920 いわゆる「ラバウル航空隊」について教えてくださいませ。

第1航空隊(1空)戦闘機隊が昭和17年6月以降ラバウル方面で活動していた〜といった記述がいくつかの歴史雑誌・ネット情報に見られますが、これは本当なのでしょうか?

「1空飛行機隊戦闘行動調書」によると、昭和17年4月から752空へ改称となる11月まで、1空戦闘機隊はマーシャル諸島タロアでの活動しか記録がありません。この時期にラバウル方面へ進出した1空戦闘機隊としては、昭和17年5月末、千歳空との混成戦闘機部隊(分隊長・山下丈二大尉)がラバウルに進出していますが、即日「台南空」に編入されています。※私の不勉強かもしれませんが・・・1空の部隊記号「Z」を表示したラバウル方面での零戦画像も見たことがありません。

1空戦闘機隊のラバウルでの活躍(?)について、どのような情報でも結構ですのでご教授いただければ幸いです。
OSA

  1. 実は24航戦からラバウルへの零戦派遣は2度あり、1回目は5月18日0620の基地航空部隊電令作第二二号により、「第四空襲部隊指揮官は千空、一空各戦闘機隊より零戦有経験者成る可く多数(未熟者教育用のものを残し)RRに派遣し第五空襲部隊指揮官の指揮を受けしむべし 派遣期間一ヶ月」との命令により、24航戦司令官は同日0940、4AB電令作第二九号により「1.指揮官 一空分隊長、搭乗員 千空12名一空3名(但し分隊長一名を含む 本搭乗員には千空よりの一時転勤者を含まず)2.右派遣搭乗員は明後二十日迄にPQBに集合すべし」と命令しています。
    25航戦戦闘詳報には、5月25日に「零戦15機(24sfRR派遣隊員14名)PTより着」とあり、何故か搭乗員は飛行機より1人少ない14人となっています。一空は分隊長の山下丈二大尉、菊地左京一飛曹、岡野 博三飛曹の3人、千歳空は栗原克美中尉、山下佐平飛曹長、小林克巳一飛曹、中本正、古森久雄二飛曹、大西要四三、井原大三三飛曹、二宮喜八、菅原養蔵一飛(あと2名いるはずですが、私には誰かわかりません。)の11名。
    この方達は派遣期間1ヶ月の予定で、6月23日には基地航空部隊指揮官は、4ABに対しラバウル派遣の艦戦搭乗員の交替を下令し、翌24日、4AB指揮官は、第二次派遣隊(准士官以上1,下士官兵一空千空各3の6名)の編制を決め、派遣隊員は26日ルオットに集合するよう下令しましたが、翌27日夜のウェーキ空襲により、基地航空部隊指揮官はラバウル派遣隊員の交替を当分の間延期する旨下令、交替員の派遣は中止されます。
    その後、7月6日、基地航空部隊指揮官は、ラバウル派遣隊員を交替する代わりに、現派遣隊は台南空に対する新補充搭乗員到着後原隊に復帰し、以後状況によって4ABから建制の戦闘機一コ分隊ないし二コ分隊を同方面に増援させる旨下令しますが、結局復帰できないまま8月27日までに少なくとも半数の7名が戦死してしまいます。
    2回目の派遣は8月26日2004の基地航空部隊電令作第七七号による「4AB指揮官は成る可く速やかに4AB一号零戦隊約一個分隊をRRに増派すべし 右輸送用として春日丸をPQBに派遣せしめらるる予定」との命令で、翌27日0545、24sf司令官は4AB電令作第九七号により、「第二部隊(一空の軍隊区分)はFGB電令作第七七号による零戦隊一個分隊(約十機)をRRに派遣し既派遣隊指揮官の指揮下に入らしむべし」と下令、30日春日丸は一空戦闘機10機を収容し、ラバウルに向けてタロア出港、9月2日午後ラバウルに入港、派遣戦闘機隊の進出を完了し、5AB指揮官の指揮下に入っています。この10名は金子敏雄一飛曹、矢澤彌市、高橋 茂二飛曹、山口濱茂、森浦東洋男、中谷芳市三飛曹、中澤恒好、斎藤 章、谷津倉團治一飛、徳永辰男二飛で、うち2名が南東方面で戦死、生き残った8人は11月の台南空内地引き揚げに伴い、山下飛曹長ら第一次派遣隊の生存隊員とともに原隊に復帰しています。
    平山

  2. 平山さま

    詳細な情報を教えていただき、本当にありがとうございました!
    1空、千歳空はラバウル方面へ搭乗員・機体を送り込む、いわば「錬成部隊」のような働きもあったのですね。

    ところで、派遣隊機の部隊記号標記ですが、やはり直ちに台南空「V」に塗りなおされたと考えるのが妥当なのでしょうか?
    台南空の記録を調べると、5月25日にラバウルへ到着した第1次派遣隊隊員の初出撃は早くも翌日の26日に記録されており(ラバウル基地上空哨戒)、さらに27、28日にはラエ進発の大規模出撃(モレスビー攻撃)にも多数が参加しています。派遣後しばらくは原隊部隊記号のまま(1空=Z、千歳空=S)作戦していたという可能性はあったのでしょうか?※ 南西方面から台南空指揮下に入った3空派遣隊の機体写真を幾つか見たことがありますが、部隊記号「X」はそのままだったと記憶しております。

    非常に細かい事で恐縮でございますが・・・部隊記号標記の件で何か情報がございましたら、是非教えてくださいませ。
    OSA

  3. 残念ながら、私は皆様のように機番号に関して博識を持ち合わせておりませんので、書き換えられたのか、否かは何ともお答えのしようがありませんが、少なくとも24航戦派遣艦戦隊の派遣のケースと三空の派遣のケースでは事情が異なるように思います。
    三空の場合は派遣隊とはいうものの、飛行長榊原喜與二少佐が率いるグラウンド・クルーを伴ったものであり、戦闘詳報などの記録も自隊で行っており、おそらく兵舎なども台南空とは別のものが用意されていたと思います。
    台南空は確か完全な乗機固定ではなかったはずで、24航戦派遣隊員も自分たちが持ってきた零戦だけに乗っていたわけではないでしょう。とすれば、あくまで推測ですが、千歳空、一空時代の記番号をそのままにしておく理由はないようにも思えますが、いかがでしょうか。
    平山

  4. 平山さま

    当方のピント外れの疑問?にも説得力抜群のご意見をいただき、ありがとうございました。
    やはりここ(War Birds)は頼りになるところです!(感謝)
    OSA


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