支柱・張線支持の薄翼単葉戦闘機で、ボーイングP-26や中島キ-11などと同じようなコンセプトに基づく。
もともとの構想はチェーザレ・パラビチーノ技師の手になるものだったが、パラビチーノがブレダを辞めてカプロニ・ベルガマスキに転職してしまったので、ブレダではアントニオ・パラーノ技師を据えて計画を継続させることとした。
本機の外見はP-26に良く似ているが、もともとはトラベルエア・モデルR「ミステリーS」を参考としたものである。
このため、胴体は全金属製(鋼管骨組に軽金属薄板張り)だが主翼及び尾翼は木製である。
原型機は1934年中に3機が作られたが、1号機・2号機は胴体側面は平らで、主脚スパッツは小さく、操縦席は主翼後縁よりも後ろにあった。エンジンカウリングもタウネンドリングではなく、より長いカウリングであった。
つまり、より高速を狙っていたわけだが、戦闘機としての機能には問題ありとされ、原型3号機では操縦席位置はずっと前進して位置も高くなり、胴体は楕円断面、スパッツは大型化され、カウリングは通常のタウネンドリングとなった。また、主翼後縁付け根に切り欠きが設けられたが、これは後下方視界を増やすためである。
発動機はアルファ・ロメオ製のジュピターで、原型1〜2号機はIVをつけていたが原型3号機はVIにバージョンアップさせている。
武装は胴体側面からシリンダ間を通して発射されるブレダSAFAT7.7ミリ2挺であった。
1936年になり、原型3号機は第86スクァドリッリアに配備されて、アラートに就きつつ同時に試験を行うかたちで審査が行われた。
結果は、キ-11と同じような理由で落選となった。CR32という超傑作複葉戦闘機の牙城には、到底この程度の単葉機で太刀打ちできるものではなかったのである。
ブレダは開発資金回収のために中国に本機を売り込み、とにかく何でもいいから戦闘機が欲しい中華民国はすぐに18機を発注したが、1937年に納入されたのは11機のみで、1938年になってソ連からの援助が入り始めたところで残りはキャンセルとなった。
実戦での活躍はほとんどわかっていない。日本側の記録にあるP-26の何機かはもしかすると本機なのかもしれない。
全幅 | 10.70m |
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全長 | 7.60m |
全高 | 3.40m |
翼面積 | 18.85m2 |
自重 | 1,260kg |
全備重量 | 1,790kg |
武装 | 7.7mmブレダSAFAT機銃*2 |
発動機 | ブリストル(アルファ・ロメオ)・マーキュリーVI 空冷星型9気筒 645馬力 |
最高速度 | 380km/h(5,000m) |
巡航速度 | 335km/h |
実用上昇限度 | 9,000m |
航続距離 | 750km |
乗員 | 1名 |