父様の魂が安らかに眠れるようお祈りいたします。
     
    かわうそ


  5. >4
     鄭重なお言葉をありがとうございます。
     ただ、独混15というのは北京駐在の上に、亡父は旅団司令部付の主計兵、それも敗戦の年には曹長までいった古参兵で、手紙なども上官の印鑑を勝手に押して検閲済みにして出していたと言うぐらいですから、「筆舌に尽くしがたいご苦労を」したかどうかは存じません。もっとも、その頃の話というのは、ほとんどせずに逝きましたので、実際のところは藪の中です。
     もっとも、ソ連に抑留されておりますので、そういう目に遭わなかったわけでもないとは思っています。
     どちらにしろ、お心遣い、感謝申し上げます。
     
    hush



277 連続投稿すみません。
自衛隊の昇進や教育、訓練の事で質問です。
子供のころ長野県で親戚の結婚式に訪れた際お世話になった方が、第12師団(当時)の「山岳レンジャー」出身でいい歳(退官済み)
だったのですが、時期不明ですが、曰く曹候補生(?)で入隊、長野の普通科連隊配属でで「山岳レンジャー」第1空挺に移って
「空挺レンジャー」「A級射手」を取って、その間に幹部になって、北海道の冬戦教にしばらく居て「冬季遊撃レンジャー」
「部隊スキー指導官(?)」取って普通科教導連隊へ、最終的に長野の普通科連隊の第3科で退官といったすごい人だったらしいのですが、
当時は自衛隊の知識に疎く、今となっては法螺話だったのかもと思い始めてます。(当時アルバムで旧迷彩を着用した写真で、
胸にいっぱい徽章付いた姿を見ましたし。実際に任官して初めて取ったと言った、旧迷彩の布製レンジャー徽章の実物を触らさせてもらい信用しました)
こんな経歴本当に可能なのでしょうか?詳しい話を聞きたいものですが、既に他界されているとの事でした。
(今お元気だったら、小林源文が漫画で描いた冬戦教がブラックベレーと髑髏の旗を持ち、ベトナム戦争に参加したといった話は本当か?
など聞きたい事が沢山あります)
また長々と垂れ流しましたが、要はこんなス−パーマンじみた自衛官居るのかな?といった質問です。
通りすがりです

  1. 休憩終わり、夜戦(サービス残業)再開します。
    通りすがりです


  2. >旧迷彩の布製レンジャー徽章
    検索してもそれらしい徽章(OD色ならヒットする)が有りません。制式品じゃないのかも。
    中断シテタ夜戦、再開ス。サラバ。
    通りすがりです


  3. さすがに1の書き込みは、ないんじゃないかい?
    これのせいで、ここしばらくの書き込みが全て不真面目に見えてしまう
    ご自身が損するだけですぜ
    なあ・・


  4. >1.
    他の方の心情も考えない書き込みでした、反省して陳謝いたします。大変申し訳ありませんでした。
    通りすがりです


  5. 私の説明不足もあるんですが、なんか少し勘違いされてる様なので・・
    他の質問などで書かれている、長文〜・他所でわかりづらいと言われた〜と関連するんですが。

    これは質問したい事・必要な情報と、喋りたい事・聴いて欲しい事をごっちゃにしているから、そうなるのです。
    質問を無理矢理一行にして、そこから不足情報・説明を付け足す様にしてみてはいかがでしょう。

    そして、余計な事を書いているせいで知りたい事がボヤけた文を連発してるなぁ・・という状況の中で1の書き込みは、何?また構ってちゃん?と見る人も出てくるでしょう。私もそう疑いを持った一人です。

    不快感を表明しつつ、忠告として、マズい事を重ねてやってますぜこのままだと自分が損するだけですぜ、と言っているのです。

    ヲチスレかなにかで苦情が出てるなら、どーせ誰かを叩きたいだけだろと決めつけず、ちょっとマズい兆候かも・・ぐらいには受け取った方がよろしいかと・・
    なあ・・ その2


  6. どうにも投稿が代替残業終わりとか休憩時に上げるので、残業ハイのまま文章をよく考えずに書きなぐってしま事が多かったです。これからはもうちょっと考えてから上げようと思います。
    ご助言有難うございました。
    通りすがりです



276 関ヶ原合戦の補給兵站について質問です。
東軍西軍合わせて18万の兵員(諸説あり)の兵糧(兵の食糧や軍馬のまぐさ等軍事物資)の輸送はどの様にして美濃の関ヶ原まで届けられたのでしょうか?
東軍は東海道の諸大名の協力、西軍は瀬戸内の海運と大阪城の物資集積で臨んだように思いますが。
最後の大集積所の大阪から関ヶ原まで約150km。東軍はよく解らなかったのですが、東海道の補給路も江戸時代ほど整備はされていなかったでしょうし、
同時期のヨーロッパの大国でも数万人の兵隊を進軍させるのに四苦八苦しています。
東軍西軍合わせて18万の兵員(諸説あり)の兵糧(兵の食糧や軍馬のまぐさ等軍事物資)の輸送はどの様にして美濃の関ヶ原まで届けられたのでしょうか?
東軍は東海道の諸大名の協力、西軍は瀬戸内の海運と大阪城の物資集積で臨んだように思いますが。
最後の大集積所の大阪から関ヶ原まで約150km。東軍はよく解らなかったのですが、東海道の補給路も江戸時代ほど整備はされていなかったでしょうし、
同時期のヨーロッパの大国でも数万人の兵隊を進軍させるのに四苦八苦(欧州の軍では4頭立ての馬車でで1tの物資を輸送)
それでも陸路はほとんど補給に適さず海運と河川運輸と陸路では従軍商人と現地での略奪で賄っていましたし。
もし自軍の部隊でも先に進軍路を進まれていれば(先行した部隊に略奪されるため)略奪されていない他の進軍路を選ばなければいけませんでした。
この事は鉄道網が敷かれ、近世(ほんのある程度)ましになりましたが。16〜17世紀、欧州は10万人を超える野戦による大戦争は無かったように記憶しています。
なぜ日本では大軍が馬車も無く(道が悪くていわゆる荷馬に駄載、江戸時代の絵で馬一頭に米俵3俵、戦国時代は米1俵=60kgではなかったかと思いますが、まあ仮に1頭180kgしか運べません)
もし明治36年に採用された一頭立ての三六式輜重車が有っても(調べても改良型の三九式輜重車しか出てきませんでしたが)
220kgしか輸送できませんし、そもそも補給部隊の兵卒、軍馬で物資は減ります。
両軍は欧州と違いどの様に10万の軍隊に軍事物資を運んだのでしょうか?
M・v・クレフェルト「補給戦─何が勝敗を決定するのか」を読んで思いました。

通りすがりです

  1. >東軍は東海道の諸大名の協力、西軍は瀬戸内の海運と大阪城の物資集積で臨んだように思いますが。
    最後の大集積所の大阪から関ヶ原まで約150km。東軍はよく解らなかったのですが、東海道の補給路も江戸時代ほど整備はされていなかったでしょうし、
    何回同じ質問を書いてるのか……ほかのQ&Aでも同じ失敗をしてます。長文書きすぎて頭のねじ緩んだと思ってください。
    駄文です、いやほんとにすみません、ごめんなさい。
    通りすがりです


  2. 組織論だったのでここに質問しましたが、戦史、歴史の方が良いと思いそちらに貼りなおします。ここのの方がふさわしいと思った方はこちらに回答ください。
    ご迷惑おかけしました。
    通りすがりです


  3.  基本は舟運でしょう。西軍は大坂から淀川、宇治川、瀬田川を通って琵琶湖を北上して米原あたりに出れば、すぐに関ヶ原です。
     東軍は伊勢湾を北上して揖斐川を遡行して、牧田川なり、相川を使えば、関ヶ原のすぐ近くに出れます。
     東海道53次の絵を見ても、荷物を運ぶ人馬はほとんど見られませんが、沖合いには帆掛舟が浮いているように、この時代の物資輸送は舟運が主流です。そして、それだけの物資を輸送するには、この当時の陸路では不可能です。
     なお、愛知県の内陸部に津島市という所がありますが、江戸時代まで海に面しており、信長の台所と呼ばれるほどの港町でした。関ヶ原の戦いのときも、ここが重要な物資集積所になったのではと愚考致しておりますが、証拠はありません。
     歴史のほうかなとも思ったのですが、こちらのほうに書き込みがあったので…。
     
    hush


  4. hush様、ありがとうございます。
    歴史の方にも書きましたが。
    どうも文書が阿呆のように長すぎですね、
    要は西洋で大軍を動かすのに四苦八苦していたのに、日本の兵站(ミリタリーロジスティクス)では関ヶ原まで東西両軍が10万近い兵をを動かしていたのか。
    (西洋東洋とわず16世紀〜17世紀の戦場での補給方は略奪が多い)その違いが知りたかったのです。
    陸路では無理だとは思ってましたが、確たる内陸水路が解らず、(特に東軍)心に引っかかっていました。
    通りすがりです


  5.  昔、関ヶ原で戦闘があった時、農地を耕していた人がいたと聞いたことがあります。その後、類話を聞きませんので、本当かなと思っていますが、戦国時代の武将は掠奪をあまりしていないようです。
     というのは、関ヶ原に向かう場合、両軍とも味方の陣営を通っていくのですが、自国以外の武将にとっては、通らせてもらうという感覚になります。また、敵国を攻める場合においても、へたに掠奪すると占領してからの造反が怖いとなります。
     今、「軍需物資から見た戦国合戦」(2020年吉川弘文館)という本を読んでいますが、こちらでも、基本は購入で、徴発する場合でも、あとで代価を支払っています。
     もちろん、掠奪もあるのですが、進撃路や補給路の確保のために、武将同士で贈り物をしあう状況なので、可能な限り購入ですましているわけです。
     欧州と比べると補給路も短いですし、河川の利用もしやすいです。また、兵糧も米か糒(乾飯)が主ですので、かさばりません。ただ、戦費がかさむのは事実で、そこをどうやって調達していたのかということのほうが興味があります。
     また、この結果として、旧日本軍の場合は補給ということをあまり重視せずに対外戦争を行い、多くの餓死者をだすとともに、大変な掠奪行為を行ってしまったということにもなりそうです。
     なお、関ヶ原の戦いで、大久保長安は中山道の補給路を云々という記述もあるので、海路のみが輸送路であったわけでもないようです。
     
    hush


  6. hush様、いろんな所で回答本当にありがとうございます。
    たしかに羽柴秀吉の中国攻め(朝鮮の役ではありません)の時も、西洋の軍隊が城塞の包囲戦でしばしば自軍の食糧
    (麦なのでパンにしなければならないしかさばる)や軍需品(特に軍馬に必需品のまぐさ)が欠乏したことが多い中、
    攻城戦で「鳥取の渇殺し」と呼ばれる兵糧攻めを採用し、敵支配地での穀物買い占めすら行っていましたね。
    また、その後の中国大返しの時も自軍の備蓄基地を逆にさかのぼって(多分、関ヶ原での西軍同様に瀬戸内の海運と
    内陸河川での補給を受けつつ)山崎まで駆け付けたと思います。これは秀吉が兵站に特に優れているだけで、
    織田氏以前の戦国武将は武田氏だろうが上杉氏だろうが敵地で略奪しつつ、小荷駄の物資が尽きれば合戦はお開き
    (武田、上杉両氏がダラダラと川中島で合戦を何度も続けた理由はそこにあると思いますが)だと思っていました。
    私も「軍需物資から見た戦国合戦」を読んでみたいと思います。貴重な文献の情報ありがとうございました。
    通りすがりです


  7. ちなみに、「孫子の兵法」でも補給に関しては「敵の兵糧を1俵食うのは自軍の兵糧100俵食うのに等しい」(的な感じでしたが、
    原典でなく解説本を流し読みしただけです)とえらく補給を軽視してるなと感じました。中国でも「堅壁清野」と言った籠城を前提
    とした焦土戦術もありますし、そもそも(西洋ですが)古くは紀元前219年からの第2次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)
    で後方からの補給を切り捨てたカルタゴ軍が、アルプス越えでローマ軍に戦略的奇襲を成功させたものの、ローマ軍が持久戦略を採用して
    最終的にカルタゴ本土そのものに勝利したり。第2次世界大戦の独仏戦である(マンシュタイン・プラン)でも、
    装甲部隊に補給部隊が追い付かず(トラック部隊だけでは手が足らず、結局馬車に頼る羽目になった為)
    戦車が仏国内のガソリンスタンドで給油(代金払ったのかわかりませんが)する事に……。
    古代から敵支配地で戦うには補給が続かないので結局、略奪に走るのが前提なのかなと考えておりました。
    通りすがりです


  8. またまた、脳内麻薬の赴くまま、駄文を長々と垂れ流し知ったかぶりました、すみません。
    連休も終わるのでしばらく大人しくROMってみます。(我慢できずにまた駄文を垂れ流すに1兆パピアマルク)
    通りすがりです


  9. 関ヶ原の合戦に東西18万人というのは、後から作られた俗説で実際にはよく分かっていません。

    で、本題ですが色々あります。
    まず、大前提として、兵糧は諸大名が自前で用意しました。国を出発するときに用意しておくのです。当時の兵役帳を読むと軍勢の半分は兵糧や武器を運ぶ人達です。彼らが行軍しながら運んでいました。

    また、地元の豪農や大名からの寄付もありました。食料や金銭を差し出すことにより、兵が自領を荒らさないという、書状が貰えました。効力は不明ですが、書状は飛ぶように売れたとのことで効果はあったのでしょう。

    それでも、米はいいとして腐るものとかは無理があります。それは現地で書状がない所から略奪しました。

    まだ、方法はありまして、商人が行軍の先で市をたて兵糧を売りました。そこで購入することも可能でした。

    最後の方法は同じ大名に売って貰うです。そのため、戦場に金が転がっているというのは、食料事情が豊かな大名にとってあながち嘘ではありませんでした。

    まぁ、この様に兵糧は工面されていたのです。



    じゃんご


  10. 最後に同じ大名のところは、他の大名に売ってもらったの誤りです。
    じゃんご



275 日本では商船業界は海軍(海自)を恨んでいると良く聞きますが、具体的には何がまずかったのでしょうか?

実際に大変な目に遭った船員達の感情は良くないだろうというのは分かりますし、悪化する戦況に伴って凄まじい犠牲が出ているのも確かですが、「あの戦争の苦い記憶」という感じではなく「業界が海軍を今でも恨んでいる、海自になっても不信」と思われているというなら、何か戦争そのもの以外にも理由があるのだろうかと思ったのですが…。


みがも

  1.  今もそうなのかどうかは存じませんが、私らの親の世代、つまり戦前に生まれた世代にはそういうのはありますね。
     戦争で散々苦労してますから、軍だとか、戦争だとか、絶対にいや、再軍備なんてもってのほかです。ですから、1960年代の安保闘争の時代には、小学生が、岸さんは悪い人ですと、A級戦犯被疑者だった岸信介首相(佐藤栄作の兄で、現首相の祖父)のことを書いたという話があるぐらいです。
     実際、義理の伯父などは、陸軍航空隊におりましたが、戦争から戻ってきたら、親が空襲で死んでいたわけですから、自衛隊から誘われても断り続けて民間へ行ってます。だいたい、石油の禁輸が戦争の原因だと言うが、それで困るのは軍だけである。戦前の日本に、村にある車なんて1台あれば上等だ。教官として、たくさんの子供を特攻に送り出したが、誰がその責任を取ったのだというわけです。
     船員の場合は、そこへ恩給の問題が来るわけです。近所の小母さんは、あなたとこの叔父さんは兵隊で死んでいるから軍人恩給が貰えていいよね、うちの夫は徴用されて戦争で死んだけど、船員だったからと、真顔で小学生の私に言っていたのを今でも覚えています。
     http://www.kenshoukai.jp/taiheiyo/taiheiyou01.htm
     上記によると、戦争中に日本の船員の43%、6万579人が亡くなられていますが、そこにありますように軍の死亡率の2倍以上という高率です。しかも、ほとんど非武装で、無茶な航海をさせられた上でです。にもかかわらず、軍人ではないという理由で、充分な補償が受けられていないわけです。
     実際のところ、補償額にどの程度の差があったのかは存じませんが、軍人よりも大変な思いをしたという自負はあるのに、軍人よりも低い補償で済まされたら、恨んでも仕方ないだろうと思っています。
     
    hush


  2. 回答ありがとうございます。単に戦争で苦労したというだけの話ではなかったのですね…労苦に対して充分に責任を取ってくれたと思えないというのであれば、確かに不信を生むのでしょうね。徴兵された方も含めて軍隊で働いたことに報いる為にも軍人恩給等の保障は必要だったのかもしれませんが、民間人の協力としての船員のような方々まで十分な保障が行き渡らず、遺恨を生んだのだとすれば残念なことではあります。
    みがも


  3. 昔の事でうろ覚えですが。軍属は徴用馬と大して変わらない恩給だったと言われた記憶が有ります。
    また、これは実際に靖国神社に行ったことが無いので本当に不確定情報ですが、「軍人なら本殿に祀られるが、軍属は軍馬や軍鳩と同様に扱われた」と言われた事が有ります。
    靖国神社に実際に行かれた方に本当か聞いてみたいものです。
    通りすがりです


  4. https://togetter.com/li/626456
    良かったらどうぞ。
    メイスン



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