937 今、岩本徹三氏の「零戦撃墜王」を読んでいるのですが、その中で気になった部分があり質問させていただきます。瑞鶴乗組時代の岩本氏が、内地に帰還後の昭和17年2月に「新機材の受領」として三菱から零戦三二型を受け取っています。その後、2月下旬には全機三二型に更新された旨の内容が書かれています。
この岩本氏の記憶だと、少なくともこの時点で瑞鶴戦闘機隊は三二型に全機更新されていることになります。しかし、その後の記録では二一型の存在が目立っており(三二型もいますが)全機が三二型で統一されていた時代は本当に存在したのでしょうか。
D4Y

  1.  母艦航空隊に零戦三二型が本格的に配備されたのは、南太平洋海戦の頃で、それも二一型との混合配備で、その後すぐに二一型に戻された様です(三二型の生産自体が昭和17年中に終了してますし)。
     ちなみに昭和17年2月は三二型の量産開始前ですから、少なくとも、この時期の瑞鶴戦闘機隊への配備は不可能ということになります。
     まあこれは岩本ノートの日付が正確ではないためですが。
    T216

  2. じゃあ、その「南太平洋海戦の頃」の零戦三二型がいつ瑞鶴に供給されたかというと、7月中旬の大分帰投から8月中旬の内地発までの時期だったと思われ(それ以前の分はほぼ台南空と二空行きになっていたはずです)、大分空に転出前の岩本氏がこの受領を行っていたとしてもうなずける話になります。
    おそらく第二次ソロモン海戦あたりですでに瑞鶴の零戦の一部は三二型になっていて、それは一個分隊分丸々くらいだった可能性も高いです。
    さらにその後10月にも瑞鶴はトラックで機材を受け取っていて、ここにも三二型が入っていたのではないかと思っています。


  3.  当時、翔鶴戦闘機隊におられた佐々木原氏の日記にも10月初めにトラックで二号零戦を受領し、慣熟飛行を始めたとの記述があるそうですから、少なくとも10月の補給時に三二型が一航戦に供給されたのは間違いないと思います。
     それ以前にも配備されていた様ですが、
    T216

  4. (続き)それがいつだったのかまでは、私には判断出来ません
    T216

  5. 二一型との混合配備ということは、三菱から三二型、中島から二一型が供給されていたのでしょうね。
    全機二一型に戻ってしまったときの搭乗員の心境はどうだったのでしょうか。

    御二方とも、ありがとうございましたm(__)m
    D4Y

  6. この時期の瑞鶴飛行機隊が機材の供給を受けることができるのは、内地かトラックでか、ということになるのですが、そうすると、
     7月中旬 内地
     9月5日からの寄港時にトラックで
     10月11日からの寄港時にトラックで
    ということになります。

    10月の場合は二航戦の母艦が内地から運んできた機材を受け取っています。

    9月の場合は、もしそこで機材の補給が行われていたとしたら、第二次ソロモン沖海戦からカビエン派遣の際の損害を補てんする目的だったことになるのですが、しかし、9月から10月の間は艦戦隊の動きが低調で、機材の損失がほとんど見当たりません。9月に補充できていたとしたら10月には補充はいらなかったことになります。逆に述べれば、10月に機材の供給を受けているのは9月にはそれがなかったからではないか、ということになります。
    そこまでがすべて正しければ、10月以前の零戦の供給は7月下旬だったことになります。このときはそれまで母艦に載せていた艦戦隊は三河湾から陸上に返しています。鈴鹿で還納して新機材と交換するためだったと思うのですが。

    何か間違ってるかもしれないのですが、間違ってるようでしたらご指摘いただければ幸いです。


  7. とりあえず「沖」が間違ってますね……。


  8.  一航戦戦闘機隊30機のブカ派遣では、対P-400及びF4Fとの交戦時(新郷大尉非撃墜時)等の被害や事故で半数近くまで保有機が減っており、先の海戦での損害を加えると損害はほぼ2個中隊になるようです。
     その大損害の出た空戦は8月30日で、9月に補充機を運んだ雲鷹の内地出航直前にあたり、9月の一航戦補充艦戦数はこの大損害を考慮するには時間が足りませんから、9月の補充は第二次ソロモン海戦の損害を補填する程度と考えられます。
     とすると、10月にブカ派遣時の損害を補填する艦戦を補充する必要があることになり、実際に二号零戦が配備されたのではないかと推測出来ます。

    〉5.
     よく知られている様に、この時期の二号零戦は発動機の調子がいまいちで稼動率が低く、最高速度が主翼を補強した二一型と余り差がない上に、基地航空隊と母艦航空隊のどちらも長距離飛行を行う関係で、航続力のある機体を求める傾向がありましたから、20o機銃の携行弾数と高高度性能位しか優位点が無いと感じていたと
    T216

  9.  (続き)考えられる二号零戦より慣れ親しんだ一号零戦の方を好ましく感じたかもしれません(そもそも二号零戦に変わったことを記憶している搭乗員の方が余りおられません)。
     尤もこういった評価は時間と共に変化して、昭和18年になるとラバウル航空隊は一号零戦より二号零戦の補給を望む様になっていますし、高高度性能が悪く、火力も無い二一型でラバウルに行くのは自殺行為だと記述が零戦撃墜王にあります。
    T216

  10. 9月下旬の雲鷹の輸送は1航戦用ですが、これが10月に補給される分です。
    9月上旬のはトラックで入出港がほとんどすれ違いになっているような気がします。
    その時点で雲鷹が運んできた機材は、時間が無くて1航戦の空母は受け取れてないような気がするのですが、どうなんでしょう。


  11.  雲鷹の入港が9月9日で、瑞鶴の出航が9月10日。
     確かに受け取る時間はなさそうですね。
     とすると、9月の出撃時、一航戦戦闘機隊は定数を大きく割り込んだ状態だったと考えられますね。
     ブカ派遣組は帰還した搭乗員もことごとくデング熱にやられていたそうですし。
    T216


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