リノレース今昔(2) リノ・熱狂の90年代とその後



ダリル・グリネマイヤー(Darryl Greenamyer)は1936年生まれ、元米空軍パイロットで当時はロッキード社のテストパイロットとして勤めていました。自身のことをあまり語らない人なので、何が彼をエアレースに駆り立てたのかはわかりません。とにかく1964年の第一回リノ・エアレースにはほとんどストックの大戦機が並んだなかで、彼のF8Fベアキャット…後に「コンクエスト・ワン」の名で知られることになるN1111L…はキャノピーを頭一つぶんの超小型水滴キャノピーに換装、主翼折り畳みを廃して固定、大直径のA-1スカイレイダー攻撃機のプロペラに換装、油圧系を取っ払い脚の引き込みを1回きりの液体窒素駆動にして軽量化を計るなど、本気で優勝を狙いに行くレーシング仕様にカスタムされていました。カスタムの効果は目覚しくグリネマイヤーのNo.1はトップでフィニッシュラインを切りますが、プロペラを摺らないため最大伸長位置で固定した脚や視界の悪い水滴キャノピーで土埃に包まれた未舗装滑走路に降りることを嫌った彼は主輪だけ接地して再離陸、舗装滑走路を持つリノ・タホ空港に着陸したことで失格判定となり、第一回リノ・エアレース優勝の座はミラ・スロヴァクに奪われることになりました。



しかし翌65年以降、グリネマイヤーのベアキャットは圧倒的な強さで連続優勝を飾ります。そしてグリネマイヤーに挑戦すべく68年にはチャック・ホールがレーシング・ムスタングの開祖となるNo.5「ミス・RJ(後のレッド・バロン)」を投入、69年にはライル・シェルトンがR-3350を積んだF8F「エイブル・キャット(後のレア・ベア)」で出場…それから後は毎年のように顔ぶれが変わりながら、アンリミテッド・クラス出場20数機のなかで3〜4機が極端な改造で本気優勝を狙いに行く、というリノ・アンリミテッドのパターンが定着します。

リノ・アンリミテッドが最も盛り上がったのは90年代、ビル・ディスティファニーのレーシングムスタングNo.7「ストレガ」と、ライル・シェルトンのNo.77「レア・ベア」が毎年ほぼ交互に優勝していた時代でした。ダリル・グリネマイヤーの持つ通算7回、最大5年連続優勝の記録をどちらが先に抜くか、いずれにせよ時間の問題だろうという熱戦が繰り広げられました。87年から97年までにストレガが通算6回/最長連続3年、レアベアが通算4回(73,75年を含めて通算6回)/最長連続4年の記録を達成、あと1回でグリネマイヤーの記録に並ぶというところで、二人とも身辺のトラブルでエアレースどころではなくなってしまい、98年からはしばらくNo.4「ダゴ・レッド」の連勝が始まることになります。



1940年代クリーブランド時代にはスクラップ価格で叩き売られていた大戦機は、70年代には「これはひょっとして、凄く価値のあるものではないか?」と認識されはじめ、90年代には保存程度の良い大戦機の相場は一機百万ドル(約一億円)にまで高騰していました。そんななか、主翼を切り詰めキャノピーを換えてエンジンを弄り、定格の2〜3倍もの馬力で運転してはしょっちゅう吹っ飛ばして不時着・損傷・たまに墜落全損させるリノ・エアレースは「貴重な大戦機を切り刻んではぶっ壊すとんでもない連中」と批判されるようになっていました。
「遺産破壊者」としてエアレース批判が高まった90年代には、幾つかの新しい試みがなされました。カーボンコンポジット製の新造エアフレームに自動車用のエンジンを積んだNo.21「ポンド・レーサー」。エンジンはマーリンだけどエアフレームはまっさらの新造設計機No.18「ツナミ」。ジェット機も含めた既存機の部品を寄せ集め徹底した空気抵抗削減で無茶な高ブースト運転をせずとも上位入賞できることを狙ったNo.38「ミス・アシュレイII」。リノ・エアレースの未来に新たな可能性を示そうとししたこれらの機体はしかし皮肉なことにいずれも短命、しかも3機ともパイロットの墜落事故死という最期を迎えてしまいます。この3機以外にも幾つか類似のプロジェクトはあったのですが、1999年に「ミス・アシュレイII」が失われた後は新造レーサーは1機も進空していません。



21世紀に入ると、リノ・エアレースには数々の受難が訪れます。まず2001年9月11日のハイジャック・テロ事件はリノレース開催数日前のことでした。この事件によって民間機飛行禁止令が緊急発令され、エアショウどころではなく64年以来初めての未開催となります。2008年のリーマンショックは、大戦機を所有する多くのオーナーに経済的打撃を与えました。2010年は最終日曜日に強風に見舞われまさかのゴールド決勝中止。そして翌2011年、練達ジミー・リーワードの操縦するNo.177「ギャロッピング・ゴースト」が金曜日の予選で観客席に墜落、49年のクリーブランド以来2度目となる巻き添え死亡事故を起こしてしまいイベントは中断。被害者・遺族への補償金や跳ね上がった保険料の調達などの金銭的問題、以前から「睨まれていた」連邦航空局(FAA)との折衝、空港周辺の住民やリノ市との折衝など問題が山積し、翌年以降のイベント継続も危ぶまれる大問題となりました。

2012年以降もリノ・エアレースが続いているのはひとえに関係者の熱意と尽力、そんな彼等に熱い声援を送る(そしてリノ市に少なからぬ収益をもたらしてくれる)ファンの応援があって、辛うじて続いている状態に近いものがあります。だから私は2012年以後も「アンリミテッドのあるリノ・エアレース」が存続したことには喜んでもいますが、その一方で一体いつまでこれが続けられるのか不安にも思っています。機体の維持費や保険料の高騰・機体および出場者の高齢化・先細りになっている新規世代の参入・そして観客の減少という、2011年以前からあった兆候が事故によって加速された一方、「再開できた」ということは現状維持だけで、未来に向けての回答を示せたわけではないのですから…。

というところで、リノの始まりから現在までをまとめてみました。次回はいよいよリノの未来について考えてみます。


[リノ・エアレース] [目次]